#9 嫉妬のヴィンテージ・ぬる燗
「なあ、みりあやろ?」
大井町の精肉店での熱気は、聞き覚えのある関西弁によって一瞬で凍りついた。背後から声をかけてきたのは、場違いなほど軽薄で屈託のない笑顔を浮かべた男だった。彼はみりあの大阪時代の幼馴染であり、元カレの男──「レン」だ。大井町の雑踏で偶然みりあの姿を発見し、声をかけてきたのだ。
「うそ、レンくん……⁉ なんでこんなとこにおんの⁉」
みりあは驚きのあまり、思わず昔のように気安く名前を呼んだ。嫌な別れ方をしたわけではないのだろう。純粋な驚きと懐かしさが勝り、二人は自然と会話を弾ませる。
「それはこっちのセリフや。今仕事で東京来てんねん」
「そうなんや」
「てか、隣の男前サンは?」
レンの視線に気づき、みりあはハッとして隣の拓海を手で示した。
「あ、紹介するわ。あたしの旦那の渋井くんやで」
「えっ‼ みりあ結婚したん⁉嘘やん‼」
レンが大げさに目を丸くして驚く。
「ほんまやで。あたしもびっくりしてん」
「はじめまして、渋井拓海です」
「あ、ども。レン言います」
二人は軽く会釈を交わしたものの、それ以上言葉が続くことはなかった。レンの意識はすぐにみりあへと戻り、拓海の存在もそぞろに、二人の地元の思い出話や共通の友人の近況報告で一気に盛り上がり始めた。その横で静かに缶ビールを持つ拓海の空気は、氷のように張り詰めていた。
みりあが自分と同じ〝くん〟付けで『レンくん』と親しげに呼んだこと。自分には入り込めない過去の時間を共有して無邪気に笑い合う姿。盛り上がる二人の会話の中で、拓海は終始、乾いた笑顔で軽めの相槌を打つ程度で、その双眸からは温度が完全に削ぎ落とされていた。
「あの……ふたりはどんな関係なんですか?」
拓海はあくまで大人の余裕を崩さず、口元に穏やかな笑みを貼り付けたまま、努めて平静な声で訊ねた。
「一応、付き合ってたよなぁ?」
レンが笑いながらみりあを見る。
「せやな。たしか二億年くらい前やったか?」
「なんでやねん。……てかみりあ、昔は俺がこういう渋い飲み屋に連れてってもめっちゃ嫌がってたのに、今は旦那サンとこんなとこ来てんねんな」
「いや、嫌がってたってわけやないけど……」
「変わるもんやなあ」
レンは拓海を値踏みするように見てから、あっけらかんと言った。その言葉に、拓海の肩がビクッと跳ねる。しかし、すぐに何かをぐっと飲み込むように奥歯を噛み締め、再び無表情な仮面を被る。
「それより、レンくんはどうなん?」
どこか気まずそうなみりあが、話を逸らすように聞く。
「独身や。今はめっちゃ仕事忙しいねん」
「何やってんの?」
「ほら、あのケーキ屋独立してん。今度三軒茶屋に三店舗目出すことなってん」
「ほんまに? あのケーキ屋ずっと続けてたんや」
「せやで。みりあの好きなチーズケーキもあんで。今度旦那サンと食べに来てや」
「絶対行くわ。な? 渋井くん、行こうや」
みりあは無邪気に拓海を振り返った。しかし、拓海の瞳は酷く冷え切っており、口元には微かな笑みすら浮かんでいなかった。
「うん、そうだね」
拓海のその一言は、明らかに絶対零度の拒絶の色を帯びていた。先ほどまで上機嫌でビールを飲んでいたみりあも、さすがに隣から発せられる尋常ではない空気に気がついた。
「……あっ! ごめん、ウチらそろそろ行くわ! またな、レンくん!」
「え、おう、ほなな」
さっきまでの楽しさはすっかり消え失せ、みりあはレンへの挨拶もそぞろに、逃げるように拓海の背中を追って足早に店を出た。
本当に、たわいもない偶然だったが──その日を境に、みりあに対する拓海の態度は、驚くほど冷たいものへと変わっていった。
大井町の一件から数日。家の中には、かつてないほどの重苦しい沈黙が横たわっていた。朝食のトーストを焼く音だけが響くダイニング。
「あかん。今日のコーヒー、ちょっと薄かったやろ?」
みりあが明るく声をかけても、拓海はスマホの画面から目を離さず、
「いや、普通だよ」
と単調に返すだけ。
また別の日。みりあが拓海の好物であるハンバーグを作った夜もそうだった。
「今日のソース、ちょっと赤ワイン多めにしてんけど、どう?」
期待を込めて覗き込むみりあに対し、拓海はナイフとフォークを動かす手を止めず、
「美味しいよ。ありがとう」
と、まるでAIのような感情のない声で返すだけだった。食事が終わると、目線を合わせることもなくそそくさと食器を片付け、自分の部屋へ籠ってしまう。
「……絶対、大井町の元カレのこと引きずってるやん」
原因は明白だったが、みりあは事を荒立てまいと必死に取り繕っていた。さりげなくいつもの空気に戻そうと、リビングで本を読む拓海の背中に向かって、できるだけ自然を装って声をかける。
「なぁ、今度の金曜日一緒にご飯行こうや」
「……いや、みりあちゃんだけで行っておいでよ」
拓海はページを捲る手を止めず、冷たく言い放った。
「なに、どうしたん? 最近ご飯誘ってくれへんやん」
「ごめん。仕事が忙しいんだ」
その感情の籠っていない言葉に、みりあの胸がざわつく。
「まさかやけど……この前のこと気にしてんの?」
拓海は落としていた目を少しだけ上げた。
「……この前のこと、って?」
「元彼のことや。絶対なんか、」
「いや、そんなわけないよ。気にすることなんて何もないだろ」
「じゃあなんでそんな態度なん? 目ぇ合わせへんし、話しかけても上の空やんか」
「疲れてるだけだよ。……少し、一人にしてくれないか」
パタン、と本を閉じ、拓海は深くため息をついた。全身から放たれる〝ほっといてほしい〟という強烈な拒絶オーラ。そこから先は、みりあが何を話しかけても「ああ」「そうだね」というぎこちない相槌しか返ってこなくなり、二人の会話は完全に途切れてしまった。
最初は戸惑いと多少の気まずさを抱えていたみりあだったが、そういえば、少なくとも二週間に一回はあった拓海からのお店の誘いがなくなっている重要性に気がついた。
「これって……ほんまにやばいんちゃう?」
ソファの上でゴロゴロと転がりながら、みりあは事の重大さにようやく直面していた。
『みりあちゃん、今日は君にぴったりの……』
いつもならウザいくらいのウンチクと共に誘ってくる拓海が、完全に沈黙している。ただ拗ねている状態を通り越し、これは完全なる『拒絶』だ。
「もしかして……愛想尽かされた?からの、別居?からの……まさか…………離婚⁉」
最悪の二文字が脳裏をよぎり、みりあはガバッと跳ね起きた。
「あかん‼ そんなん、絶対あかんて‼」
あんなに顔が良くて、優しくて、家事も完璧で、ちょっと面倒くさいけど自分を一番に扱ってくれる最高の旦那……絶対に手放すわけにはいかない。
「おまけにシャツ越しでもわかるあの引き締まった広い背中も、手入れされた綺麗な長い指も、あたしだけのものやのに……!」
正直なところ、みりあには何の落ち度もない。それでも、失うかもしれないという強烈な焦りと不安は、やがて特大の闘志へと変わっていった。
「……よし、わかった。そんなに殻に閉じこもるんやったら、力技でこじ開けたらええねんな」
みりあはベッドの上であぐらをかき、ふんぬ、と鼻息を荒くした。攻めるべきは奴の得意フィールドしかない。
「あのボロ店オタクがぐうの音も出んくらいの店に引っ張り出して、無理矢理にでも笑かしたる。絶対に見つけたる……。渋井くんが文句言えんような、究極の場所を‼」
みりあは一人、固く拳を握りしめた。
◇ ◇ ◇ ◇
それから数日、みりあは日中の空き時間をすべて〝ある場所〟の探索に費やした。拓海には内緒の極秘ミッションだ。スマホの画面と睨めっこしながら、インスタで『#東京老舗酒場』『#昭和レトロ』『#ディープ酒場』といったハッシュタグを検索しては、ヒットした店へ片っ端から足を運んだ。
ある日は、突然のゲリラ豪雨に見舞われ、傘もささずにずぶ濡れになりながら、ネットの情報を頼りにネオンが消えかかった路地裏をさまよい歩いた。
「うーん、ここもちゃう……もっと、もっと渋井くんっぽいやつやないと……」
またある日は、スマホの地図アプリを片手に赤提灯が並ぶガード下をウロウロしていると、酔っ払いのおっさんにダル絡みされ、引きつった愛想笑いで躱しながら薄暗い路地を駆け抜けた。
ピンヒールはとうの昔に歩きやすいスニーカーに履き替え、自慢の巻き髪も湿気と汗でボロボロになっていた。それでもみりあは諦めなかった。あの冷え切った拓海の目と、失いかけている二人の居場所を取り戻すためなら、泥臭いことだってなんだってやった。
「……あ、あった。これや……これしかないわ」
そして金曜日の昼時。ディープな路地裏を歩き回った末、みりあはついに〝そこ〟へ辿り着いた。戦前から時が止まったような、黒漆喰の壁と立派な瓦屋根。店先には風情ある行灯が置かれ、木の門構えの奥には藍色の暖簾が静かに揺れている。
「……ってか、ここほんまにお店なん⁉」
あまりの渋さに思わず本音が漏れてしまう。それでも、みりあはその場に立ち尽くし、安堵のあまり小さく息を吐いた。
そして、勢いのままスマホを取り出して拓海へ電話をかけた。
「はい、みりあちゃん? どうし……」
「今日の夜、鶯谷駅に十九時集合‼ 絶対、絶対に来てや‼ ほなっ‼」
「え、鶯……」
相手の返事も待たず、スマホの通話を強引に切った。
「……やった、言うたった‼」
大きなミッションをやり遂げたようなやってやった感と、少しの緊張を胸に、みりあは近くの公園へと歩き出し、ベンチに深く腰を下ろした。
ふと見上げると、ここ数日ずっと重く立ち込めていた梅雨空の分厚い雲が嘘のように切れ、すっきりと澄み渡った青空が広がっていた。初夏の眩しい陽射しが、泥臭く奔走した彼女の薄汚れたスニーカーを優しく照らしている。
「渋井くん、喜んでくれるやろか……」
そしてその夜。みりあは鶯谷の駅前で拓海と合流した。
待ち合わせ場所に現れた二人の姿は、それぞれに疲弊していた。みりあはラフなウェーブヘアで、色落ちしたヴィンテージのデニムジャケットに黒のタイトなリブニットロングスカート姿だった。拓海もまた、どこか仕事が手についていなかったのだろう。アイロンの当たっていない少しヨレたネイビーのスーツジャケットを着ており、いつもの余裕に満ちたオーラは完全に消え失せていた。端正な顔立ちには、若干の疲労感が滲んでいる。
「……こんなところに呼び出して、なんの用だい?」
覇気のない声で問う拓海の腕を掴み、みりあは無言で暗い裏通りを進んだ。
「ち、ちょっと……みりあちゃん……?」
「……」
やがて二人が立ち止まったのは、みりあが執念で見つけ出した店の前だった。みりあは拓海の方に向き直り、大きく深呼吸をしてから、彼がいつも口にするような〝高尚な解説〟を不器用になぞり始めた。
「み、見てごらん、渋井くん。こ、この煤けた壁……これこそが幾人の酔客たちの吐息が積層した『時間の地層』さ。ここは女性だけの入店を断ってる超老舗酒場……さあ、中に入って『歴史』を胃袋に流し込もう」
「みりあちゃん……?」
「あんた、いつもこんなん言うてるやん。あたし、ここ一生懸命探したんや」
「……あ、ここって、確か……」
「せやねん。やっと見つけたんやけど、女子だけで入るのあかんルールがあったんや」
みりあは、ふいにつんとそっぽを向いて呟いた。
「じゃあ、あんたしかおらんやん」
「みりあちゃん……」
スニーカーのつま先を見つめながら、必死に言葉を絞り出すみりあ。その姿に、拓海の固く閉ざされていた表情が、ほんの少しだけ揺らいだ。
◇ ◇ ◇ ◇
カラカラと引き戸を開けて店内に入ると、手前には使い込まれた分厚い桜の一枚板のカウンターがあり、白シャツに青いエプロン姿の店主が静かに立ち働いている。飴色に変色した柱や、壁に並んだ古い酒樽が圧倒的な渋さを醸し出していた。店の奥には小上がりがあり、障子戸や木枠の壁に囲まれた畳の上に、どっしりとした低い座卓と座布団が静かに並んでいる。
「そちらへどうぞ」
「あ、はい」
二人はカウンターに肩を並べて座った。目の前には達筆な筆文字で書かれた年季の入った木製の品書きが置かれ、かつてこの場所で何十年もの間、吞兵衛たちの喉を鳴らしてきたであろう肴の数々が、墨の色も誇らしげにずらりと並んでいる。
「お飲み物、どうされます?」
店主の静かな問いかけに、みりあはスッと背筋を伸ばした。実はこの数日、店探しと並行して、BS放送でやっている放浪系酒場番組を狂ったように見返し、老舗酒場でのスマートな振る舞い方を徹底的に予習してきたのだ。みりあは、テレビの中の酒場詩人さながらの通ぶった渋い声を作って、カウンター越しに告げた。
「あの……日本酒を……ぬる燗、で!」
「……ぬる燗?」
いつもなら「生で!」と元気よく言うはずの彼女から飛び出した玄人びたオーダーに、拓海は驚きで目を丸くしている。しれ顔のみりあの前に、すっきりとした白い徳利と、縁に青い一本線が入った小ぶりなお猪口が運ばれてきた。
「ほら、注ぐで」
「あ……うん」
拓海は少し戸惑った様子で、お猪口を両手でそっと包み込むように差し出した。みりあが白い徳利を傾けると、トクトクと静かな音を立てて透明な液体が注がれていく。並んで座る二人の肩が触れ合いそうな距離で、立ち上るふくよかな米の香りが、一週間冷え切っていた二人の間を優しく繋いだ。拓海はそれをそっと口に含む。
「うん……おいしい」
温度を絶妙に調整された丸みのある酒が、強張っていた喉と胃袋をじんわりと温めていく。
続いて目の前に置かれたのは、網目模様の青い皿に木製のすのこを敷き、その上に鎮座する巨大で四角い「冷奴」だった。たっぷりの生姜と細かく刻まれたネギとともに口に運ぶと、冷たく滑らかな豆腐の食感が、張り詰めていた空気を優しく洗い流してくれる。
さらに、琥珀色に透き通った三切れの「にこごり」が、練り辛子とともに白い長皿に乗ってやってきた。箸でつまむとぷるりと震え、口に含んだ瞬間、冷たいゼラチン質が体温でとろけ出す。濃厚な出汁の旨味と魚の深いコクが一気に広がり、ツンとした辛子が最高のアクセントになった。
「うまっ……」
みりあは目を輝かせて、次のお皿へ手を伸ばす。香ばしい焦げ目のついた太いネギと一緒に串打ちされた「合鴨塩やき」にかぶりつく。噛み締めるほどに溢れ出す鴨の上質な脂と、こんがり焼かれたネギの甘みが絶妙に絡み合い、日本酒を飲む手が止まらなくなる。パリッと焼かれた「とり皮やき」も、噛むほどに凝縮された旨味が染み出す。ここで、みりあはわざとらしく目を細めた。
「この鴨の脂とネギの焦げ目……これもまさに、火という名の芸術家が描いた『マテリアルの対話』や。複雑な構造やけど、本質は極めてシンプルで……えっと……日本酒との、……あれ?……んーと、」
「……どうしたの?」
「あかん、ちょっと待って」
みりあはおもむろにスマホを取り出し、メモ帳を開くと文字を目でなぞった。そして納得したのか、ゆっくりと頷いて言った。
「日本酒との、『ナラティブ』が止まらへんやろ? いや、止まらないだろ?」
静かな店内に、緊張の糸が解けたみりあの安堵の吐息が漏れる。その横顔を見ていた拓海が、突然吹き出した。
「ぶっ……あっはっは‼」
一週間ぶりに弾けた彼の笑顔。それは、皮肉でも冷笑でもない、心の底から気が抜けたような笑い声だった。
「な、なんやねん!」
「あー、笑った」
「やっと、笑ったやん」
「……いや、ほんとに……ごめんよ、みりあちゃん」
拓海は口元に手を当て、弾けた笑いの余韻を楽しむように一瞬だけ顔を明るくほころばせた。しかし、やがてその目元からゆっくりと光が引いていき、何かを懺悔するかのように真剣な表情へと変わっていく。
「ほんまに、最近どうしたん?」
「……うん」
笑い収まった拓海が、白いお猪口を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……あんな感じのみりあちゃん、見たことなかったから」
普段の飄々とした彼からは想像もつかない、あまりにも等身大で素直な吐露。みりあが驚いて見つめる中、拓海はまるで拗ねた子どものように視線を落としたまま静かに言葉を繋いだ。
「親しげに『くん』付けで呼ぶ声も。それに……昔から渋い酒場が好きで、嫌がる君を引っ張り回していたっていうあの話。……まるで、今の僕たちとまったく同じじゃないか」
自嘲気味に笑い、拓海は言葉を続ける。
「本当は、つまらない『男の嫉妬』だって頭では分かっていたんだ。でも、僕が君に教えているつもりだったこの関係すら、ただあの男の代わりをしているだけなんじゃないかって……自分がひどく滑稽で、情けなく思えて……」
「……」
「馬鹿みたいだよね」
完璧主義で、いつも余裕ぶっていた拓海の、初めて見せる不器用な本音。
みりあは日本酒をチビリと飲み込み、拓海を真っ直ぐに睨みつけた。
「アホか‼ 幼馴染なんて、ただの『腐れ縁のヴィンテージ』や‼あんたが連れていく店と同じ‼ただ年季が入ってるってだけや‼」
「みりあちゃん……」
「……あたしが選んだのは……」
「ん……なに?」
「あたしが選んだのは……あんただけや‼」
みりあは顔を真っ赤にして、泳ぐ視線を隠すように手元のお猪口を一気に煽った。その言葉に、拓海の目が少しだけ潤んだように見えた。
「うん……僕もそうだった」
カウンターの内側では、使い込まれた銅製の古い酒燗器が、コトコトと小気味よい音を立てて湯気を上げている。静かに響くその音色が、古い日本家屋の情緒ある空気と溶け合い、寄り添う二人の時間を優しく温めていた。
◇ ◇ ◇ ◇
店を出る頃には、二人の間の冷たい空気は完全に消え去り、鶯谷の夜風が心地よく火照った頬を撫でていた。
不意に、前を歩く拓海の胸元に、金髪の頭が飛び込んできた。みりあがくるりと反転し、まるで通せんぼをするように立ちはだかったのだ。ずっとこのタイミングを狙っていたと言わんばかりの、勝ち誇った顔だった。
「そういや、渋井くん。さっき泣いとったなあ~?」
みりあがニヤニヤしながら、拓海の肩に腕を乗せる。
「な、なに言ってるんだい。泣いてなんかいないよ」
拓海は目元を指で擦り、顔を背けた。すかさずみりあは、いじわるな笑みを浮かべてぐいっと拓海の顔を下から覗き込んだ。
「うっそや〜ん‼ ゼッタイ泣いてたって〜‼」
「みりあちゃん……」
拓海は図星を突かれたように一瞬言葉を詰まらせ、視線を落とした。
「あーん? なんや?」
「…………しばいたろか」
拓海はため息まじりに、しかしどこか嬉しそうに、みりあの言葉の真似をして笑った。
〝上等や‼〟といういつもの毒舌と、いつもの距離感。最悪の危機を乗り越えた二人は、固い絆を取り戻して夜の街へと消えていった。
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