イギリス爆撃機軍団出撃日誌(17)爆撃と火災
10月29日の戦艦ティルピッツ攻撃には、特別改造で滞空時間を伸ばした映画撮影用ランカスターが随行したのですが、トールボーイ爆弾は印象的な命中を得られず、不調に終わりました。しかし同様の攻撃が11月12日に試みられ、トールボーイ少なくとも2発、あるいは3発によってティルピッツは横転しました。動画も転がっていますが転載関係不明なものが多いので直接リンクは控えます。
Operation Catechism
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Catechism
9月から始まったアーヘンの戦いは、市内最後のドイツ軍集団が10月21日に降伏してようやく幕を閉じました。しかしここは「下流域でライン西岸に張り出したドイツ領の端」なのであって、一番近いライン河畔の街ははるか東のケルンなのです。ここをラインへの侵攻路とするには、東に広がる森林地帯からドイツ軍の脅威を追い出す必要があり……もうお分かりですね。損害多くアメリカ軍人から恨み言の絶えなかった「ヒュルトゲンの森の戦い」とは、ライン川への進撃路確保戦であり、結果としてはここをアルデンヌ攻勢(の失敗)まで粘られてしまったわけです、11月16日には、アーヘンから見て北東方向で交通の結節点である3つの街、Heinsberg、JüchenおよびDürenに爆撃機軍団から1188機が向かいました。呼応してアメリカ第1軍と第9軍が前進する手はずでしたが、悪天候と砲弾不足で計画通りの前進はできませんでした。
人造石油と製油所を狙い続けたアメリカ第8空軍は1944年5月から、ライプチヒ西部郊外のロイナ工場をたびたび爆撃してきました。ここはもともと第1次大戦のとき、当時の有力企業が合同で火薬工場を作ったところでしたが、多少組み合わせは違っても国策企業IGファルベン社に引き継がれ、最重要の人造石油工場のひとつでした。ドイツも対空砲の広域的配置の中でライプチヒ一隊の重要工場を「中部ドイツ対空砲地帯」としてカバーし、爆撃機乗りたちは「対空砲通り」とか「対空砲地獄」とか、いろいろな異名をつけました。
Mitteldeutscher Flakgürtel(中部ドイツ対空砲地帯)
https://de.wikipedia.org/wiki/Mitteldeutscher_Flakg%C3%BCrtel
イギリス爆撃機軍団はアメリカに遅れて、12月6/7日夜からこのロイナ工場上空に踏み込みました。しかし間もなく悪天候とアルデンヌ反攻が相次いでやってきたので、この爆撃自体は相当な被害を地上にもたらしたと言われますが、その後の展開は少し遅れることになりました。
12月16日から始まったアルデンヌ反攻でしたが、作戦地域は悪天候の中で介入しようもなく、爆撃機軍団は狙える目標をいつものように狙い続けました。24日にはデュッセルドルフやエッセンの小規模飛行場が目標に含まれましたが、空輸などを妨げる意図のものかは記録されていません。26日、ようやく現地の天候が回復し、アメリカ軍が脱出したばかりのサン・ヴィットを目標として爆撃機軍団が出動しました。爆撃機軍団の前線への介入はこの時だけで、また燃料工場や操車場の目標リストに戻りました。1月14/15日のロイナ、16/17日のチェコ領モスト(ドイツ名はブリュ)は戦後の尋問で、シュペーアが燃料生産に最後の一撃となった爆撃のリストに入っています。
※モスト周辺は沼地で、中世から多くの橋によって生活が支えられていました。そこでドイツ人たちが「橋の街」Brüxと呼び、チェコ語で橋を意味するMostに呼び換えたのが今の名前なのだとか。
1945年2月、第21軍集団(カナダ第1軍ほか)・アメリカ第9軍・アメリカ第1軍は一斉に、ライン川/ワール川まで進出する攻勢をかけました。そのうち第21軍集団担当分をOperation Veritableと呼びましたが、ドイツ側防衛拠点のゴッホ(すでにドイツ領)と北隣のクレーヴェを2月7/8日に爆撃機軍団のそれぞれ464機・305機が襲いました。あとでイギリス第30軍団のホロックス軍団長(マーケット・ガーデン作戦以来)が、榴弾投下が多すぎて道路が破壊されたことに文句を言うほどでした。
参照: 150頁「ヨーロッパ戦域の終結:1945年」[事実上ドレスデン爆撃を扱った地図]
悪名高いドレスデン爆撃は、2月13/14日に起きました。都市爆撃の国民士気へのテラー爆撃的側面が、おそらく薄々は「効いてない」認識はありつつも続行され、そのためにこの印象深い爆撃が反対なく実施されてしまったものでした。すでに戦況は制御されたプロパガンダでなく、フリーハンドに近いものを得た大手メディアの伝えるところとなっており、そこではテラー爆撃など(すでに優勢であることにもかんがみ)支持を得られないのでした。
おそらく第2次大戦期イギリス戦略爆撃の軍事的意思決定としては、この時期後に語るべきものはないでしょうから、この連載はここで閉じたいと思います。また新たな趣向でお会いしましょう。




