#5 折り畳み丸椅子の王座
「ふっふっふ……ついにこの日が来たで」
渋井家のリビング。みりあは自らのスマホのカレンダーアプリを開き、四月上旬の枠に入力した『渋井くん誕生日大作戦❤』の文字を見つめながら、ニヤニヤと笑いが止まらなかった。
いつも斜め上の古びた店ばかりに連れて行く拓海へのお返しに、今回は自分が最高に綺麗で、夜景が見えて、椅子がふかふかの高級レストランを予約して、完璧な誕生日ディナーをプレゼントしてやるのだ。サプライズでギャフンと言わせる場面を想像し、みりあの胸は朝からウキウキと弾みっぱなしだった。
得意げな足取りでソファで読書中の拓海に近づくと、みりあはスマホを隠しながら誇らしげに切り出した。
「し・ぶ・い・く・ん。今週の土曜日、空けといてや」
「土曜日?……あ、もしかして……」
「せやで。渋井くんの誕生日やろ? どこかでおいしいごはん食べようや。渋井くんみたいに古~いとこちゃうで。あたしが綺麗でラグジュアリーなとこ選んだる。もうな、夜景がすごくて、椅子がふかふかの店や!」
鼻息を荒くするみりあに対し、拓海は手元の文庫本を閉じ、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、みりあちゃん、気遣いは嬉しいけれど……今年の誕生日は行きたいお店があるんだ」
「え、そーなんや? どこなん?」
「うん。石神井公園って知っているかい?」
「石神井公園……知らんなあ。どこやそれ?」
「練馬だよ。大きな公園があって、すごくいい街なんだ。都会の喧騒を忘れて、自分を見つめ直すには最高の場所だよ」
「ふ~ん。まあ、渋井くんの誕生日やし、好きなとこでええよ……って、まためっちゃガタガタの建物なんちゃうか⁉」
みりあは過去の〝遺跡巡り〟を思い出し、瞬時にジト目になった。しかし拓海は、動じることなく優雅に頷く。
「ガタガタの建物……うーん、ちょっと違うけど、特別な〝王座〟へ案内するよ。そこから見る景色は、どんな高級店にも勝るはずさ」
「王座、ねえ……」
「付き合ってもらえるかい?」
「ええよ。そのお店でお祝いしようや」
みりあは拓海の〝王座〟という言葉に、中世ヨーロッパの城のような重厚なレストランを勝手に想像し、胸を躍らせた。そんなみりあの様子を横目で見ながら、拓海は計画通りだとばかりに、口元に悪戯な笑みを浮かべていた。
◇ ◇ ◇ ◇
当日のみりあは、中世ヨーロッパの城に相応しい最高の一張羅で決めていた。キラキラのヘアクリップを多用したハーフアップに、華奢な胸元を美しく見せる光沢の美しいボルドーのサテン・キャミソールワンピース。肩にはフェイクファーのストールを羽織り、足元はゴールドのポインテッドトゥヒール。これぞ石神井公園の〝歩くベルサイユ〟状態である。拓海はみりあにコーディネートしてもらったネイビーのチェスターコートにチャコールグレーのスリーピース。完璧な装いの二人の影が、西武池袋線のホームに長く伸びていた。
「もうすぐだよ」
「なんや、あたしが楽しみになってきたわ」
駅から出て少し歩き、商業施設や銀行が並ぶ一角。拓海が立ち止まったのは、ある銀行の裏手にある、街灯も届かない薄暗い路地だった。そこに、闇に浮かぶ「ラーメン」「おでん」と書かれた赤い提灯。
「……ストップ、渋井くん、ストップや。なんでウチら、あの赤提灯に向かってんねん……」
「フフッ、さすがみりあちゃん。もう気付いたかな?」
ゆらゆらと夜風に揺れる赤提灯のすぐ前で、拓海の足がピタリと止まる。
「……いや、これは、さすがに……なあ、まさかな、まさか…………まさかやろっ⁉」
みりあの予感は、最悪の形で的中した。目の前に鎮座していたのは、二つの大きなタイヤがついた年季の入りすぎたリヤカーを改造し、その場所にガッチリと固定された屋台だった。
「よかった、今夜は営業していたよ」
「……こ、これまでの店は一応『建物』やったけど……ついに『屋台』になったんかい!!」
みりあの絶叫が、静かな銀行の裏に響き渡る。
「なるほど、この屋台がお城に向かう『豪華な馬車』ってワケや……って、アホか!! タイヤがパンクしかけのボロ車やないか!! ドレスコードのベルサイユ、完全に浮いとるやんけ!」
「しー、ここは声が響きやすいんだ」
「っていうか王座は⁉ 王座はどこや⁉」
「ほら、目の前にあるじゃないか」
拓海が差し出したのは、擦れてテカりきった赤いプラスチック製の折り畳み丸椅子だった。
「この儚さが分からないかな。朝には消えてしまう、一夜限りの幻。これこそが真のラグジュアリーだよ。さあ、王座へ」
「〝さあ〟ちゃうわ!! 王座て……この百均で売ってそうな赤い椅子のことかい!!」
「まあまあ、一度座ってごらん」
拓海が手を貸してそれらしくエスコートする。みりあは戸惑いながらも、震える足でその王座──使い込まれた赤いプラスチック製の丸椅子へと腰を下ろした。四月の寒の戻りで、吹き抜ける夜風がサテンの生地を無慈悲に冷やしていく。素肌を晒した肩が思わずブルッと震えた。
「く、寒っ……! 渋井くん……あたし誕生日のお祝いに来たはずやのに、なんでこんな修行僧みたいなことせなあかんねん……」
「極限の寒さが、最高のスパイスになるんだよ。はい、まずは乾杯」
拓海が屋台のクーラーボックスから慣れた手つきで取り出したのは、金色の缶のハイボールだ。プシュッと小気味よい音とともに差し出された缶を手に、みりあはあきれ果てた様子を隠そうともせず、天を仰いで深くため息をつきながら乾杯した。
「誕生日に、缶のハイボールて……」
「僕は好きだな、缶のハイボール」
「……ああもう、あんたがそれでええならええけど」
「うん。次は、おでんを食べようよ」
店主が四角いおでん鍋の木蓋を開けた瞬間、関東風の真っ黒な出汁の湯気がふわっとみりあの顔を包み込んだ。醤油と鰹の芳醇な香りが、冷え切った鼻腔を強烈にくすぐる。
「ほー、なんやかんやでおいしそうやなあ」
「やっぱり、おでんはこの鍋だね」
「おっちゃん、大根と……あと、その〝しゅんでる〟はんぺんもちょうだい!」
「あいよ」
店主が長い菜箸を器用に使い、飴色に染まった種を皿へ次々とよそっていく。
「まずは大根やな……あふっ、熱っ!旨っ!」
フーフーと白い息を吹きかけながら箸を立てると、限界まで煮込まれた大根にはすっと抵抗なく箸が沈み込んだ。ひと口かぶりついた瞬間、熱々で濃厚な出汁がジュワッと口いっぱいに溢れ出し、大根の自然な甘みと完璧なマリアージュ。その極上の旨味と温かさが、夜風に冷え切った体の芯までじんわりと染み渡っていった。
「この三角のはんぺんも、出汁を限界まで吸い込んで黄金色に輝いていていいだろう?」
「んんっ、ほんまや。ふわっふわで口の中でとろける!」
みりあは目を細めて熱々のはんぺんを飲み込むと、今度は器に残った玉子を躊躇なく箸で崩し始めた。
「そんで、最後は行儀悪く、こうやって……」
どろりと黄身が溶け込んだ出汁を、器ごと口元へ持っていく。
「ん~~、もうたまらんわ!」
屋台の裸電球に照らされたみりあの顔は、寒さも忘れてすっかり上気していた。おでんで身体が温まったところに、拓海が自慢げに切り出した。
「これで終わりじゃないよ。すいません、ラーメン二つ。……最高の一杯を頼みます」
「あいよ、ラーメンふたつね」
店主は使い込まれた寸胴鍋の蓋をサッと開け、菜箸で踊るように麺を泳がせる。と同時に、もう片方の手で用意したどんぶりに特製の醤油ダレと黄金色の鶏油を迷いなく注ぎ込んだ。絶妙なタイミングで麺を引き揚げると、平ザルを空中でリズミカルに振り、チャッ、チャッ、と小気味よい音を響かせて一滴残らず湯を切る。一畳にも満たない狭い調理スペースの中で流れるように具材が盛り付けられ、無駄のない洗練された職人の動きによって、あっという間に至高の一杯が仕上げられていく。
「はいお待ち。熱いから気をつけな」
差し出された雷紋が描かれたどんぶりの中には、箸で崩れそうなほど柔らかいチャーシュー、味が染みたメンマ、艶やかな半熟味玉、そして大判の海苔が鎮座している。中央にはネギとカイワレが小高く盛られ、表面の脂がキラキラと輝いていた。
「はぁぁ……おいしそう……」
たまらず箸を割り、みりあはふうふうと息を吹きかけながら、勢いよく麺を啜り上げた。
「……っ! なんやこれ、このスープ抜群や!」
「でしょう? 鶏ガラのコクと醤油のキレが最高なんだ」
「ほんまや……そこらへんのラーメン屋よりぜんぜん旨いわぁ」
みりあはため息をつくように呟き、もうひと口スープを飲んだ。
「……一張羅で食べる屋台のラーメン、どの高級フレンチよりも遥かに説得力を持っとるわ」
「夜風の中で食べるからこそ、この熱さが際立つんだよ」
「ほんま、その通りかもしれへん。石神井公園、恐るべしやで……」
二人はモクモクと掴めそうなほどの白い湯気の中、夢中で麺を啜り上げた。気が付けば、みりあも拓海も、顔を見合わせて子供のように笑っていた。冷たい夜風の中で味わう熱々のラーメンは、どんな贅沢よりも深い幸せで二人を包んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
屋台を出て、二人は静まり返った石神井公園の池のほとりへと足を向けた。波一つない暗い水面はまるで巨大な鏡のようで、対岸に建つ瀟洒な洋館の窓の光や、遠くにそびえる高層マンションの灯りをくっきりと映し出している。
「……ひっくし!」
ロマンチックな静けさの中、唐突にみりあが派手なくしゃみをした。
「あかん……ただでさえ花粉症なのに風邪まで引いたかもしれへん」
くしゃみの連発でヘアスタイルも少し乱れたが、 みりあは気にする風もなく、人差し指で鼻の下をさっと拭った。拓海は、そんなみりあを温かな目で見つめていた。
「……いつも僕のわがままに付き合ってくれて、ありがとう、みりあちゃん」
不意打ちの言葉に、みりあは言葉を失った。
「え……なんや急に。気持ち悪いな」
「いや、みりあちゃんが隣で怒ったり、笑ったり、美味しそうに食べてくれるから、僕は僕でいられるんだ」
「あー……まあ……うん」
「今年も、最高の誕生日になったよ」
拓海のまっすぐな言葉に、みりあの胸の奥がじわりと熱くなる。
「……し、渋井くんはほんま、店選びだけやなくて性格もひねくれとるけど……」
「フフッ」
「……誕生日おめでとう」
「うん、ありがとう」
「……で、でも! 来年は百均の椅子やない店にしようや」
みりあは拓海の肩をポンと叩き、ようやく素直に笑った。……が、ふいにみりあの顔を見つめた拓海の表情が、スッと真面目なものに変わる。
「あの、みりあちゃん」
「な……なんや?」
「鼻水、出てるよ」
「……っ⁉ ちょ……み、見んなや!」
拓海が微笑みながら自分のハンカチを取り出し、みりあの鼻を優しく拭おうとする。
「やめや! 自分で拭くから!」
「いいから、じっとしてて」
「恥ずかしい言うてるやろ! ……ああっ、もう!」
みりあは抵抗しながらも、最後はちんまりと目を閉じ、大人しく拓海の手にされるがままになった。そして、照れ隠しでわざと視線を外しながらファーの隙間に隠し持っていた紙袋を、ぶっきらぼうに拓海の方へグイと上げた。
「はい、これ」
「ん? なんだい?」
差し出された紙袋を見つめ、拓海はそれが自分への誕生日プレゼントだとすぐに悟った。驚きに一瞬目を見開いたが、すぐに目を細めて、宝物でも扱うかのような手つきでそれを受け取った。
「ほんまは、綺麗な夜景の見えるレストランで、渡すつもりやってんけどなー」
拓海が上品なネイビーのボックスを開ける。中には、ボルドーレッドに細かなペイズリー柄があしらわれた、最高級シルクのネクタイが入っていた。
「あ……」
「渋井くん、いっつも地味な色のスーツばっかりやし。あたしのこの一張羅とお揃いの色や。……あんたはすぐボロい店ばっかり行くけど、せめて小物は派手なもん身につけとき」
みりあがそっぽを向いた、次の瞬間。
ぐいっ、と強い力で腕を引かれた。
「えっ……」
拓海がネクタイの箱を持ったままの腕で、みりあを正面からぎゅっと抱きしめていた。
「……ありがとう、みりあちゃん。本当に嬉しいよ」
耳元で囁かれた声は、いつもの冷静なトーンではなく、少年のように弾んだ喜びに満ちていた。
「ちょっ、渋井くん……! 急に抱きつくなや、びっくりするやろ……」
「可愛い鼻水妻からの、最高のプレゼントだ。次に〝王座〟へエスコートする時は、必ずこれを着けていくよ」
「王座は……もうええて!」
みりあは真っ赤な鼻で笑い、拓海の背中にそっと手を回した。
二人の影が、鏡のような水面の横をゆっくりと進んでいく。プレゼントの箱を大事そうに抱える拓海と、その隣で夜風にファーを揺らすみりあの姿が、静かな闇の中へ溶け込んでいった。
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