イギリス爆撃機軍団出撃日誌(12)ハンブルクからベルリンへ
7月24/25日、27/28日、29/30日、8月2/3日の4夜にわたるハンブルク空襲は、日本語版Wikipedia「ハンブルク空襲」に詳しく述べられています。基本的には英語版「Bombing of Hamburg in World War II」の翻訳のようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E7%A9%BA%E8%A5%B2
https://en.wikipedia.org/wiki/Bombing_of_Hamburg_in_World_War_II
ですから細部を繰り返すことは避けて、まず記事に書かれていないことから書くと、夜間の爆撃による火災は朝になっても収まりきらず、アメリカ爆撃機隊は煙による著しい視界の悪さに悩まされました。記事にあるように、アメリカとイギリスが交互に昼夜を分かたず爆撃を加える計画でしたが、アメリカはすぐに手を引き、以後イギリスが目標とした都市をすぐに爆撃するのは避けるようになりました。
H2Sによる誘導は目論見通り(概ね)円滑でした。ウインドウ(チャフ)も効果的でした。ウインドウは地上のレーダーだけでなく、機上で至近のイギリス機を捕捉するリヒテンシュタイン・レーダーも妨害しましたが、やがてドイツ機のレーダー員は「妨害が特に濃いところに、チャフのまき手であるイギリス爆撃機がいる」と気付いたので、やられっ放しと理解すると誇張になるかもしれません。
被害が最大であったのは7月27/28日で、4万人が火炎に巻かれて亡くなり、120万人が避難しました。
ハンブルクが成功した後、まだ夜の短い時候でしたが、ウインドウへの対策が整わないうちにと、ハリスはベルリン攻撃を急ぎました。
これに先立ち……というべきですが、上から降りてきた爆撃目標がありました。V1号とV2号を隣り合った敷地で(V1号は空軍、V2号は陸軍)研究しているペーネミュンデ試験場のことが、様々な情報源からイギリスに伝わり、評価の結果、重要性は間違いなしとされたのです。
7月15日、三軍参謀総長とモリソン内務大臣(MI5の主務大臣)、チャーチルの科学顧問リンデマンが首相官邸に呼ばれ、ペーネミュンデを速やかに爆撃することで合意しました。
8月17/18日、四発機ばかり596機がペーネミュンデに飛び、研究施設という小さい目標を狙いました。危険な月夜が選ばれ、3つの重要建築物をパスファインダー部隊が順々に示すという高度な手順が試されました。異例なことに現地指揮官機が定められ、最初のパスファインダーが間違った建物を示したことに即座に気づいて、マーカーを立て直す処置がとられました。モスキート爆撃機がベルリンへの囮役を務め、ペーネミュンデに防空戦闘機が集まるのを遅らせました。1800トンの爆弾が落ち、ドイツの計画を遅らせ、イギリスは(主に、囮に気づいて戻ってきた夜間戦闘機により)作戦機の6.7%にあたる40機を失いました。奇しくもこの日は、ドイツ夜間戦闘機が斜め銃(シュレーゲ・ムジーク)を初投入した日でもありました。
8月18日朝、ペーネミュンデ空襲の報告を受けたイェションネック空軍参謀総長は自殺を遂げました。
8月23/24日、ハリスは待望のベルリン爆撃を再開しました。しかし今度もやはり、H2Sはハンブルクほどうまくベルリン中心部を探し当てられず、爆弾は周辺部に多く降って、空襲規模の割に死傷者は少なめでした。
カムフーバーがノルウェー赴任に先立ち、第12航空軍団長を離任したのは9月15日でした。根本的な事態好転の手を打てないまま、ドイツ空軍は静かに崩壊を始めていました。しかしここからわずかな期間、新参謀長コルテンが粘り腰を見せ……まあ、あまり保たずに押しつぶされるのです。しかしそうなると、シュヴァインフルト空襲をはじめとするアメリカ第8空軍の活動についてそろそろ語らないといけませんし、戦略爆撃目標の選定をめぐる米英の論争にも触れないといけませんね。




