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イギリス爆撃機軍団出撃日誌(13)ベルリンはいつも雲の下

 ベルリン爆撃について今までのまとめ


・「都市爆撃で戦意を折る」のはドゥーエどころか前大戦から連綿とある発想。イギリスも含めて「爆撃で戦意が折れた」第2次大戦以前の例があるかというと、まあ、その。

・夜間の精密爆撃はペーネミュンデ爆撃のように、やってやれなくはないが実施困難(リソースが要るし結果は不確実)。精密ではない爆撃でできることを……で都市爆撃に行きついている面も。

・Oboeは圏外、H2Sは内陸なので読み取り困難でエラー多発。


 8月23/24日のベルリン空襲は、四発爆撃機710機とモスキート14機が参加しました。もうすでに約1000機爆撃です。損失は四発爆撃機ばかり56機(7.7%)でした。例によってマーキングの問題に加え、行程が遅れ気味になって計画より直線的なコースを取る機体が多く、人口のまばらな郊外に落ちる爆弾が増えました。それでもベルリンの官庁街や住宅密集地に落ちた爆弾が、死者854人(郊外の村々で出たわずかな死者を除く)など相当な被害を出しました。防空壕への避難者は概ね無事で、その点を取れば損害軽微とも言えました。


 8月31日/9月1日のベルリン爆撃では、パラシュート付きのフレアがドイツ機によって爆撃機のコース上に落とされ、特にヴィルデ・ザウ戦術を取る単座戦闘機を助けました。JG300~302を束ねる第30戦闘機師団の直轄部隊として、III./KG3(第3爆撃航空団第III飛行隊、Ju88A爆撃機装備)が配属され、補助照明飛行隊(Behelfsbeleutchtergruppe)と呼称されました。その3個飛行中隊は 「1. - 3. Beh.Bel.St.」と呼ばれたそうですが、St.はおそらくStaffelで、規模は明らかでないが飛行中隊より大きくはない「隊」についてよく使われた呼称です。例えばそれぞれの航空団にはたいてい本部直属のStaffelがあって、輸送機や連絡機に混じって司令たちが出撃するための機体もありました。


Wilde Sau. (Behelfsbeleutchtergruppeについての解説あり)

https://www.gyges.dk/Wilde%20&%20Zahme%20Sau.htm


 1944年2月、この飛行隊は丸ごと第7夜間戦闘航空団に移籍して、夜間戦闘機部隊になってしまいます。ドイツ爆撃機が空で生き残りにくい戦況になったので、双発爆撃機部隊のパイロットは双発機であるMe262ジェット戦闘機への転換訓練を受けたり、夜間戦闘機に乗ったりしました。


 完全に余談になりますが、これと並行して爆撃機乗りを育ててきた教育部隊があちこちで閉鎖され、それらの人員を中心に「空軍要塞大隊」が数十個編成されました。これらの半分ほどは降下猟兵師団を補充するために使われ、残りは無原則に陸軍部隊に配属され、事実上の補充兵として提供されました。中には単独で防衛任務につけられ、なまじ教材のMG13軽機関銃を多く持っていたので見逃してももらえず、壊滅した例もありました。


 8月31日/9月1日のベルリン爆撃に話を戻すと、フレアの効果もあって今回も爆撃機の損害は大きく、爆弾も多くが市街に落ちて地上の被害は軽微でした。


 10月8/9日のハノーファー空襲が、ウェリントンが爆撃機軍団として出撃する最後となりました。ベルリン空襲の合間に、ドイツ各地とフランスのドイツ陣地や工場所在地が爆撃され、Oboeの圏外では結果は相変わらずまちまちで、しかし爆弾量が多いのでたまたま弾薬庫などに火が回って大きな損失を引き起こす(またその火災が後続機の投弾を導く)こともありました。以前触れたように、スターリングは高高度を取れないことから他の重爆撃機の集団から下に外れる位置になり、狙われて損害を引き受ける傾向があったので、主要な作戦から外すことになったのもこのころでした。ハリファックスもエンジン開発停滞の急場をしのいだマーリンエンジン搭載型から、1943年にハーキュリーズエンジン搭載型に切り替わると、パワーで劣る旧型ハリファックスはスターリングに次いで狙われるのが目立ち、順次退場が始まりました。これらにより、250機もの四発重爆撃機が「型落ち」とみなされたのはハリスの戦力を大きく減じました。


「イギリス爆撃機軍団出撃日誌」は、1943年秋から初冬がドイツ夜間戦闘機の成功した時期であることについて、面白いコメントをしています。ヒンメルベット方式で各地の航空機誘導中隊が最大6機の夜間戦闘機を誘導していたころ、その「枠」は実績のあるベテランが占め続けていました。ところが統制の緩いツァーメ・ザウ方式になると、若いパイロットが一気に戦場に出てくることになり、もちろんその上澄みに限られるのでしょうが、(シュレーゲ・ムジークの助けもあって)頭角を現すパイロットが多かったのです。そうしたパイロットたちは大戦後に、むしろウインドウを天の助けと回想していると。


 そして夜が長くなり、ベルリン攻撃に適した季節が来ました。11月18/19日がベルリン攻撃の再出発となりました。この日から1944年1月30/31日までに、ベルリン空襲は14回続きました。どちらにとっても想像を超えるストレスでした。


 現代ドイツの研究者が見つけてくる、ベルリンの惨状についての秘密報告は、イギリスが想定していたより悪い地上の状況を示唆しますが、イギリス側にもはっきり記録されない爆撃機乗りたちの行状がありました。一部の爆撃機部隊にだけ不具合による途中帰還が多いとか、どうも爆弾の一部をわざと早く落として機体を軽く、生き残るチャンスを大きくしているようだとか。


 11月26/27日のベルリン空襲では、フランクフルト直前まで飛行してからベルリンへ転じるコースが指示されました。確かにこれはドイツの指揮官を惑わし、多くの戦闘機はフランクフルトを守るよう命じられたのですが、肝心の爆撃機隊が長い旅程と複雑な航路指示でいつもの密集を保てず、パスファインダーも正確な指示ができず、ばらけた爆撃隊にはわずかなドイツ戦闘機も脅威で、差し引きメリットは残りませんでした。


 このころから、夜間戦闘機を戦闘機で狩る試みも始まりました。第141飛行中隊は不運にもデファイアント戦闘機でバトルオブブリテンに参加し、スコットランドに引き揚げられて船団護衛任務などを担当していましたが、このころにはボーファイター双発戦闘機や夜間戦闘機型モスキートをもらって夜間戦闘機部隊になっていました。そしてドイツのリヒテンシュタイン機上レーダーを探知するセレート(serrate)システムを使って、大陸上空に進入してはドイツ機を食う任務に就いたのです。第141飛行中隊は爆撃機軍団に配属を変え、ドイツ戦闘機が爆撃機と間違えて寄って来るのを感知するよう尾部に逆探装置を取り付け、反転して返り討ちにしたのでした。まあ、あまり話題にならないということは、量的な成果はお察しと言えそうですが。


Serrate radar detector

https://en.wikipedia.org/wiki/Serrate_radar_detector


 ベルリンにおいて長い夜の季節は雲の厚い季節であり、H2Sが内陸の平坦地で当てにならないとすれば、爆撃は運任せになりました。ひとつ問題なのは、爆撃によってドイツ側の損害を集計し記録する能力が次第に損なわれ、ドイツ側の損害記録による「答え合わせ」が困難になっていったことです。


 今日では世界中で観察できることですが、とても耐えられそうにない状態に長いこと国民が置かれ、それでも支配者集団がしっかりと治安を維持しているために、国民の不満が政権交代をもたらさない国家や勢力はたくさんあります。イギリス爆撃機軍団が特定の技術と爆弾投下量の水準に達しているかどうかは、おそらく問題ではありませんでした。ソヴィエト大粛清の犠牲者たちの中には、「ああ、スターリンさえ自分たちに起きていることを知っていてくれたら」と嘆いた人たちがいたと読んだことがありますが、まあ、それに似たものです。間違いなく空襲の報告はヒトラーを不機嫌にしましたが、どんな損害報告もヒトラーを和平に傾かせることはありませんでした。それが空襲の報告であっても、同じことだったのでしょう。地方行政はNSDAP(いわゆるナチス党)に、警察は親衛隊に統合されていましたから、戦後に新政府で与党になれそうな人や勢力は、行政・治安組織のどこにもいませんでした。


 アメリカもイギリスも、戦略爆撃では当てが外れました。しかしそれはともかく、目前に大陸反攻が迫ってきています。それが一番大事……なはずが、忙しいときにこそ仕事が降ってくるものなのです。そしてドイツの昼間の空にも、重大な変化が起きていました。


追記:「あっそういえば」と思いついて調べてみると、IV号突撃砲を誕生させたアルケット社のIII号突撃砲生産設備被害は、1943年9月3/4日のベルリン空襲で生じたようです。その後、11月下旬の2回の空襲でも損害を受けました。アルケット社はもともとラインメタル=ボルジヒ社の戦車生産子会社のような存在で、工場はベルリン北西の郊外に広がっていました。戦後は生産設備の大半を失いましたが西ベルリン側で命脈をつなぎ、同じような西ベルリンの企業と合併するなどして、現在はDIAGという社名でエッセンに本社を置いています。事業内容をみると、大規模プラント開発業者になっているようですね。一時MAN社の子会社になったのですが、提携解消したようです。



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