シュヴァインフルトの落日
参照: 119頁「シュヴァインフルト空襲:1943年8月」
アメリカ第8空軍の欧州での戦いについては、旧作『士官稼業~Offizier von Beruf~ 』で取り上げました。
『士官稼業~Offizier von Beruf~ 』第44話 イタリアの夕焼け 第45話 飴と鞭
https://ncode.syosetu.com/n6209gw/45
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お若い方は1990年の映画『メンフィス・ベル』なんかご存じないでしょう。史実のB-17爆撃機メンフィス・ベル号に乗ったクルーたちは、1942年11月から1943年5月に25回出撃して生還し、「重爆で25回出撃して生き残ったら本国勤務」という当時のアメリカ陸軍航空隊のルールで帰国し、戦時国債を買ってもらうキャンペーンのために全国を回る人生となりました。アメリカ第8空軍は当初はフランスなどの近場に出動していましたが、1943年1月からドイツにも護衛戦闘機なしで出撃するようになり、メンフィス・ベル号も8回ドイツに行って生き延びています。
アメリカ陸軍航空隊も開戦当時のイギリス空軍同様、「戦闘機無用論」のバリエーションを信じており、緊密な編隊と機銃による防御で爆撃機の損害は局限できると思っていました。模型ファンの皆様は、B-17にだんだん機銃座が増えていく様子をご記憶かもしれません。頑張ったのですが機銃や防弾板だけではダメでした。B-24は様々な撃たれ弱さを抱えていて、航続力を生かして1943年8月1日のルーマニア油田爆撃作戦(タイダルウェーブ作戦)に投入された177機のうち、50機以上が撃墜、またはトルコ領不時着により乗員が抑留され、チトーのパルチザンに確保された乗員すらおり、リビアにまっすぐ帰ってきた機体は途中で引き返した14機を除いても88機でした。あとで帰ってきた機体や乗員もいたのでしょうが、損害4割と言われても仕方のない戦果でした。※出動機数など細部の一致しない著作が複数あるようです。
タイダルウェーブ作戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%96%E4%BD%9C%E6%88%A6
1943年2月以降、米英の戦略爆撃目標をすり合わせる協議が続きましたが、戦略爆撃で作り出せる重要なボトルネックは何か、容易に一致はしませんでした。とくにイギリスは事実上、夜間の精密爆撃は困難であったので、ドイツの士気を折るテラー爆撃を指向していて、特定のボトルネックに集中しようという話に比較的不熱心でした。
とくに連合軍再上陸を控え、ドイツ空軍の地上での撃滅に対する(それが何かはわからないがとてもすごい)断固たる措置をアメリカは求めたのに、イギリスは(あまり熱心には)共鳴しませんでした。イギリスはあの手この手でドイツ戦闘機を追い散らすことに最近やっとめどがついてきたのですから。撃滅などできるものなら自分でやっています。
そこでアメリカが自分たちだけでやって見せようとしたのが、8月17日と10月14日のシュヴァインフルト空襲でした。シェアの高いボールベアリング工場があり、これを破壊すれば航空機産業は重要部品を欠いて行き詰まるはずだというのです。8月17日にはメッサーシュミット社の工場があるレーゲンスブルクとの同時攻撃が行われ、その反省を踏まえて、ドイツ防空戦闘機が全部集まってくるとしてもシュヴァインフルトに全爆撃機を向けたのが10月14日の空襲でした。
だいたい8月17日から10月14日まで途切れたのも、376機を送り出して喪失50(13.3%)、損傷多数という惨状の後始末にアメリカですら時間がかかったのであり、10月にはB-17を291機しか出せず、29機のB-24を加えるありさまでした。
※『航空戦戦況図解』のキャプションにはだいぶ違う撃墜機数が書かれていますね。
そして結果は、60機喪失、着陸時全損17機でした。生産能力への損害は大きなものでしたが、ドイツの航空機生産に目立ったボトルネックは表面化しませんでした。分散疎開、代替品、在庫とあらゆる対処で何とかされてしまったのです。
ドイツがこのころ始めた、陸軍の28cmロケット弾を戦闘機から撃ち込んで緊密な爆撃機隊形を崩す戦法も大きな影響を与えました。そしてこのころ、ドイツ空軍は地中海戦域から戦闘機部隊をほとんど引き上げて、本土防空に回してしまいました。戦略爆撃や潜水艦戦のようなリソース破壊戦は、それへの対応も含めて、どこかにしわが寄ってしまいます。だから例えば1944年のバグラチオン作戦が一方的になったのも、急変に回せる予備戦力をもうすべて抜かれていたためとも評することができるのです。
少し先の話をしてしまうと、アメリカ陸軍航空隊のドイツ航空産業壊滅へのこだわりは、もちろんドイツ側に大きな負担となっていましたから、そちらのほうで政治的な動きがありました。Jägerstab(戦闘機本部?)というのはまことに訳しにくい名称で、その実態はというと、戦闘機生産を(空襲被害復旧と分散疎開を念頭に)空軍省の外からコントロールする、シュペーア軍需大臣の主導する委員会なのです。もともとヒトラーやゲーリングは爆撃機の生産を減らしてまで(防衛兵器である)戦闘機の増産を図ることに消極的でしたが、そうも言っておれなくなった状況をとらえ、シュペーアがミルヒの協力を得て主導権をゲーリングから奪ってしまったのです。1944年2月に生まれたこの組織はやがて航空機生産全体の戦時生産を司るようになり、軍需生産全体を管掌するRüstungsstab(軍備本部?)へと統合されていきました。
Jägerstab
https://en.wikipedia.org/wiki/J%C3%A4gerstab
イギリス空軍は夜間テラー爆撃に自信を深め、いよいよドイツの心を折るベルリン空襲へと向かってゆくのですが……




