#10 渋井くんは嘘つき!(最終回)
和光の時計塔をバックに、銀座四丁目の交差点で直立不動の男女がいた。梅雨特有の湿気が、せっかくの気合を台無しにしようとじっとりまとわりついてくる。
みりあはパールのヘッドドレスをあしらった気品ある巻き髪に、スワロフスキーが散りばめられた純白のシルクドレスという、完全に「銀座の女王」を狙いすぎたホワイトコーデ。隣に立つ拓海も、光沢のあるダークネイビーのスリーピーススーツにシルバーのネクタイを締め、胸元には白いポケットチーフ。
まるで親友の結婚式、あるいは自分自身の披露宴にでも出席するかのようなフォーマルさだった。
「いーや、あたしはまだ信じてへんで」
「フフッ、まだ言ってるのかい? 今日は僕たちの結婚記念日だよ。そんな日にわざわざ嘘をつくわけないじゃないか」
「……って、ほんまやな? コースの前菜いうて、ちくわにキュウリ刺した突き出しちゃうやろな?」
「あ、僕それ好きだけどな」
「…………あたしもや‼」
六月の夜風に吹かれながら、みりあは拓海のエスコートで銀座の裏通りへ。そこには、闇の中にぼんやりと暖かな光が浮かび上がる、重厚なレンガ造りの外壁があった。アーチ状の窓から漏れる光、上品な看板、そして入り口に置かれたオリーブの木の鉢植え。
「ち、ちょ……マジのレストランやん⁉」
「これで、信じてもらえたかい?」
「ほんまやったんや……」
いつものボロボロの暖簾や赤提灯とは真逆の、洗練された格式の高さを感じさせる隠れ家的な高級店の佇まいに、みりあの胸が高鳴る。
「渋井様、お待ちしておりました」
拓海が重厚な木製の引き戸を開けると、煌めくクリスタルガラスと、白く輝くテーブルクロスが目に飛び込んできた。高い天井から下がる上品なシャンデリアが、美しく並べられた銀のカトラリーを宝石のように照らしている。
落ち着いた革張りの椅子、壁に飾られたモダンアート、そして完璧に整えられた静寂。
「おお……ごっついとこやなあ……」
「ね、僕もここまでのお店は初めてだよ」
みりあは小躍りしたい衝動を必死に抑え、頬を紅潮させた。期待以上の「本物の銀座」を前に、みりあのテンションは最高潮に達していた。
しかし、恭しく椅子を引かれ、真っ白なテーブルクロスの前に背筋を伸ばして座った瞬間──静寂が支配する空間と、周囲の客が囁き声で話す独特の重圧感に、みりあの心に微かな違和感が芽生え始める。
「(……なぁ渋井くん、ここ、息継ぎのタイミング難しくない?)」
「(息継ぎって……水泳じゃないんだから)」
テーブル越しにヒソヒソと囁き合う二人。席に着くなりワインリストを広げる店員に、みりあは引きつった笑顔とカタコトの標準語で聞いた。
「あの……ここ瓶ビールはないんですか?」
「大変申し訳ございません。当店のビールは小瓶のクラフトビールか、シャンパーニュをお勧めしておりますが……」
「……あっ!あ、あの、いや、いいんです、いいんです! ほな、そのナントカいうやつで……」
みりあはテーブルの下で、拓海の足をつま先で小突いた。
「痛っ、どうしたの?」
「恥かいたやん……‼」
みりあは、拓海だけに見えるように睨みつける。拓海が「やれやれ」という表情で店員にシャンパーニュを注文すると、拓海自身の喉からも小さく「ふう」という自嘲の吐息が漏れた。完璧なマナーで食事を進めようとするものの、カトラリーが皿に触れる音すら立てていない店内の静寂に、次第に二人の心臓の音だけがうるさくなっていく。笑い声ひとつ聞こえない空間は、お洒落ではあるが、どこか息苦しい。
「……みりあちゃん、大丈夫かい?」
「だ、大丈夫に決まってるやん。……渋井くんこそしんどいんちゃうか?」
クールなはずの拓海でさえ〝酒場環境を利用した小ボケ〟を挟む隙すらない空気圧に押され、二人の表情は石像のように強張っていった。
そして、信じられないほど巨大な皿の中央に、ちょこんとひと口分だけ乗せられた数千円のパスタを前に、沈黙は限界に達した。
「……渋井くん。あたし、このパスタひと口で食べ終わってしもた。あと百回くらいおかわりせな餓死するわ」
「そうだね、すごくおいしいんだけどね……」
「せやねん。なんか……なんか、こう……ちゃうねんなあ」
「うん……」
拓海はシャンパーニュをひと口飲み、少し考えてからみりあに言った。
「確かに……みりあちゃん。僕はやはり嘘をついていたよ。ここが君に一番相応しい場所だなんて、とんだ大嘘だった」
拓海がそっとナプキンを置き、みりあの目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、かつてないほどの『真実』と『共犯者の光』が宿っている。みりあもまた、その視線に応えるように不敵な笑みを浮かべ、フォークを置いた。ホワイトコーデの気品を脱ぎ捨て、本来あるべき場所を思い出した二人の心は、今、完全にシンクロしていた。
「……なあ、渋井くん?」
「……そうだね、みりあちゃん」
二人は顔を見合わせ、無言で頷き合った。その後運ばれてきたメインディッシュの子羊のステーキを、まるで部活帰りの男子高校生のようなスピードで丸飲みすると、拓海は目玉が飛び出るような額の会計をスマートに済ませ、二人は店を飛び出した。
◇ ◇ ◇ ◇
「運転手さん、神田まで急いでください‼」
タクシーを飛ばして辿り着いたのは、銀座の洗練された街並みとは無縁の、神田の暗がりだった。闇の中に、まるではるか昔の日本からタイムスリップしてきたような真っ黒な木造建築が、威厳を放ちながら鎮座していた。
「ぐっ……渋い、渋すぎるで!」
「……うん、ここは東京最古の居酒屋というくらいだからね」
「東京最古⁉ ちょっとやり過ぎちゃ……」
「さあ、みりあちゃん! 中へ入ろう!」
漆黒の板壁に、どっしりとした瓦屋根。入り口には長年燻されてきたであろう分厚い縄暖簾が下がり、その向こう側から漏れ出すねっとりとした琥珀色の光が、二人を誘っている。
中に入れば「ドッ!」という大衆酒場の賑わいが、圧となって二人を覆った。そこは銀座の静寂とは対極にある、生命力のるつぼ。磨きに磨き抜かれた一本木のカウンターの上には、所狭しと酒瓶が並び、壁一面には年季の入った品書きが地層のように貼り付けられている。飴色に変色した柱や、低い天井に反響する酔客たちの怒号のような笑い声。一歩歩くごとに足裏に伝わる堅牢な木の感触が、銀座のフカフカの絨毯よりもずっと心地よく、みりあの神経を解きほぐしていく。
「お帰り、みりあちゃん。ここが僕たちの、本当のウェディング・パレスだ‼」
「いやよくわからんけど…………でも、ここや。あたしらが求めてたんは、この空気や……‼」
白のドレスとネイビーのスーツという、この空間において完全に浮きまくった二人が、年季の入った木の椅子にドスンと腰を下ろした。
「渋井くん、ビールや!」
「オーケー。大瓶のビールと牛煮込み、あと霜降りのさくら刺しください」
拓海が慣れた様子で注文する。周囲の酔客たちが「おっ、結婚式帰りか⁉ めでたいなあ‼」と野次馬根性丸出しで絡んでくるが、みりあと拓海は顔を見合わせたあと、揃ってにっこりと笑顔を返す。
待ってましたと言わんばかりに、キンキンに冷えた大瓶のビールと、厚みのある無骨なグラスが運ばれてきた。拓海が慣れた手つきで瓶を傾けると、トクトクと小気味よい音を立てて黄金色の液体が注がれ、その上にふんわりと純白の泡が重なっていく。
みりあも拓海のグラスにビールを注ぎ返し、重いグラスをぶつけ合わせた。
「くぁーっ‼ 生き返るわ‼」
「うん、最高!」
銀座の上品なシャンパーニュとは比べ物にならない、喉を鋭く刺激する炭酸と苦味。二人で交互に注ぎ合い、喉を鳴らして飲む瓶ビールは、どこか鬱憤を洗い流す聖水のように胃袋へ染み渡っていく。
続いて目の前に運ばれてきたのは、長年継ぎ足されてきた漆黒のタレで煮込まれた「牛煮込み」だった。
小ぶりの土鍋の中で、八丁味噌がベースの濃褐色のスープが、牛肉の脂を纏ってつやつやと輝いている。箸で持ち上げればホロホロと崩れるほど柔らかく煮込まれた肉を口に放り込むと、暴力的なまでの旨味が脳天を突き抜けた。
「美味しい……‼ 銀座のパスタ一万皿分の美味しさや‼」
「フフッ、銀座のシェフが聞いたら卒倒しそうな絶賛だね」
さらに、鮮やかな赤身に真っ白な脂が美しく走る「さくら刺し」の霜降りが運ばれてくる。
「なぁ渋井くん、このさくら刺しってなんなん? めっちゃ綺麗やけど」
「馬肉のことだよ。諸説あるけど、江戸時代は仏教の影響で獣肉を食べることが表向き禁止されていたから、隠語として肉を別の名前で呼んでいたんだ」
「へー、渋井くんにしてはまともなこと言うやん」
「さあ、この禁断に踏み入れてごらん」
たっぷりの生姜と大蒜を醤油に溶かし、冷たく締められた馬肉を潜らせる。舌の上に乗せた瞬間、体温で霜降りの脂がとろりと溶け出し、噛むほどに肉本来の甘みが口いっぱいに広がった。
「あかん、この馬刺し、口の中でとろけたわ……‼」
「見てごらん。このサシの入り方は、もはや生物学的な奇跡を超えて、印象派の絵画のようだ。口内というキャンバスの上で、野生のエネルギーが甘美な脂となって溶けていく。これこそが、僕たちが追い求めていた『深淵なるルージュ』だよ」
「はいはい、まーたそんなん言うてるわ」
緊張から解放されたみりあの箸は、もう誰にも止められなかった。
「フフッ。こんな歴史の飴色の中、純白のドレスで牛煮込みを貪る君は本当に美しいよ」
「それは、褒めてるか?」
「もちろん。店を出る頃には見事な牛煮込みカラーに染まっているだろうね」
「そしたらクリーニング代請求したるからな‼」
騒がしい店内で、二人は周囲の視線も気にせず大声で笑い合った。
「嘘だよ、みりあちゃん。でも……これからも僕は、君の隣に居続けるための最高の嘘をつき続けるよ」
拓海がスーツ姿でグラスを掲げる。みりあは残りのビールを一気に飲み干すと、最高の笑顔で店内の音量に負けないくらいの声で叫んだ。
「ほんま、渋井くんは嘘つきやな‼」
純白のドレスとスリーピーススーツという、どう見ても場違いなフォーマルな装いすら、今は不思議と神田の古い居酒屋の空気に違和感なく溶け込んでいた。酒焼けした常連客たちの飾らない笑い声に混じり、気取らずにジョッキを傾ける二人の弾んだ声が、飴色の柱や梁へと心地よく吸い込まれていく。
大衆酒場の温かな喧騒の中、二人はグラスを片手にいつまでも笑い合っていた。
二人の〝美味しい嘘〟に彩られた日常は、これからもずっと、色褪せることなく続いていく。
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