イギリス爆撃機軍団出撃日誌(8)一千機の爆撃機があれば!!
何度か触れてきたように、イギリス沿岸防衛軍団は対潜機や救難機、そしてもちろん対艦攻撃機として多くの多発爆撃機を持っていました。第一線機として400機余りしか持っていないポータルの爆撃機軍団は、自分自身でも多くの教員と中習者を持ち、比較的安全な短距離任務(フランス沿岸の機雷敷設など)につけていましたから、沿岸防衛軍団から250機を借り受けてどうにか一時的に1000機の爆撃機を同時出撃させることができた……と思ったら、海軍がこの「転用」に横やりを入れました。ハリスは数合わせのために旧式機も訓練機もかき集め、どうにか耳触りの良い「1000機」を集めました。
そしてハリスは、国民に示せる成果が欲しいチャーチルとポータルの賛同を得て、ドイツに一大飽和攻撃をかけようとしました。ようやく整ってきたドイツ夜間戦闘機部隊は、地上のレーダー基地から個々の夜間戦闘機を誘導する方法(ヒンメルベッド方式)を取っており、特に飽和攻撃に弱いシステムでした。そして焼夷弾を中心とする都市爆撃では、大量同時投弾は消防活動も飽和させるはずでした。このために爆撃機部隊は位置と高度を各機に割り当てられ、同じ速度で同じ方向へ飛び、目標上空を通り抜ける時間を最小にとどめることを、自分たちの損害抑制のために命じられました。
満月と天候の都合で、ハリスが望んだハンブルクではなく、ベルリンとハンブルクの次に人口の多いケルンが目標とされました。1942年5月30/31日、爆撃は敢行され、数字が人単位まで刻んであるのでおそらくドイツ側の記録ですが、死傷者と焼け出された人々は合計で5万人余りでした。イギリス側の推計では、このあと人口70万人のケルンから、13万5千人~15万人が街を離れざるを得なくなりました。1047機を繰り出したイギリス空軍は41機を失い(損害率3.9%)、そのうち29機はウェリントンでした。出撃機数に占めるウェリントンは58%でしたから、喪失機の70%がウェリントンであったのは大きな数字です。出撃したウェリントンの50%が中習者部隊であったことが、この結果を生んだかもしれません。
満月の夜を無駄にせず、この大集団は6月1/2日と3/4日にエッセンとブレーメンを襲いましたが、ずっと小さな火災しか起こすことができませんでした。しかし国民の関心を引くことには成功しましたし、ボマー・ストリームと呼ばれる数百機による単一目標攻撃のフォーマットはこのとき始まり、洗練されていくことになりました。
6月25/26日夜、どうにかもう一度960機を集めたハリスはブレーメンを襲いました。雲が多く、少数のGee搭載機が投弾して火災を起こし、それを雲越しに見て他の機体は爆撃しました。風の強い日で、いったん火災が起きると広がり、1か月前のケルンに次ぐ被害が出ました。
5月30/31日から、次の転機が訪れる8月17/18日夜までの間、1000機は二度と超えないまでも大規模出撃をときおり交えて出撃が続き、ときには四発爆撃機だけで出撃する日もあり、ハムデンやホイットレーの出番は大規模出撃時や近場の目標に限られるようになってきました。しかしこの期間の喪失/出撃比はまた上がって4.3%となり、国民の話題になってせっかく上がった士気も冷え込みました。
ベルギーにあるサン・トロンの街は、フラマン語ではシント・トロイデンであり、日本人プレイヤーが複数在籍してきたサッカーチームで知られています。のちにこの地名とともに有名になるシュナウファー少尉は、地上レーダーの誘導で6月1/2日のエッセン空襲を迎撃して初撃墜を記録しました。同じBf110夜間戦闘機を駆るヘルムート・レント大尉が、夜間撃墜数34機(昼間を含め44機)で柏葉付騎士十字章を得たのは6月6日でした。
イギリス側にとってもうひとつの問題は、相変わらずのGee搭載機数の少なさでした。雲の上から投弾してほとんど外す夜がまだまだありました。次の転機は、この問題への解決策でした。ちょうどそれは、アメリカ第8空軍が戦略爆撃に加わる時期でもあったのですが、その影響は少し遅れて出てきたと考える方がいいでしょう。




