#8 100g単位の熱視線
その〝事件〟の発端は、数日前に拓海からかかってきたいつもの電話だった。それは、梅雨入り前の少し蒸し暑い昼下がりのこと。
「みりあちゃん、今度の週末、とあるギャラリーへ行かないかい?」
「ギャラリー? んー、絵でも見んの?」
通話口の向こうで、みりあは自室のベッドに寝転がりながらペディキュアを塗っていた手を止めた。
「うん。宝石のような美しいサシを、至近距離で愉しめるギャラリーさ」
「宝石のようなサシ? なんや、それってお肉ってこと?」
「フフッ。厳選された最高級部位を、100g単位の熱視線で鑑賞しながら味わえるんだ。みりあちゃんのために近接型特等席を用意しようと思って」
もったいぶるような拓海の艶やかな声に、みりあの鼓膜がピクリと反応する。
「ほーん、特等席ねえ。もしかして目の前で焼いてくれるん?」
「まあ、そんなところかな」
数分のやりとりの後に電話を切ったみりあは、ベッドの上で腕組みをして唸っていた。
「『みりあちゃん、宝石のサシとはつまり、石のように硬い肉の隠喩だよ』とか、『最高級部位とは、命の重みを感じる豚の心臓のことさ』とか……」
みりあは小首を傾げ、少し考えてしかめっ面をした。
「……言いそうやなあ……」
あの手この手で予防線を張ろうと、みりあの脳内はフル回転した。しかし、どう言葉を捏ね繰り回しても『宝石のようなサシ』や『厳選された最高級部位』を『目の前で鑑賞しながら味わう』という要素を崩すことはできなかった。
「せや、騙されたらあかん。ギャラリーで肉を鑑賞とか言うて、かっぱ橋の『食品サンプル専門店』の可能性もあるで……」
みりあはベッドの上でゴロゴロと転がりながら、これまでの数々の騙し討ちを回想した。
「いやいや、いくら渋井くんでも、食品サンプルを『ギャラリー』とは呼ばへんやろ? それに『特等席』やで? パイプ椅子すら怪しい立ち飲み屋で特等席なんてありえへんわ」
あれこれと最悪のケースを想定してみたものの、みりあの想像力では、大衆酒場で『目の前で鑑賞』というシチュエーションがどうしても思いつかなかった。
「……ってことは、ついにほんまの超高級鉄板焼きやな? もしスウェットなんかで行って、他のお客さんが全員ドレスアップしてたら、あたし一生の恥かくやんか!」
数分間の葛藤の末、みりあは「今回は絶対に高級店だ」という自分なりの確信に至った。
「ふ~ん……ついにあたしの魅力にひれ伏して、本気出してきたってわけやな!」
そして当日。大井町駅前で、みりあは待ち合わせの相手を今か今かと探していた。お嬢様風に完璧に巻かれた縦巻きロールカール。淡いピンクと白が織りなすツイードのノーカラージャケットに、同素材のタイトなミニスカート。足元は黒のピンヒールパンプスで引き締めている。大井町の雑踏に突如現れた、まさに〝歩くブランド品〟状態である。
「お待たせ、みりあちゃん」
声をかけてきた拓海は、ダークネイビーのアンコンジャケットに黒のスリムスラックス、足元は黒のタッセルローファーというシックな装い。
「なあ、今日のあたし、どう?」
「ほんとに、素敵だよ。今日のギャラリーに飾られるどの芸術品よりも、みりあちゃんが一番目を惹くはずだ」
「そこまで褒めんでも……」
拓海はみりあの全身を満足そうに見下ろすと、ふわりと優雅に微笑んだ。
「さあ、行こ……」
「ち、ちょっと待って!」
「……どうしたんだい?」
「もう一回だけ聞くで。肉……ええ肉で間違いないんやな?」
「間違いなく、肉だよ。さあ、行こうか」
(やっぱり! 銀座やなかったけど、どうやらええ店であることは間違いないっぽいな)
「あはっ、なんかめっちゃ嬉しいわ!」
エスコートされるまま、みりあはピンヒールを鳴らして歩き出した。
……しかし、拓海が向かったのはお洒落なビルが立ち並ぶ大通りではなく、細く入り組んだディープな飲み屋街の路地裏だった。
拓海が立ち止まったのは、年季の入った角地の建物。赤と緑のストライプ柄の色褪せた日よけテントが張り出し、その上には赤字で『肉』と書かれた白い看板が煌々と光る、完全な精肉店だった。
「し……渋……くん……」
ガラス戸の向こうに広がっていたのは、赤ら顔の常連客たちが缶ビールやチューハイを片手に、簡易テーブルやショーケースの前にひしめき合う、凄まじい熱気の空間。椅子などは一切なく、店内にある使い込まれた木製の長机や、外に並んだテーブルの空いているところを陣取って飲食する完全な立ち飲みスタイルだ。
「……渋井くん、ちょっといいかしら? ここ、どう見たってお肉屋さんやんな……?」
「そう。大井町が誇る肉の神殿さ。さあ、特等席へ……」
「嘘って言え」
「えっ、嘘? いや、ここは本当の……」
「一回、嘘って言え!」
みりあは、店先のアスファルトを踏みしめながら、鬼の形相で拓海を睨みつけた。
「特等席って言うから銀座の鉄板焼きやと思ったら、行き着いた先がただの肉屋の立ち飲みやないかい‼ しかもギャラリーって、ただの肉が並んだショーケースの前やん‼あたしのこの気合服どうしてくれんねん‼」
激怒するみりあに対し、拓海は悪びれる様子もなく、むしろ彼女の怒る顔すら愛おしむように甘い声を紡いだ。
「落ち着いて、みりあちゃん。銀座の高級鉄板焼きなんて、お金さえ出せば誰でも行ける退屈な場所じゃないか」
拓海は赤ら顔の客たちを一瞥し、肩をすくめる。
「はあ!? だからって肉屋に連れてくる理由にならんやろ‼」
「でも、このむき出しの大衆の中で圧倒的なオーラを放つ君の姿は、ここでしか見られない極上の芸術作品なんだよ」
「ぐぅっ……こいつ、相変わらず言葉巧みに丸め込もうとしてるやん」
「それに、ショーケースに並ぶ肉の質は本物だよ。ひと口食べれば、僕が嘘をついていないことがわかるはずさ」
みりあが納得のいかない顔で毒づいていると、拓海は手の平で壁際を指し示した。
「まずは飲み物。あそこの業務用冷蔵庫から、好きなのを二本抜いておいで。ここは完全セルフサービスなんだ」
「えっ、あたしに取ってこいってか。エスコートの『エ』の字もあらへんやん!」
「この場所では、自分で冷えた缶を掴み取る行為こそが、最高の食前酒になるんだよ」
「なんなんそれ……」
みりあは、大声で笑い合う常連客たちの波に飲み込まれ、もみくちゃにされながらなんとか壁際の大きな業務用冷蔵庫へと辿り着いた。
(嘘やん……こんな派手な格好して酒選ぶんかい……)
好奇心丸出しの常連客たちの視線を一身に浴びながら、みりあは恥ずかしさと恨み言をぶつぶつと吐きながらも、キンキンに冷えた緑のラベルの缶ビールを二本、その手で掴み取ると急いで拓海の待つ席へと向かった。
「ありがとう、みりあちゃん。さあ、次はメインの展示品を見に行こうか」
「あっ! そういえば『ギャラリー』言うてたやん! どこにギャラリーがあんねん!」
「ほら、よく見てごらん。芸術的なサシが入った肉がガラス越しに並んでいるだろう? 立派なギャラリーさ」
拓海はまるで美術館のキュレーターのような優雅な手つきで、店内にある生肉の入ったショーケースを指し示した。
「やっぱただの肉屋やんっ‼」
みりあがすかさず吠える。
「ほんなら、『特等席』は!?」
さらに問い詰めるみりあに対し、拓海は悪びれる様子もなく、目の前にある使い込まれたパイプ脚の長机を、人差し指で優雅にトントンと叩いてみせた。
「おいおい、この長机か!? ただの立ち飲みやんけ‼」
「そう。ギャラリーの作品は立って鑑賞するものだろう?」
「……たしかに、ってなるか‼」
みりあが周囲を見渡すと、客たちは自分で冷蔵庫から取ってきた酒を片手に、精肉が並ぶショーケース越しに店員へ直接オーダーし、その都度小銭で支払うキャッシュオン方式をとっている。料理はショーケースの中の肉だけでなく、併設されている小さな厨房で揚げられたばかりの惣菜などを自由に選べるようだ。
「僕はここで席を確保しておくから、みりあちゃんは好きなものを頼んでおいで」
「まーた、あたしに買いに行かせる気か!」
「フフッ。はい、これでお会計を」
「……ほんま、ええ身分やな」
拓海から千円札を数枚渡され、みりあは文句を言いながらもヤケクソ気味に手にしたビール二本と紙幣を持ってショーケースの前へと向かった。
ガラスケースの中には、見事なサシの入った牛肉のブロックや、併設の厨房から運ばれてきたこんがりと揚がった惣菜がズラリと並んでいる。
「これと、これと……あと、これもください」
「メンチカツと、ローストビーフ。アト、ビール二本で、千二百十円デス」
外国人店員からショーケース越しに手渡されたのは、たっぷりと濃厚なソースがかけられ、食べやすくカットされた大きなメンチカツと、青と白のストライプ柄の小皿に盛られた、ツヤツヤと輝く美しいローストビーフだった。
「ここでお金払えばええの?」
「ハイ」
みりあはショーケース越しに支払いを済ませ、両手に小皿とビールを器用に乗せると、不満げな足取りで拓海が待つ立ち飲みの長机へと戻ってきた。
「ほら、買うてきたで」
「ご苦労様。さあ、まずは乾杯しよう」
拓海は優雅な手つきで緑のラベルの缶ビールを持ち上げた。
「へいへい」
みりあも不服そうに唇を尖らせながら、プルタブに指をかける。
──プシュッ!
店内の喧騒に混じって、炭酸が弾ける小気味良い音が響いた。カチン、とアルミ缶同士が安っぽい音を立ててぶつかり合った。みりあはヤケクソ気味に缶に口をつけ、キンキンに冷えた黄金色の液体を喉の奥へ一気に流し込む。
「……んぐ、んぐっ……ぷはーっ‼ あかん、腹立つくらい旨いわ‼」
「相変わらず、いい飲みっぷりだね」
「悔しいけど……ここ最近で一番おいしいビールや」
缶ビールを勢いよく半分ほど空けたみりあは、手の甲で口元を拭い、ようやく人心地ついて目の前の小皿に視線を落とした。たっぷりとソースがかかったメンチカツと、美しいサシの入ったローストビーフが手招きしている。
「……あれ。お箸、お箸どこや?」
「フフッ……ほら、目の前にあるじゃないか」
「目の前?……あ、もしかして……これか?」
「ご名答! どんな環境でも適応してみせる、すっかり大衆酒場の女戦士だね」
「誰がアマゾネスやねん」
みりあは長机の上に置かれた『セルフサービス』と赤いペンで書かれた白い筒状の容器から、竹串を二本スッと抜き取った。そして、それを器用に箸の代わりにして、まずはソースが染み込んだメンチカツをひょいとつまみ上げる。
豪快にひと口齧り付いた瞬間、みりあの目が大きく見開かれた。
「……っ‼」
サクッという粗めの衣の軽快な音とともに、溢れ出す熱い肉汁の甘みとひき肉の旨味がどっと押し寄せてくる。そこに少し酸味のある濃厚なソースが絡み合い、えも言われぬジャンクで完璧な味わいを完成させていた。
「なんやこれ……衣サクサクやん‼ ソースとお肉の旨味がめちゃくちゃ合う‼」
感動冷めやらぬまま、次は竹串の先でローストビーフをつまみ上げる。表面に軽く炙りが入った赤身肉は、まさに電話で拓海が言っていた『宝石のようなサシ』が美しく入り、横にはこんもりとおろしニンニクが添えられていた。
ニンニクを少し乗せ、自家製のタレに絡めて口へ運ぶ。
「うわっ、柔らかっ‼」
しっとりとした肉質は、噛むほどに上質な脂が体温で溶け出し、ニンニクの強烈なパンチと甘辛いタレが見事に調和して舌の上でとろけていく。
「……ホテルのローストビーフより旨いかもしれん。あかん、立ち飲みやのに、お肉が本格的すぎてビールが水みたいに進むわ……」
「どうやら、気に入ってくれたみたいだね」
高級鉄板焼きへの未練は、極上の肉の旨味と共に胃袋の底へ流れていった。みりあはツイードのミニスカートを気にすることもなく、竹串二本を器用に操りながら、立ち飲みのディープな快楽に一気に呑まれていった。
◇ ◇ ◇ ◇
「あ、空やん! もう一本ビールもらってくるわ!」
上機嫌なみりあは、ほんのりと頬を赤く染めていた。そんな彼女の姿は、この場末の精肉店において異質すぎるほど美しかった。縦巻きロールのカールが揺れるたび、ツイードのミニスカートから伸びる白い脚が動くたび、店内にいる男たちの視線が、隠すこともなく彼女に注がれている。
「……みんな、みりあちゃんという最高級部位から目が離せないようだね」
「褒めてんのか、けなしてんのか、分からんわ!」
拓海は缶ビールを傾けながら、いつもの皮肉めいた光ではなく、みりあを見つめる周囲の男たちへの、静かな独占欲を滲ませていた。
しかし、肉とアルコールに夢中なみりあは、拓海のその感情に全く気づいていない。
「このメンチカツ、なんでこんなにおいしいんやろ。渋井くん、もうひとつ食わへん?」
「そうだね。じゃあお願いしようかな……」
その時だった。
「……あれ? ちょっと、みりあちゃうか⁉」
上機嫌でおかわりを買いに行こうとしたみりあの背後から、聞き覚えのある声が響いた。場違いなほど軽薄で、ひどく聞き馴染んだ関西弁。男の声だった。
「なあ、みりあやろ?」
ビールの空き缶を握りしめたみりあの肩が、ビクッと跳ねた。息を呑み、「まさか……」というようにゆっくりと振り向くみりあ。その瞳に浮かんだのは、決して嫌悪などではなく、純粋な驚きと、どこか昔を懐かしむような淡い揺らぎだった。
その瞬間、隣で静かに缶ビールを持っていた拓海の動きが、ほんのわずかに止まった。みりあの瞳に浮かんだ見慣れない感情を横目で捉え、拓海の鋭いカンが直感的に不穏な空気を察知する。
いつもの余裕めいた態度は崩さないものの、拓海の口元からは微かな笑みがスッと……消え去っていた。
大井町の精肉店は、変わらず無遠慮な喧騒に包まれていた。
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