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#4 黄金色の情熱のヌーベル・シノワ

春を告げるのは、なにも桜の開花宣言だけではない。渋井家のリビングでは、テレビから流れる地鳴りのような歓声と、乾いた快音、そして黄色いメガホンの打撃音が、新たな戦いの幕開けを強烈に主張していた。

「よしよし、初回からスリーランとか最高やん!! 今年もリーグ優勝、いや、日本一や!!」

黄色の応援Tシャツを着込み、頭をツインテールにくくったみりあが、テレビの前で上機嫌に跳ねている。一年で最も神聖な儀式、プロ野球の開幕。絶対に負けられない巨人との一戦はまだ序盤だが、阪神が鮮やかな先制攻撃を見せていた。

そこへ、スマホの着信音が鳴り響く。画面には〝渋井くん❤〟の文字。

「なんや渋井くん! 今めっちゃええとこやねん!」

「野球かい? なんだかすごい熱気だね」

「そらそうよ、今年もええ感じや!」

「フフッ、今仕事が終わって高円寺にいるんだ」

「高円寺?……って、前に古着買いに行ったな」

「うん。そこで情熱的なシェフが腕を振るう、五感を刺激する最新中華の〝ヌーベル・シノワ〟のお店があってね……みりあちゃんにもぜひ体験してもらいたいと思ってね」

「ヌードのシゴワ……え、なんて?」

「ヌーベル・シノワ、だよ、みりあちゃん。そこなら白熱の試合を特等席で観戦できる大迫力のシアターも完備されているんだ」

「ホンマに? よう分からんけど、大画面テレビがある、ええとこの本格中華ってことなん?」

「大画面テレビ、ええとこの本格中華……えっと、」

「ええで、今は気分が最高やからな。野球見ながら中華で勝利の前祝いと行こか」

「えっと、みりあち…」

「すぐ行くわ!」

拓海が詳細を説明するよりも早く、みりあは一方的に通話を切った。

「♪ろっこ~おろ~し~に エ~ビ~チ~リ~と~」

みりあは六甲おろしを口ずさみながら、光の速さでツインテールを整え、リップを引き直す。黒のチュールミニスカートの上に猛虎の刺繍が吠える黄色と黒の縦縞スカジャンを羽織り、黄色のハイテクスニーカーを鳴らして、嵐のように家を飛び出した。


◇ ◇ ◇ ◇


高円寺駅前。カーキ色のミリタリー風ジャケットの下に紺のブレザーを重ね着した拓海が待っていると、みりあがスマホの画面を憎々しげに睨みつけながら、ズカズカと足音を荒立てて現れた。

「どうしたんだい?」

「あかん! なんで電車乗ってる間に逆転されとんねん! 最悪や!」

「おや、雲行きが怪しくなってきたようだね。とりあえず、情熱が形になったような稀有な空間へ案内しよう」

「期待してるで。あたしのこの最悪なイライラ、最高級のエビチリで溶かしてや」

「フフッ……」

拓海に連れられて歩くこと数分。お洒落な古着屋やカフェが並ぶ通りを抜け、一行は急激に〝昭和〟の結界へと踏み込んだ。

「さあ、着いたよ」

「……ああ……うん」

みりあがスマホの一球速報から目を離し、顔を上げた。

「…………え、あ…………うっそ……うそ、うそ、うそうそうそうそ、絶対うそや!!」

そこにあったのは、もはや渋いという言葉では片付けられない、黒ずんだ四角いモルタル造りの二階建てだった。二階の窓には段ボールがぎっしりと積まれ、一階部分には赤錆の浮いたトタンの庇。その下で、白地に赤文字で「中華料理」と書かれた暖簾が春の夜風に力なく揺れている。傍らにはレトロなコカ・コーラの立て看板が置かれていた。

「……し……渋井くん。あの、一応聞くけど。あのお化けが出そうな二階の窓とか、なんかもう色々限界突破してるこの店が『最新中華』?」

「そうだよ。見てごらん、あの入り口を一見さんを拒絶するかのような、圧倒的なオーラを感じるだろう?」

「ただのボロ過ぎる町中華やないかい!! ヌードルのナントカってどこの言葉やねん!!情熱が形になったって、これただの『老朽化』やろ!!」

「そう、素敵な歳の取り方をしているよね?」

「誰にナニをゆーとんねん!!」

「それより、早く入ろう。ほら、試合も終盤だ」

「ほんまや! くっ……しゃーない、中入ろ!」


ガタガタ、と引き戸を開けて店内に一歩足を踏み入れると、外観の凄まじさとは裏腹に、そこは長年磨き込まれた清潔な昭和の空間だった。飴色に変色した板張りの壁には、古い振り子時計や、おかめのお面が付いた巨大な熊手が飾られている。そして店の中央には、見事な白木のコの字型カウンターがどっしりと鎮座し、その内側には水色のレトロな冷水機が置かれていた。

赤い座面の丸椅子に座り、ふとカウンターの奥へ視線をやったみりあは、再び絶叫した。

「ちょっ、渋井くん……まさか、大画面テレビって、あの吊り棚に置かれた小っさいテレビのことちゃうやろな……?」

「気が付いたかい? このお店に馴染む、迫力のモニターだと思わない?」

「画質荒すぎてボール見えへんわ!!」

「この濃密な空間においては、あれが立派な大画面シアターなんだ。心のスクリーンを通せば百インチに見えるはずだよ」

「どんな目ぇしとんねん!!」

みりあの怒りはよそに、吊り棚のテレビでは八回表、巨人の攻撃。阪神はノーアウト一、二塁という絶体絶命のピンチを迎えていた。みりあは丸椅子に座り直し、小さな画面を食い入るように見つめる。

「アカン……。またピンチや。おーん、ここは絶対ピッチャー交代やろ……なんで代えへんのや!」

「注文をお願いします。カツ丼と、オムライスを一つ。お酒は冷蔵庫からいただいていいんですよね?」

拓海は慣れた様子で注文を通すと、壁際を指差した。

「みりあちゃん、あそこの冷蔵庫から好きなのを持っておいで。グラスも冷えているよ」

「セルフサービスかいな」

みりあが立ち上がって向かった先には、「つめた~い」という文字が印字されたガラス扉の、年季の入ったコーラの業務用冷蔵庫が鎮座していた。隣の小さな棚には色褪せた漫画の単行本がぎっしりと並んでいる。みりあは冷蔵庫の中から、青と銀のパッケージに黄色いレモンが描かれた缶チューハイと、よく冷えたグラスを二つずつ取り出してカウンターへ戻った。

「これ、渋井くんの缶チューハイ」

「うん、ありがとう」

「なんか、自分ちみたいやな」

テレビから目を離さないままプシュッと小気味よい音を立てて開け、使い込まれたグラスへトクトクと注ぐ。シュワシュワとはじける透明な液体から、爽やかな柑橘の香りが漂った。氷の鳴るグラスを勢いよく煽ると、強炭酸の刺激とレモンの酸味が、熱くなった喉を爽快に駆け下りていく。

「ぷはーっ! キンキンに冷えてて最高やわ!……ぎゃっ、またフォアボールや!」

みりあが頭を抱えている間に、銀色の丸盆に乗せられた料理が運ばれてきた。

「さあ、みりあちゃん。特製のカツ丼だよ」

青い鳳凰と花の模様が鮮やかに描かれた丼の中には、白身と黄身がマーブル状に絡み合ったとろとろの半熟卵でとじられた大ぶりのトンカツが、照明を反射して黄金色に輝いている。丼の縁ギリギリまで敷き詰められた白米には、よく煮込まれた飴色の玉ねぎと、カツの旨味が溶け出した甘辛いタレがたっぷりと染み込んでいる。奥には油揚げと豆腐の入った熱々の味噌汁も見えた。

「んー、うまそうやなあ」

「さあ、みりあちゃんからどうぞ」

みりあはテレビの戦況をチラチラと気にしながらも、自ら割り箸を割って、一番分厚いカツの中央部分に食らいつく。サクッとした衣の食感を残しつつも、噛むと同時に甘辛い出汁と豚のジューシーな脂がじゅわっと口いっぱいに溢れ出した。絶妙な半熟加減の卵がそれらを優しく包み込み、米の甘みと完璧な一体感を生み出す。ひと口食べた瞬間、みりあは目を丸くして悶絶した。

「なんやこれ、めっちゃ旨いやん! 出汁の甘さ具合がめっちゃタイプや」

「中華スープをベースにした甘辛いタレだからね。蕎麦屋のカツ丼とはまた違う、ラードのコクが効いた中華っぽい味だろう?」

「ほんまや。豚の脂とスープの旨味がめっちゃご飯に染み込んでるわ」

「よかった。それに『勝つ』でゲン担ぎにもなるでしょ?」

「やるなあ、渋井くん。あんた……男前やな!」

「フフッ……ほら、オムライスも熱いうちに」

淡い水色の丸皿に乗せられたのは、焦げ目ひとつない鮮やかな黄色の薄焼き卵で、ふっくらとラグビーボール型に美しく包まれた昔ながらのオムライスだった。中央には、深紅のケチャップがぽってりと掛けられ、傍らには紙ナプキンでくるまれた銀色のスプーンが添えられている。

「見てみ、このオムライスの黄色。完全に阪神カラーやん。またニクイことしてくれんなあ」

「いや、これは狙っていたわけじゃないんだけど……」

「ちゃうんかい」

ムスッとしたみりあが、スプーンでタイガースイエローの卵をパカッと割ると、中から立ち上る湯気と共に、ラードで艶やかに炒められた赤いケチャップライスが顔を出した。大きくすくって口へと運ぶと、ラードの力強い香ばしさとケチャップのほどよい酸味が、絶妙なバランスで口いっぱいに広がっていく。

「ん──っ! これやこれ! この中華っぽい味がたまらんわぁ」

「中華鍋で高温のラードを使って一気に炒めるから、米の一粒一粒がコーティングされて香ばしいんだよ」

「ごろっと入った鶏肉と、玉ねぎの甘みがめっちゃええ仕事してるわ」

しかし、その極上の旨さに舌鼓を打っていたのも束の間、画面の中では容赦なくピンチが拡大していく。九回裏、一点ビハインドで二死満塁。一打逆転サヨナラのチャンスだが、バッターがツーストライクまで追い込まれた。

「……あかん、食べたいのに目が離せへん……ちょっと渋井くん、残りのオムライス食べさせて」

「やれやれ。はい、どうぞ」

拓海は呆れたような表情を浮かべつつも、みりあからスプーンを受け取り、ケチャップを絡めたオムライスをすくってみりあの口へと運ぶ。合間に自分もひと口。それぞれの幸せの時間が流れるが、みりあがテレビを覗き込もうと前のめりになるたび、拓海は空いた方の手で、まくり上がったチュールスカートの裾を、誰にも気づかれないよう静かに、そして何度も引き下げていた。

「なぁ、渋井くん。あんた、こんな緊迫状態でもえらい冷静やな」

「いや、それはみりあちゃんの……」

「まさか……」

みりあが、獲物を狙う虎のような眼光で拓海を射抜いた。

「まさか、巨人ファンちゃうやろな……? もしそうやったら……」

「僕はみりあちゃん以外は中立だよ」

「中日⁉ お前……」

「ちゅ・う・り・つ。ほら、ピッチャーが投げたよ」

「……あっ!!」

その瞬間、テレビの実況が絶叫した。快音が響き、白球が夜空に消えていく。直後、店内に怒号に近い歓声の嵐が吹き荒れた。それまで静かに飲んでいた常連客たちが一斉に立ち上がり、テレビに向かって拳を突き出す。ラジオの音量と割れんばかりの拍手が、狭い店内を震わせた。

「…………わっ、わっ、わっ、いったぁぁぁ──!! 逆・転・サヨナラや!!」

みりあは丸椅子から飛び上がるのを必死に堪え、両手で力強くガッツポーズを作った。

「くぅぅぅぅ……っ!! やった、やったで渋井くん!! いっちゃん嬉しい勝ちや!!」

歓喜の声を押し殺しながらブルブルと体を震わせると、熱狂そのままに厨房へ向かって声を張り上げる。

「すいませーん! 祝杯のレモンサワー、もう一本冷蔵庫から貰いまーす!」

そして限界突破した嬉しさのあまり、みりあは隣に座る拓海の首に両腕を回し、その頬にちゅっちゅっと激しく吸い付く。拓海は一瞬目を丸くして硬直したが、すぐに耳の先まで赤く染め、照れ笑いを浮かべた。

「……おめでとう。みりあちゃんの情熱が届いたようだね」


◇ ◇ ◇ ◇


店を出て、夜の高円寺の商店街を二人は歩く。サヨナラ勝ちの余韻とアルコールの火照りに包まれ、みりあはとにかく上機嫌だった。

「いやー、勝った勝った。あのカツ丼とオムライスのおかげかもしれんわ。渋井くん、今日は呼んでくれてありがとうな」

拓海がふと足を止め、少しだけ言いづらそうに視線を泳がせた。

「……あの、さっきは言いづらかったんだけど……」

「なんや?」

「みりあちゃん、興奮しすぎて気づいてなかったけど、その、見えてたんだよね……」

「……は? 何がや?」

「あの小さなテレビを覗き込もうと身を乗り出した瞬間、スカートがめくれてパンツが、その、見えていたんだよね」

「…………」

みりあは数秒間、モノクロの彫像のように固まった。高円寺の夜風が、急に冷たく感じられる。

「アホ!! なんですぐ言わなかったんや!!」

「いや、僕が何度も裾を直してあげていたんだよ。でも、みりあちゃんがそれを上回る情熱で跳ねるから……。勝利の女神の〝ピンクの勝負下着〟を、僕一人で守り抜くのが精一杯だったんだ」

みりあはふぅと息を吐き、納得したように頷いた。

「……阪神の勝利のために必死で守ってくれてたんか、じゃあしゃあないな……ってなるかボケ! そもそも、なんであたしの勝負下着のことまで知ってんねん!!」

「そんなの、愛するみりあちゃんのパンツ……」

春の少し冷たい夜風が吹き抜ける高円寺。赤提灯や古着屋のネオンが仄暗い路地に色とりどりの光を落とす中、満足げな微笑みを浮かべて歩く拓海の背中を、両手で必死にチュールスカートの裾を押さえながら、怒り心頭で小股で追いかけるみりあの影が、駅へと向かって続いていった。

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