#7 星降る夜のシーフード・バンケット
「あたしも! 静岡! 連れてって!」
出張前夜、スーツケースに荷物を詰める拓海の背中に、みりあが唐突に飛び乗ってきた。
「おっと……! みりあちゃん、僕のは遊びじゃなくて仕事なんだけど」
「わかってるって! 昼間は一人で観光して、美味しいもん食べるから邪魔せぇへんよ!」
「新幹線代だってバカにならないし、ホテルだってシングルで取ってるんだから」
「大丈夫! 自分のはへそくりから出すし、ベッドだって半分こでええやん。なんならあたし、床でも寝るわ!」
「床って……まいったなあ……」
呆れ顔で深くため息をついた拓海だったが、ふと何かを思い出したような表情をした。
(……まてよ、静岡か。じゃあ〝あの店〟があるじゃないか)
拓海の口元に、スッと邪悪でいて優雅な、いつもの悪戯な笑みが浮かんだ。
「みりあちゃん」
「え、なに?」
「しかたがない…………じゃあ、一緒に行こうか!」
「なんや、急にうれしそうやん」
「フフッ、たまには夫婦で小旅行もいいかなと思ってね」
拓海の瞳が獲物を罠に誘い込む狩人のように妖しく光った。彼女の強引極まりない鶴の一声で、静岡での一泊二日の単独出張は、夫婦同伴の小旅行へとすり替わっていたのである。
出張当日の昼下がり。拓海が仕事に向かっている間、みりあは宣言通り一人で静岡観光を満喫していた。のんびりと清水エリアへ足を延ばし、海沿いのベイエリアを散策。ヨットハーバーや大きな観覧車、そしてうっすらと顔を出した富士山をバックに〝映え〟な自撮りを何枚もこなす。すかさず仕事中の拓海へ『満喫中~!』と写真を連続で送りつけると、そのまま歩いてすぐ近くの清水港の市場へと向かった。
「やっぱり静岡来たら、お魚食べとかなあかんよね~」
活気あふれる場内を歩き回り、悩みに悩んで選んだ特上の海鮮丼に舌鼓を打つ。新鮮な生しらすと桜えびがたっぷりと乗った丼は、まさに絶品だった。
「あー、最高やわぁ……」
海沿いのデッキで海鮮の余韻に浸りながら、潮風を胸いっぱいに吸い込み、大きく背伸びをした。その時だった。
──ヒュォォォォッ。
突如、初夏の心地よい陽気を切り裂くように、ひやりと冷たく湿った海風がみりあの首筋を撫でた。
「……うわっ、寒っ」
背筋にゾクッと悪寒が走り、思わず自分の肩を抱く。青空が広がっているというのに、なぜか得体の知れない薄気味悪さを感じた。
「……ホテル戻ろ」
ぶるっと身震いをしたみりあは、そそくさとその場を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇
そして現在。時刻は夕方の十八時過ぎ。仕事を終えてホテルに戻ってきた拓海と合流し、海沿いに建つ瀟洒な部屋で二人はくつろいでいた。みりあは水色の〝もこもこ〟なルームウェアとショートパンツという、完璧に隙だらけの出で立ちでふかふかのベッドに寝転がっている。左右に長い三つ編みのまま、枕元に置かれた分厚いホテル特製ディナーメニューをめくり、すっかり極楽オフモードを満喫していた。
「あー、ちょっと歩き疲れたし、夜はこのホテルの豪華なフレンチでも食べて、あとは寝るだけやな」
平和な夕暮れ時を謳歌するみりあの背後で、仕事を終えて窓の外を見つめていた拓海が、ふと穏やかな声で口を開いた。
「……みりあちゃん。ここから海沿いを少し歩いたところに、夕陽に染まる富士山と、駿河湾の星空がこぼれ落ちるように綺麗に見える絶景スポットがあるんだ」
「えっ……夕陽の富士山に、駿河湾の星空……?」
「街の光が届かない場所だからこその、天然のプラネタリウムだよ。だから少し歩いてみないかい?」
いつもは皮肉ばかりの拓海からの、思いがけないロマンチックな誘い。みりあの目がぴょこりと輝いた。
「行く、絶対行く! ホテルでフレンチの前に星空デートや!」
「どう? 素敵じゃない?」
「ええやん! ちょっと待ってて、すぐ着替えるから!」
ロマンチックなシチュエーションへの期待に胸を膨らませたみりあは、白の薄手のマウンテンパーカーを羽織り、ショートパンツの上からグレーのスウェットパンツを素早く穿き込んだ。
しかし、これはすべて拓海の緻密な作戦だった。彼の真の目的は、みりあをフレンチとはかけ離れた〝とある場所〟へ連れ出すこと。本当の行き先をストレートに告げれば絶対に断られると計算し、星空をエサに釣り上げたのである。
◇ ◇ ◇ ◇
ホテルを出て海沿いを歩き始めた頃は、拓海の言葉通り、茜色に染まる空の下に夕陽を背負った富士山の美しいシルエットが見えていた。
「うわっ、夕日の富士山もめっちゃ綺麗やん……!」
「やっぱり、富士山はいいね」
いつもは斜め上の古びた店ばかり連れて行く拓海の、思いがけない完璧なロマンチック・エスコートにみりあはすっかり上機嫌になり、スマホのカメラを向けてはしゃいでいた。今回の旅こそは極上の贅沢デートになると、胸の高鳴りは最高潮に達している。
そこからさらに歩みを進めること二十分。日が落ちるにつれて美しいグラデーションは消え失せ、辺りはいつの間にか、街灯ひとつない深い闇に包まれていた。みりあはパーカーのフードを被り、ダッドスニーカーを鳴らして歩いていた。拓海は腕まくりをした白シャツにグレーのステンカラーコートを羽織り、濃紺のチノパンの足元は茶色のローファーを素足履き風にこなしている。
「なぁ渋井くん、だいぶ暗くなってきたけど……ほんまにこの先に星空スポットなんかあるん?」
「ああ。でも、街灯がないのには理由があってね……」
「あん? 理由?」
拓海は、足を止めてみりあの顔にぐいっと近づき、珍しく神妙な顔つきで言う。
「実は……この辺りで囁かれている、黒い噂を知っているかい?」
「黒い噂? なんやねん、急に……」
人気のない薄暗い住宅街に立ち尽くしたまま、拓海は声を一段低くした。
「夜な夜な、多額の借金を作って逃げられなくなった人間が送られる、裏社会の『処理場』があるらしいんだ。証拠隠滅のために、バリ……バリバリ……と、骨から肉を削ぎ落とし、身元が分からないよう皮膚を剥がす凄惨な音が響き渡るという。地元では決して近づいてはいけない『闇の解体部屋』と呼ばれている」
「か、解体……っ‼ ちょっと待って、なんでこんな真っ暗なとこで急に極道映画みたいなエグい話し出すん‼」
みりあの足がすくむ。昼間に感じたあの不吉な海風の冷たさが、一気にフラッシュバックした。しかし、拓海は無慈悲に再び歩き出しながら続ける。
「……今夜、その処理場のすぐ脇で、裏社会の重鎮だけが許される『極秘の晩餐』が行われる。血と恐怖の匂いが漂う中で味わう極上の肉は、どんな高級フレンチよりもスリリングだと言うよ。宴が終わるまでに辿り着かないと、その扉は閉ざされてしまう。……どうやら、近づいてきたみたいだ」
潮の香りが強くなったその時、暗闇の先から、その音は聞こえてきた。
──バリ……バリバリッ。バリッ。
硬い皮膚が無残に引き剥がされ、地面に飛び散るような、湿った断裂音。
「ひぃっ……‼ 今の絶対証拠隠滅してる音やん‼」
「……」
「肉削ぎ落としてる音やん……もう帰る、帰らせて‼」
恐怖が絶頂に達したみりあは、半泣きになりながら拓海のコートの袖に必死にしがみついた。みりあの様子を見た拓海は、目線をまっすぐにある方向へと向けた。
「……さあ、着いたよ。あそこが、裏社会の極秘会場だ」
拓海が自慢げに指差した先。そこには、闇の中に青白い蛍光灯の光が浮き彫りにした建物があった。
青い瓦屋根に、白塗りの壁。そこには『鮮魚』と書かれた大きな看板が掲げられていた。店先には爽やかな青と白のストライプ柄の日よけ幕が下がり、その横にはどこにでもある自動販売機がポツンと光を放っている。おどろおどろしい裏社会の気配など微塵もない、あまりにも長閑で昭和レトロな佇まいだった。
「いらっしゃい!」
二人がそこへ近づくと、威勢のいい声とともに分厚い前掛けをした大将が、まな板の上の大きな真鯛に金色の鱗取りを華麗に走らせていた。
「……は?」
「今、ちょうどいい真鯛が入ってるよ!」
──バリ……バリバリッ。バリッ。
床は水浸し。壁には本日の鮮魚と書かれた木札。そこはどう見ても、住宅街に突如現れたガチの〝鮮魚店〟だった。
「……え、魚屋さん?」
「そう。ここは客が選んだ魚をその場で捌いてもらってお酒が飲める、究極の鮮魚店さ」
「……き、きゅうきょくの、せんぎょてん……」
「さあ、特等席へ」
「ちょっ……」
唖然とするみりあを拓海が促して店内へ足を踏み入れると、手前には手書きのポップが所狭しと貼られた大きな冷蔵ショーケースが鎮座し、丸ごとの新鮮な魚や切り身がズラリと並んでいた。
そしてその奥、すりガラスの引き戸を開けると、古い柱時計の横でテレビからナイター中継の音が呑気に流れている、土間続きのイートインスペースがあった。赤い清酒ケースを積み上げた簡素なテーブルと、その上に置かれた緑の唐草模様のクッションが、まるで田舎の親戚の家に迷い込んだかのような、圧倒的な〝実家の居間〟感を放っている。
「……なあ、渋井くん」
「なんだい、みりあちゃん?」
「あんた、ええ性格してるわ、ほんま」
「えっ、褒めてるのかい?」
「褒めてるわけないやろ‼」
みりあは、あの身の毛もよだつ断裂音が大将の華麗な下ごしらえの音だったことに気づき、未だに自分を抱きしめていた両手の力をバツンと解いた。そして、般若のような形相で拓海を睨みつけた。
「星空デートで釣って、行き着いた先が魚屋かい‼ 死ぬほど怖がって損したわ‼裏社会ってなんやねん‼ただの鯛の鱗やないかい‼ 嫁の寿命縮めて楽しいんか、ボケェ‼」
◇ ◇ ◇ ◇
「ごめんよ、みりあちゃん。ちょっとした演出だったんだよ」
「……ったく、裏社会の解体部屋から魚屋って……アウトレイジやと思って観てたら、突然『釣りバカ日誌』始まった気分やわ」
騙されたことに毒づきながらも、みりあは赤い清酒ケースの上に置かれた、緑の唐草模様のクッションへ尻をドスンと下ろした。鼻をくすぐるのは鮮魚店らしい潮と魚の匂い。みりあは周囲をキョロキョロと見渡し、目を丸くした。
「ていうか、ほんまにここお店なん? メニューもないし、どうやって頼むん?」
「ショーケースの中から好きな魚を選んで、大将に捌いてもらうシステムなんだよ。お酒はそこの冷蔵庫から勝手に出す。通称、角打ちならぬ『魚打ち』だね」
「ほー、そんなんがあるんや? 魚屋さんで注文して奥の居間で勝手に飲むとか、なんか悪いことしてるみたいやな」
先ほどの恐怖などすっかり忘れ、みりあは冷蔵ケースから自分で取り出した大瓶のビールを、小ぶりなグラスにトクトクと注ぐ。一気に煽ると、キンキンに冷えた黄金色の麦酒が、恐怖と歩き疲れでカラカラに乾いた喉の奥へ、暴力的なまでの爽快感をもって流れ込んでいった。
「……旨っ‼ なんやこれ、魚屋の居間で飲むビール、フレンチの食前酒より五倍は旨いやん‼」
「はいよ、お兄さんたち! 太刀魚のフライと、刺身の盛り合わせね!」
大将が威勢よく皿を運んできた。目の前に出されたのは、黄金色に輝く「太刀魚のフライ」。
「お姉さんべっぴんさんだから、特別に中トロ一切れおまけしといたよ!」
「いやん、大将わかってるやんか〜‼ おおきに‼」
つい数分前まで『裏社会の処理場』に怯え、般若のような顔で怒り狂っていたのが嘘のように、大将のお世辞とおまけでみりあは急速にゴキゲンになった。
「なんや、ええとこやん」
「フフッ、気に入ってくれてよかったよ」
拓海は、さっきまで涙目でしがみついてきたみりあのあまりの順応性の高さに、思わず苦笑いをする。
「まずは熱いうちにフライからいこうか。ソースもいいけど、ここは粗塩でどう?」
「おっ、ええな。いただきまーす」
みりあは揚げたてのフライにパラリと塩を振り、豪快にひと口齧った。サクッという軽快な音の後に、雪解けのようにフワフワな身がほろほろと崩れ、太刀魚ならではの上品な脂の甘みが口いっぱいに広がる。
「めちゃくちゃ旨いやん‼ 太刀魚ってこんなに美味しいん⁉」
「白身魚の中でも太刀魚の脂の乗りは格別だからね。サクサクの衣の中に、旨味がギュッと閉じ込められているんだ」
「ほんまや。これ、ビール無限にいけるやつやん。ほら、渋井くんも飲んで!」
みりあは自分のグラスを空にすると、拓海のグラスにも瓶ビールをトクトクと注ぎ足した。
続いて、大皿に盛られた刺身の盛り合わせ。深紅の赤身マグロ、おまけしてもらった中トロ、甘えび。そして、先ほど鱗を剥がされていたマダイに、赤貝と茹でタコが、大根のツマの上に美しく鎮座している。
「ふっふっふ、次はおまけの中トロや」
みりあが箸でつまみ上げ、わさび醤油に少しだけ端をつけて口に運ぶ。入れた瞬間、良質な脂が舌の温度でたちまち溶け出し、噛む間もなくスッと消えていった。
「んんん~~っ! とろける……! 噛まんでも口の中で消えたで!」
「フフッ、幸せそうな顔だね。僕はこのマダイをもらおうかな」
拓海がマダイを咀嚼し、満足そうに目を細めた。みりあもそれに倣ってマダイを口に運ぶ。さっきまで大将のまな板の上にいたマダイは、鮮度抜群で身がブリンブリンと弾き返すような凄まじい弾力だった。噛むたびに、淡白さの中に隠れた上品な旨味が滲み出てくる。
「どれどれ……うわっ、すごい! どの刺身も、海をそのまま食べてるみたいや……」
「海をそのまま……素敵な表現だね」
コリッコリの赤貝に、ねっとりと濃厚な甘えび。どれを食べても極上の味わいがみりあの舌を喜ばせる。
「あかん、騙されて腹立ってたのに、ビール泥棒すぎるわこれ……」
「フフッ。じゃあお詫びに大瓶をもう一本頼もうか」
「お言葉に甘えさせてもらうわ」
怒りと恐怖は、最高のスパイスだった。みりあは大将と冗談を交わし、スウェットパンツの膝を揺らしながら、一心不乱に海の幸を貪る。サクサクのフライと新鮮な刺身を平らげた後も、二人の勢いは止まらない。
ショーケースからアジの干物や煮アナゴを次々と追加注文し、最後は魚の出汁がたっぷりと溶け込んだ熱々のあら汁で締めた。
口に運ぶすべてを冷えた瓶ビールで豪快に流し込み、気がつけば、足元には空になった茶色い瓶が次々と並べられていった。
◇ ◇ ◇ ◇
夜も更けた頃、大満足で店を出た二人は、夜の海沿いの道をホテルへと向かって歩いていた。
「なんやかんや、ええ店やったなあ。ホテルのフレンチも惜しかったけど、ああいうのもたまには悪くないな」
「満足してくれたなら良かったよ。……でも、まさかあんなにいいリアクションが撮れるとはね」
「……なんや?」
拓海はポケットから自分のスマホを取り出すと、画面を操作してみりあの前に突き出した。
『ひぃっ……‼ 今の、絶対証拠隠滅してる音やん‼』
『肉削ぎ落としてる音やん……もう帰る、帰らせて‼』
画面の中で再生されたのは、暗闇の中で半泣きになりながら、拓海の腕に必死にしがみついている先ほどのみりあの姿だった。
「……い、いつの間に動画なんて撮ってんねん‼」
「いや〜、ただの真鯛の鱗取りに本気で怯えている姿が、あまりにも愛おしくてね。一生の宝物にするよ」
拓海はスマホの画面を愛おしそうに見つめながら、意地悪く微笑んだ。
「アホか‼ 恥ずかしすぎるわ‼消せや‼」
みりあは顔を真っ赤にして、拓海からスマホを奪おうと飛びかかった。
「こら、危ないよ」
「ええから貸せっ‼ 消せっ‼」
笑いながら腕を高く上げて拒む拓海と、必死に背伸びをして覆いかぶさるみりあ。平和な夜道で、ふたりが子供のようにもみくちゃになってじゃれ合っていると、ふいにみりあの手がピタリと止まり、宙を見上げた。
「……あっ! ち、ちょっと……見てみ渋井くん!」
みりあの声に釣られ、拓海もスマホを下ろして頭上を見上げる。
街の光が届かない真っ暗な夜空に、まるで無数の宝石をちりばめたような、満天の星が広がっていた。波の音だけが響く静寂の中、駿河湾の空から今にもこぼれ落ちてきそうなほどの星屑が瞬いている。
「……ほら、綺麗な星空でしょ?」
拓海が静かで優しい声で囁く。みりあはぽかんと口を開けたまま星空を見つめ、やがてふっと相好を崩した。
「……ほんまやな、嘘つきくん」
穏やかな波の音と、きらめく無数の星たち。初夏の心地よい夜風が、寄り添うように夜空を見上げる二人の影を優しく包み込んでいった。
少しでも面白いと思ったら、ブックマークや評価をお願いします。みりあと拓海が喜びます。
作者の各SNSで、本エピソードのトビラ絵をご覧になれます。




