落とされるなら護衛をつければいいのに
途中参戦した国や勢力が、その戦争序盤から明らかだった戦訓を自分のものにしておらず、同じ失敗を繰り返してしまう例は史上いくつかあります。ですからアメリカ戦闘機がドイツ上空に行ける性能を持っていなかったのは首脳陣がアホであった可能性はゼロではないのですが、たぶんそれよりも、実際の戦闘機に増槽をつけようとすると、燃料パイプを機内に引く再設計と生産ライン対応が必要だったからでしょう。
おそらく英独の航空戦を見たアメリカ陸軍航空隊はアリソンエンジンのP-47Aを含む軽量戦闘機開発計画をいくつかキャンセルして、大出力エンジン・重武装のP-47戦闘機|(の2000馬力エンジン版)に期待をかけました。ドイツや日本と違って夢の2000馬力エンジンはプラット・アンド・ホイットニー R-2800(ダブルワスプ)としてちゃんと完成し、設計陣はその高性能を12.7mm機銃8丁の重武装と、高速・高空性能を向上させるターボチャージャーに振りました。機内燃料タンクも当時としては大きなものでしたが、「ユニバーサル」パイロンとして燃料パイプのつながった翼下爆弾架がつけられ、3つの落下増槽をつけてドイツ上空に出撃できるようになったのは、1943年の秋でした。もっとも、ベルリンまでアメリカ戦闘機が飛んで行ったのは1944年3月3日のP-38Hが最初でした。
55th Operations Group(前身の55th Pursuit Groupから最初のベルリン到達機が出た)
https://en.wikipedia.org/wiki/55th_Operations_Group
そして有名なP-51D、"マーリン・ムスタング"が登場しました。アリソンエンジンをマーリンエンジンに代えていきなり活躍した印象は欧米でも強いのか、それを提案したのは誰かというストーリーがいくつかあるようですが、もともとイギリスからノースアメリカン社へのアプローチで始まった開発計画なので、いずれ誰かがそれを試したでしょう。爆撃機護衛役のP-47やP-38は順次P-51Dと入れ替わり、ドイツ戦闘機と撃ち合いました。戦略爆撃を担当するアメリカ第8空軍は、地上支援や近距離爆撃に任じる第9空軍の分までP-51Dをもらって代わりにP-47などを渡したので、ますますP-47に地上攻撃機の印象がついたかもしれません。結局、重戦闘機に賭けたアメリカ陸軍航空隊は、P-51Dまでは揺り戻したということですね。
P--51Dの登場は劇的であったかもしれませんが、連合軍の航空優勢奪取はドイツ戦闘機部隊のゆっくりとした消耗の後に得られたもので、即時ではありませんでした。少なくとも、鈍重な28cmロケット弾発射機は欧州の空から早々に追い出されてしまいました。
Dデイを控えて、操車場や鉄道橋など交通網を叩くべきだという意見は、戦略爆撃の発想として珍しいものではありません。1942年8月にアメリカ第8空軍が最初の爆撃目標としたのもフランスの操車場でした。「イギリス爆撃機軍団出撃日誌」は、そうした優先目標の切り替えが爆撃機軍団について起きたのは、1944年4月1日だと考えておくのが現実的だろうとしています。爆撃機軍団には、上陸地点をカレーだと信じさせるために大量の爆弾をバラまく、ちょうどいい戦力がありました。スターリングとマーリン搭載ハリファックスです。より安全なフランスを狙うには好適でした。都市ではなく多少なりとも軍事的な目標を狙うこと、大作戦に参加することは、損耗に沈みがちだった爆撃機乗りたちの士気には良い材料でした。Oboeが使える範囲では、精密爆撃も可能でした。ランカスターを装備する第5集団はこの時期、Oboeの助けも借りてフランスで特に正確な爆撃成果を挙げましたが、低空で侵入するモスキートが落とすマーカーに依存していて、天気が悪いとダメでした。
フランスやベルギーに力点が移る副次的な効果として、ドイツ夜間戦闘機がボマー・ストリームに追いすがるツァーメ・ザウ戦法は利点を減じ、イギリスの損害はやや減りました。
戦略爆撃には巨大なリソースが集まっていましたから、アイゼンハワーの航空における代理者であるテッダー副司令官(イギリス空軍大将)が交通網爆撃や沿岸陣地爆撃に関する命令を出しても、第8空軍のスパーツにも爆撃機軍団のハリスにも独自作戦の余力は残っていました。特にスパーツの戦力は拡大し、前年のシュヴァインフルト空襲以来の航空機産業攻撃と並んで、航空燃料工場攻撃にも注ぎこまれました。
そしてここで大当たりが出ました。1944年4月から6月にかけてドイツの航空燃料生産が急減し、出撃に支障をきたし始めたことが連合軍に察知されたのです。ドイツは褐炭や重質油からガソリンなどを作り出す巨大なプラントを戦間期から建設していて、こうした石炭液化工場や、重質成分の炭素鎖を切って軽質成分に変えるクラッキングができる近代的な製油所が、航空燃料の供給元であったのです。
※現代でも使われるフィッシャー・トロプシュ法よりも、大戦中盤以降にはやや旧式なベルギウス法のほうがドイツ勢力圏での液化石炭生産量が多かったという戦後の調査があります。どうも予期せぬ大戦勃発で画期的な工場建設が企てられたものの優先順位管理がうまくできず、在来工場の能力拡張が相対的にうまくいった……ということのようです。
これにより、戦略爆撃部隊がアイゼンハワーとテッダーの手を離れた秋以降、航空燃料工場と製油所は集中的に狙われていくことになりました。
また、時計の針を進めすぎてしまいました。(主に)テッダーのもとでハリスが作戦した1944年4月から、次回はお話をしたいと思います。




