イギリス爆撃機軍団出撃日誌(11)傾くバランス
イギリス爆撃機軍団にとって、1943年春は重爆撃機の量的充足、新技術の実用化、そして望むらくは空中・地上両方での要員熟練が揃った転換点でした。とはいえ春が来た以上、夜は短くなり(我々が知る西欧主要都市の多くは、日本の感覚では高緯度です)、遠方の都市は狙いにくくなる時期でした。3月初めから7月下旬にかけて、イギリス爆撃機軍団は大規模空襲の2/3を、Oboeの有効範囲内でもあるルール地方に割きました。ドイツの防空リソースを広く薄く散らばらせるため、それ以上の集中はできませんでした。
細部の進化は続いていました。Oboe装備のモスキート軽爆撃機がマーカー爆弾を落とすと、より大きな爆弾倉を持ったパスファインダー部隊の爆撃機が、色の違うマーカーを落とし、サーチライトや対空砲火が様々な光を放つ戦場でも、後続機がどれかのマーカーを視認できるようにしました。気象観測機型モスキートが昼間爆撃のアメリカ空軍とともに飛び、夜間爆撃のためのデータを集めるようになったのもこのころでした。
https://en.wikipedia.org/wiki/No._1409_Flight_RAF
この時期は、ルール地域((Oboe有効地域)での良い成果と、それ以外でしばしば起こる大誤爆が併存しました。
双発爆撃機が爆撃機軍団から姿を消して沿岸防衛軍団などに移っていきましたが、昼間爆撃をこなしてきた第2集団は地上支援を中心任務とする第2戦術空軍に移り、爆撃機軍団は夜間爆撃専門となりました。四発爆撃機が充実してきた結果、高空性能が低くて電波兵器全盛時代に向かず爆弾搭載量も少ないスターリングは次第に周辺的な任務に回され始めましたが、爆撃機型の生産打ち切りに至ったのはずっと後のことでした。
3月26/27日のデュイスブルク空襲はOboe有効半径内での珍しい失敗例で、パスファインダーのモスキートが次々に装置故障で引き返したせいでした。爆弾は散らばり死傷者もわずかでした。4月3/4日のエッセン空襲は3月以来3回目の成功したエッセン空襲で、クルップ社工場や市内中心部に損害が重なりました。5月4/5日のドルトムント空襲も四発爆撃機476機とウェリントン110機が群がり、中心部に爆弾が集まりました。5月24/25日には四発爆撃機だけで662機、総計882機が殺到し、ヘアシュ(Hoesch)社の製鉄所などが大打撃を受けて、ドルトムントは破壊十分として1年近く爆撃目標から外されました。3回失敗を繰り返したデュイスブルクも5月12/13日に中心部へ大量の爆弾が落ち、ティッセン社の製鉄所などが大きな被害をこうむりました。
5月16/17日に行われたルール地方のダム4か所への爆撃は、タミヤのランカスター爆撃機「ダムバスターズ」が1975年に発売されたときから(現行のものは2012年の新作)おなじみかと思います。19機のランカスター爆撃機が特製爆弾のために武装を取り外すなどの臨時改修を受け、4か所のうち2か所のダムを決壊させ、8機が失われ、その搭乗員56人のうち捕虜として生き延びたのは3人でした。日本語Wikipediaに熱のこもった記事があります(チャスタイズ作戦)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%BA%E4%BD%9C%E6%88%A6
ヴッパータール(Wuppertal)はエッセン・ドルトムントとケルンに挟まれた位置にあり、観光地として名前を聞くことはあまりありませんが、IGファルベン社の一部となったバイエル社の化学・製薬工場がありました。5月29/30日に719機による空襲がこの街を襲い、死者は様々に推計されていますが、「イギリス爆撃機軍団出撃日誌」は約3400人という数字を挙げています。6月24/25日には市街地の残り半分が狙われ、推定死者1800人と共に多くが焼かれました。何度か失敗したデュッセルドルフも6月11/12日に大損害を受けました。6月21/22日にはエッセン南西のクレーフェルトが、月明かりの残る夜で夜間戦闘機による損害が目立ったものの、市街地を焼かれました。翌日22/23日にはその隣り街であるミャールハイムも続きました。
6月28/29日に再びケルンが空襲される頃には、酷使が続いたモスキート部隊のOboeは故障が目立ち、機体そのものの不具合も合わせて、12機のうちマーカー爆弾を落とせたのは6機だけという有様でした。それでも608機の翼を連ねた空襲は死者4377人を数える惨事を起こしました。7月3/4日のケルン空襲は工業地帯を狙い、死者は588人でした。
この7月3/4日は、ドイツ夜間戦闘機の新たな戦術「ヴィルデ・ザウ」を実践する第300戦闘航空団(JG300)の母体となる「ヘルマン実験部隊」が出撃した日でした。ドイツ軍の探照灯、イギリス軍のマーカー、そして地上の火災といった光源が爆撃現場にはあふれているので、単座戦闘機で大戦前半の双発夜間戦闘機のように視覚に頼った迎撃をしようというのでした。すでに何度も言及したように、撃墜報告は一般に過大になるものですが、報告された初日の戦果は12機撃墜で、期待の持てるものでした。やがて簡易な電波探知機や無線傍受装置を取り付けたBf109戦闘機が彼らのために配備されました。
「ヴィルデ・ザウ」は、以前にも触れたように、ドイツ夜間戦闘機隊のヒンメルベット方式がイギリスの飽和攻撃に苦しんでいる現状に対し、爆撃機乗りのヘルマン少佐が提案したものでした。僚機との空中衝突を防ぐ手段が不十分で、深刻な問題でした。例によって後のことまで言えば、JG300に続いてJG301、JG302が創設されるほど戦果は評価された半面、昼間のアメリカ爆撃機迎撃にも駆り出されるようになり、量的劣勢の中に埋もれていきました。
ルール地方の主要都市が次々に焼亡したのを認めたハリスは、次の目標を示しました。7月から8月の10日間ほどで、ハンブルクは4回の大規模空襲を受けました。この都市はOboeが届かず、H2Sなら海岸沿いのわかりやすい地形だと思われました。イギリスはここでとっておきのウインドウ(チャフ、アルミ片)を投入しました。次回はそのお話から。




