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イギリス爆撃機軍団出撃日誌(7)月は出ているか

 ピアース爆撃機軍団司令官は、もちろんバット報告書を深刻に受け止めました。反論は成功しませんでしたが、そのことは本人たちもわかっていたでしょう。爆撃機軍団はしばらくの間、戦略的なドイツへの痛打を脇に置いて、「爆撃の成功」を明確に示せるような、例えば対空砲による抵抗の弱い目標を選びがちになりました。方法論の正しさそのものが問われているのですから、それを間違いとまでは責められません。しかし好ましい結果は得られず、チャーチルと戦時内閣は決断を下しました。この間、バット報告書のことは極秘で、爆撃機乗りたちは積み上がる損害にいら立つことはあっても、何がピアースの地位を脅かしているのか知らされませんでした。例の1941年11月7/8日のひどい損失以降、1942年2月22日までの間、爆撃機軍団の今後について決まるまで抑制的に作戦せよと命じられたため、24時間当たりの出撃機数は53.3機と半分近くになり、平均喪失機数は4割ほどになりました。


 もちろんそんなこととはお構いなしに、オーキンレックはクルセイダー作戦を成功させてロンメルをエル・アゲイラまで追いつめ、日本は真珠湾攻撃を仕掛けました。ヒトラーはアメリカに宣戦し、アメリカ東海岸からカリブ海にかけて新たなUボートの狩場が生まれました。「Second Happy Time」の名で英語版Wikipediaに項目も立っています。


 まずピアースが1942年1月8日付で更迭されました。バット報告書が公開されないのですから、これは人事異動として処理され、東南アジア方面のイギリス空軍を統括する司令官として送り込まれました。部下であった集団司令のひとりが司令官代理となり、2月22日にハリスが任じられるまで務めました。ですから2月12日のチャンネルダッシュ(シャルンホルスト・グナイゼナウ・プリンツオイゲンのドーバー海峡突破)は、それを許したイギリス海軍・空軍の面目失墜ではあったのですが、爆撃機軍団をめぐる空軍や戦時内閣の大方針に影響は与えませんでした。むしろ爆撃機軍団は最終的に、この犠牲多き爆撃目標から解放され、すべてを望む目標に向けられるようになりました。


 爆撃機軍団をもっと戦術空軍的なものに変え、莫大なリソースのいくらかを他に転用することは、疲弊するイギリス戦争経済にとってそれなりに魅力的でした。しかしそうすると、イギリスは危険な上陸戦を経て前大戦同様の陸戦を重ねて、膨大な人的犠牲を被りつつドイツを打ち負かさねばなりませんし、当面上陸せずにドイツの国力を削りリソースを東部戦線から引き抜ける方法も、戦略爆撃以外にないのでした。夜間爆撃機を電波誘導する研究もある程度進んでおり、チャーチルは戦略爆撃を続けたいという空軍の申し出を認めました。


 しかし建物単位で狙っても当たらないことは事実です。ポータル空軍参謀総長(ピアース爆撃機軍団司令官の前任者でもあります)は、個々の重要施設でなく主要都市そのものを大規模爆撃の目標とし、焼夷弾を多用してドイツ国民、とくに労働者の士気を折るという構想を打ち出しました。もちろん参謀総長代理であったハリスも立案に加わったことは疑いありません。ただし戦時内閣の後押しで1942年2月14日に空軍省が出した「Area bombing directive」はこの名前で英語版Wikipediaに項目がありますが、爆撃機軍団司令官ハリスとしては、この指令は受け取って守るもので、自分が主導して編んだり変えたりできるものではありませんでした。


 ちょうどこのころ、アメリカ第8空軍のもとになる第8爆撃司令部が編成され、女学校を終戦まで閉校させて急遽立ち上げたロンドン西部近郊のドーズヒル空軍基地に前進司令部が設置されました。部隊そのものが進出し、爆撃作戦を始めたのは8月になってからでしたが。


 チャンネルダッシュはイギリス国民にとっても印象深く、ハリスはまずキールやウィルヘルムスハーフェンの爆撃から始めることになりました。2月26/27日のキール爆撃はグナイゼナウの艦首火薬庫を爆発させ、長い修理作業のあいだに廃艦と決まったので、結果的にはグナイゼナウの最期をもたらしました。


 3月1日現在、ハリスは夜間爆撃用の機体を469機持っていましたが、4発重爆撃機は4種類合わせて82機に過ぎず、一番多いのは221機のウェリントンでした。そしてこの3月、長い試作と試用を経て、待望の電波誘導システムGeeが実用品として部隊に届き始めました。といってもGee装備の先導機が目立つフレアを投下し、それを目印に投弾が行われるもので、まだまだ装備機はわずかでした。この先導方法は後続機が空中衝突するリスクもはらんでいました。ハリスは複数目標を一晩に選ぶのをやめて、短時間の集中爆撃を志向しました。


 3月3/4日、まだGeeは使われなかったものの、ハリスは1ヶ所への集中としては最大機数の235機をパリ近郊のルノー工場に向け、大規模なフレアの利用で正確な投弾を図りました。工場は4週間停止する打撃を受けましたが、フランス市民が死亡だけで367人と、新しい方針のもとで最初の大きな犠牲を出しました。


 Geeを使った最初の大規模爆撃は3月8/9日、エッセンのクルップ社工場に対する211機の攻撃でした。エッセンの汚れた大気が災いして、工場自体には爆弾は当たりませんでした。翌9/10日夜にもGeeの助けでエッセンに187機が飛び、エッセンに死者不明29人、それ以外に死者74人を出しました。


 エッセンにはさらに翌晩も爆撃があったのですが、このころは月夜が投弾の正確さに役立つことから、月の明るい時期に大規模爆撃が集中しました。3月13/14日にはもう月がありませんでしたが、フレアや焼夷弾による先導機の誘導がうまくいき、ケルンのいくつかの軍需工場が1ヶ月の操業停止に陥りました。今回も死者は主に住宅で出ました。


 ドイツは早くも対策を講じました。3月25/26日のエッセン空襲では、町から離れたところにドイツが焚いた偽フレアに引っかかり、254機が出動し貴重なマンチェスター5機を含む11機を失ったにもかかわらず、死者は5人でした。翌日もエッセンに出動したイギリス爆撃隊の行動は、おそらく最近のパターンにはまって読まれており、迎撃機と対空砲が115機のうち11機を落とし、死者6人に被害をとどめました。


 3月28/29日、満月の夜に襲われたリューベックは、キールよりさらに東にあり、途中までしかGeeで誘導できませんでした。建物が密集し道が狭い旧市街を中心として、234機による空襲は都市爆撃としては大きな成功を収めました。後日の航空偵察はもちろん、いろいろな断片的な情報から、被害の大きさはイギリスにも伝わりました。死者は記録により、312人とも320人とも言われます。


 4月5/6日のケルン空襲も、狙っていたKHD社(ディーゼルエンジンや農業用トラクターで知られ、RSO牽引車の生産も分担した)にはほとんど落ちず、263機の大規模出撃にもかかわらず損害はわずかでした。


 5月30日までに200機以上の同時出撃があと4回ありましたが投弾はばらつき、期待はずれが続きました。しかしハリスの名を歴史にとどめる爆撃は、5月30/31日に待っていました。


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