カムフーバー夜戦帝国の興亡
ドイツ空軍が大戦中盤に敷いた対爆撃機防衛地帯カムフーバーラインは、ドイツ語ではKammhuber-Riegelとも称され、Riegelは一般的な言葉としては「かんぬき」、軍事用語としては進撃を妨げる防御施設を言います。
1940年7月17日に新設された第1夜間戦闘師団(1. Nachtjagddivision)には、これも新設された第1夜間戦闘航空団のほか、探照灯部隊や通信部隊が集められました。これが初代師団長カムフーバー少将の編み上げたカムフーバーラインの実体であったわけです。ただし高射砲部隊は地域を担当する航空艦隊などの指揮下にありましたから、高射砲の遅延信管について約束をして、戦闘機が味方撃ちされない高度を定める必要がありました。1941年に第1夜間戦闘師団は第12(XII)航空軍団に格上げされて、10月にはカムフーバーも中将に昇りました。夜間戦闘航空団も次々に増設されました。
第1夜間戦闘師団の発足したころから、そのもとに第201空軍通信連隊(Luftnachrichten-Regiment 201)がありました。おそらくもともとは普通の通信業務を行っていたのでしょうが、この連隊はレーダー運用部隊となっていきました。1942年末には、この連隊はオランダやベルギーを中心とする18ヶ所に航空機誘導中隊(Flugmelde-Leit-Kompanie)を持ち、夜間戦闘機を地上から誘導しました。
1942年5月、第1戦闘機師団(1. Jagddivision)が創設されたのを皮切りに、どんどん追加されるレーダー運用部隊と第XII航空軍団の間に挟まる戦闘機師団司令部が各地域の夜間防空を仕切りました。夜間戦闘機部隊も増えたので、夜間戦闘航空団と戦闘機師団のあいだに、地域割りの戦闘機部隊指揮処(Jagdfliegerführer)が置かれました。これら全体を、1943年新年に大将となったカムフーバー軍団長が率いていたわけです。レーダーが戦闘機による夜間防空の中心となって、サーチライト関係の部隊は1942年後半から順次指揮下を離れました。対空砲部隊は終始、カムフーバーの指揮下にはなかったのです。
暗号名「ウインドウ」で知られた、現代で言うチャフの使用が始まったのは1943年7月のハンブルク空襲でした。これにより、地上のレーダーで個々の爆撃機の位置をつかみ、1機ずつ夜間戦闘機をそこへ誘導する……というヒンメルベット戦術が封じられてしまいました。
戦闘機にレーダーを積む技術はドイツで実用レベルに達していましたが、地上のレーダーほど高性能ではありません。上記の戦闘機師団などが無線で敵状情報を流し、自分と敵の位置を知る手掛かりとして欧州一円にビーコンを設置し、イギリス爆撃機の「魚群」にまずできるだけ多くの戦闘機を殺到させ、あとは個々の機上レーダーで探して狩るという二段構えの戦法が編み出され、ツァーメ・ザウ(Zahme Sau)戦術として整理されていきました。従来に比べ、現場任せの出たとこ勝負ではあります。
ヒンメルベット戦術を捨てることにカムフーバーは反対したと言われますが、すぐにツァーメ・ザウ戦術のような代替案が現れたわけではありません。おそらくもっと大事な事情として、本土上空で生じた劣勢に対し、ゲーリング以外の誰かが責任を取らねばならなかったのでしょう。1943年11月、カムフーバーはノルウェー方面を担当する第5航空艦隊司令官にご栄転となりました。カムフーバーはついに、夜間防空への関与を封じられたのでした。ヒトラーは1945年2月に彼を呼び戻して「対四発機戦闘に関する特別全権」に任じましたが実戦力はもうなく、虚名に終わりました。




