#3 横浜、選ばれし職人のサンクチュアリ
遠くで響く汽笛の音さえ、春の陽気を含んでどこか柔らかく聞こえる。横浜・山手。瀟洒な洋館の並ぶ丘の上は、今まさに〝桜のトンネル〟の真っ只中にあった。
陽光に透ける桜並木のアーチをくぐり抜けながら、みりあは弾むような足取りで石畳の坂道を歩いていた。
「渋井くん、はよおいでー。桜めっちゃ綺麗やで」
急勾配の坂道に少し息を切らした拓海が、追いつきながら苦笑いを浮かべる。
「みりあちゃんは元気だね。僕はもう、この坂でちょっと足にきているよ」
「だらしないなあ! さっき見学した洋館、ほんま素敵やったわぁ。入り口のミントグリーンの壁とか、窓際のアンティーク家具とか、お姫様になった気分やったわ」
「僕もこういう歴史ある建物は好きなんだ。あのサンルームで紅茶を飲んでいる君の姿は、まるで絵画のようだったよ」
「出たで、渋井くんの適当な褒め言葉。……まあ、お姫様扱いは悪い気せぇへんけどな」
数日前、拓海から「世界の物流を支えるプロフェッショナルだけが昼夜に集う、秘匿性の高いプライベート・キッチンへ行こう」と誘われた時は、また半分傾いているような店に連行されるのだと警戒度マックスだった。
しかし、今日の〝渋井くん〟は一味違った。異国情緒あふれる瀟洒な洋館が立ち並び、桜のベールに包まれた華やかなエリアをエスコートされ、みりあのテンションはすでに大気圏を突破しそうだった。
テーラードジャケット姿の拓海がスマートに微笑む。みりあは肩開きの白トップスとスキニーデニムに、ベージュのトレンチを羽織った春の横浜に完璧な装いだ。足元のヒールサンダルが、舞い散る花びらの上で軽快な音を立てる。
「夕日、綺麗やなあ」
「うん。でも少し肌寒くなってきたね」
夕暮れ時。二人は港を見下ろす展望台へとやってきた。薄紅色の桜越しに見る、オレンジ色に染まる海面と、遠くで響く船の汽笛。はたから見れば、ウェディング雑誌の撮影かと思うほど絵になる理想的なカップルだ。みりあの拓海に対する警戒心はゼロ、いや、マイナスにまで振り切れていた。
「横浜って、みなとみらいや中華街だけやないんやな。今日はほんまに最高のデートやわ」
「喜んでもらえて何よりだよ。さあ、そろそろ日が暮れる。サンクチュアリへ向かおうか」
「うん、行こう!」
完璧なエスコート。桜の魔法も相まって、みりあは完全に油断しきっていた。
◇ ◇ ◇ ◇
山手の美しい丘を下り、海側へと歩を進めるにつれて、世界は少しずつその色を変えていった。先程までの華やいだ桜の気配や、綺麗に手入れされた花壇、ガス灯のレプリカはいつの間にか姿を消している。代わりに現れたのは、無機質なコンクリートの簡易宿泊所や、年季の入った雑居ビルがひしめき合う異様な街並みだった。
「……なあ」
「うん?」
すれ違う人々の層も、休日の観光客から、日に焼けた作業着姿やスウェット姿の男性たちへと露骨に変わる。みりあは、周囲の空気がヒリヒリとささくれ立っていくのを感じ、思わず拓海の袖をギュッと掴んだ。
「なあ渋井くん。あの看板見てみ、『一泊一五〇〇円』てほんまか? 漫喫でももうちょいするやろ」
「驚くことはないよ。巨大な物流の要所には、それを支える戦士たちの休息地が必要なんだ」
歩みを進めるにつれ、足元の石畳は割れたアスファルトに変わり、みりあの細いヒールが隙間に挟まりそうになる。
「まだ歩くん? 気のせいか、さっきから景色がねずみ色になってきたんやけど」
「大丈夫。物流の要衝には、それ相応の頭脳が集まる場所があるんだ」
フェンスに囲まれた小さな公園が見えてきた。薄暗くなりかけた園内では、お世辞にも綺麗とは言えない身なりの男たちが数人集まり、将棋盤を囲んでいる。
「なんであのオッチャンら、こんな夕暮れ時の公園で地べたに座って将棋してんやろ? しかもワンカップ片手に」
「……あれはただの将棋じゃないんだ。過酷な現場を生き抜いた仕事人たちによる、高度な頭脳戦……いわばストリート・チェスさ」
「なんなんそれ」
「フフッ……ほら、今夜のディナーが見えてきたよ」
「……え?」
辿り着いたのは、日本三大ドヤ街の一つと呼ばれるディープなエリアのど真ん中だった。目の前には、色褪せたオレンジ色のテント屋根に、黒々と力強い相撲字で〝めし〟と書かれた外観。店先には黄色い〝定食屋〟ののぼり旗がパタパタと浜風に揺れている。
「ちょっ……ちょ、ちょっと……え、嘘やな?……嘘やんなぁぁぁぁ⁉」
みりあの悲鳴に近い絶叫が、殺伐とした路地に響き渡る。
「……薄っすら気づいててん!! ここ、大阪の西成と空気一緒やん!!なにのどこがプライベート・キッチンやねん!!ただのドヤ街の食堂やないかい!!」
「声が大きいよ、みりあちゃん。ほら、あの入り口が僕たちを待っているよ?」
「待ってへんわ!! あたしは今すぐみなとみらいに行きたいねん!!観覧車乗って、お洒落なディナー食べる言うたやんか!!」
「みなとみらいの夜景も素晴らしいけれど、あそこは観光客で溢れている。真の美食は、もっと深く、街の息遣いが聞こえる場所にあるんだ。ここでしか味わえない〝歴史〟を逃す手はないよ」
「歴史って、あんたがいつも言ってんのはただの年季やろ!!屋根とか壁とかイスとか古なっただけの年季や!!」
「さすが、素敵な解釈だね。騙されたと思って、その年季を少し味わってみてもいいだろう?」
「えーもー……、ほんまに?……ほんまに、ちょっとだけやんな?」
「大丈夫。そもそも、ここは長居するようなところじゃないよ」
「だったら最初っから来んなや……」
ガラガラと音を立てて引き戸を開けると、
「いらっしゃい! 空いてるとこ座って!」
割烹着姿のおばちゃんの威勢のいい声が飛んできた。その声に一瞬怯みながらも店内を見渡せば、そこはプロの修羅……いや、プロの仕事人たちの熱気に包まれていた。緑色に塗られた床。そして何より目を引くのは、壁という壁を埋め尽くすようにびっしりと貼られた、手書きのメニュー短冊の異常な数だ。奥には赤と白のチェック柄のテーブルクロスが見えるが、拓海は迷わず手前の白木のカウンター席へ向かい、緑っぽい色の丸いクッション椅子に腰を下ろした。みりあはため息のような声で言った。
「(うわ……またどえらいとこや……)」
「(うん、いいね)」
そこに、トレンチコートにクラッチバッグという、港区女子のような出で立ちのみりあが放り込まれたのだ。完全に浮いている。
「あたし絶対ここに似合ってへんって! 見られとる! めーっちゃ見られとるって!」
「大丈夫だよ。僕たちもこの末席から、そっと彼らの空気に加わらせてもらおう」
拓海は涼しい顔で、慣れた様子で注文を通す。まず目の前にドンと置かれたのは、赤い菱形のロゴが入った透明なガラスの徳利と、小さなグラスだった。
「完全にオッチャンが昼間から飲むやつやん……。あたし、日本酒ってあんまり得意やないねんけど」
文句を言いつつもグラスに注ぎ、恐る恐る口に運ぶみりあ。
「……あれ?」
ツンとしたアルコール臭を想像していたが、思いのほかスッキリと喉を通っていく。
「意外とイケるわ……日本酒ってこんなやったっけ? 水みたいにスルスルいけるやん」
「過酷な現場で乾いた喉を潤す、魔法の水だからね」
「あたしは過酷な現場におらんかったけどな!」
続いて運ばれてきたのは、大衆食堂の三種の神器とも言えるラインナップだった。まずはハムエッグ。薄切りの丸い縁取りハムの上に、見事な半熟の目玉焼きが二つ乗っている。白身の縁は油でカリッと香ばしく焼かれ、傍らには千切りキャベツが添えられていた。そして、マグロブツ。大ぶりにぶつ切りされた分厚い赤身が、ツマとキュウリのスライスと共に無造作に盛られている。
「こんなとこでヒール履いてマグロ食う女、世界中探してもあたしだけやで……」
ブツブツと言いながらマグロブツを口に放り込むと、みりあの目が見開かれた。
「え、うまっ」
角がピンと立った赤身はねっとりとした舌触りで、濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。
「悔しいけど、めっちゃ新鮮で旨いやん!」
「都会といっても、ここは港町だからね」
ハムエッグの黄身を割り、そこへ醤油を無作法に垂らしてハムと絡めて口に運ぶ。
「……あかん、このジャンクな味、たまらんわあ」
「長年使い込まれた鉄鍋の油が、ただのハムと卵を極上のツマミに格上げさせているんだね」
「なんや、ウナギのタレみたいやな」
みりあは箸先でチビリと黄身を舐めた。
「はい、生姜焼きね。単品でよかったわよね?」
「ええ、ありがとうございます」
そして生姜焼きが登場する。くるりと丸まった分厚い豚肉には、生姜がたっぷり効いたタレが照り輝くように絡みついている。付け合わせのトマトの赤が目に鮮やかだ。
「めっちゃ……ええ匂い」
みりあは箸で一番大きな肉切れを持ち上げた。ずっしりとした豚肉の重量感と共に、ツンと鼻を抜ける生姜の香ばしい香りが、理性のストッパーを完全に破壊する。
「なんやこれ、めっちゃうまっ!!」
ひと口食べれば、豚の脂の甘みと、甘辛いタレの奥底にある生姜の鮮烈な風味が口の中で爆発した。噛むほどに溢れ出す肉汁が、濃いめのタレと完璧に融合していく。
「甘辛さがちょうどええねんなあ~」
「よかった、きっと豚肉も喜んでるよ」
「ブーブー」
さらに、肉の下に敷かれた千切りキャベツが、その極上のタレと肉汁を一滴残らず吸い込んでいる。タレの染みたしんなりとしたキャベツを肉で巻いて頬張ると、もはや日本酒だけでは到底受け止めきれないほどの強烈なコクがあった。炭水化物を求める本能が、みりあの脳内で警鐘を鳴らす。
「これ、最高や。渋井くん、やっぱりライス頼まへん?」
「その言葉を待っていたよ。すいません、ライスの並を一つ」
店のおばちゃんが迷いのない手つきでドンと置いた茶碗を見て、みりあの思考が停止した。
「……は? ちょっ、ちょっと待って。渋井くん、あんたいま『並』言うたよな⁉」
「そう、これがここの並サイズなんだよ」
「これが並なん⁉山やん⁉日本昔話に出てくるような山盛りやんか!!こんなん食べきれへんて!!」
「フフッ……この街の〝標準〟は、僕たちの常識を軽々と超えていくんだよ。まさに職人たちのエネルギー源だね」
「何をワケの分からんことを……」
みりあは恨めしそうな顔のまま、タレが滴る分厚い豚肉を白米の山頂へ乗せた。そして、肉と一緒にタレの染みたご飯を大きくすくって口へ運ぶ。
「おっ!!」
強烈な生姜の風味と豚の脂が熱々の白米と合わさることで、圧倒的なまでの旨味へと化したのだ。
「タレの染みた白米、悪魔的に旨いわ……! これ、逆にご飯足らへんようになるやつやん!」
「フフッ。これは大衆食堂ならではの魔法さ」
「……めっちゃ魔法にかかってもうた」
濃い味付けの生姜焼きと山盛りのご飯の無限ループが止まらない。驚きも恐怖も忘れ、みりあはガチの旨さに完全に胃袋を支配されていた。
食後の満足感の中、最後のひと口の日本酒を飲み干したみりあが息をつく。
「くぅ~~~~っ、米の酒を白米で追いかける感じ……たまらんわ!」
そんなみりあを見て、拓海が優雅に微笑む。
「満足してくれたみたいで良かったよ」
「まあ……味は確かにええな。でも、山手からの落差がエグすぎるねん」
「フフッ……山手の洋館を歩いていた時は、そのトレンチコートがよく似合うエレガントな淑女だったのに、」
拓海が、いつものように冷静なトーンで囁いた。
「今、大盛りご飯を掻き込む君の姿は……張り込み明けに定食屋へ飛び込んだ〝昭和のベテラン刑事〟と完全に一致しているよ」
「逮捕したろか!!」
◇ ◇ ◇ ◇
店を出て、すっかり日の落ちた夜道を歩き出す二人。拓海がふと立ち止まり、夜空を見上げて微笑んだ。
「じゃあ、そろそろみなとみらいに行こうか」
みりあはピタリと足を止め、ジト目で拓海を睨みつけた。
「い・や・や。またどうせ渋いとこ行くんやろ。『観覧車のような巨大な換気扇がある本格中華』とかなんとか言うて」
「そうそう、観覧車。横浜の夜景を見ようよ」
「えっ、夜景?」
「そう、夜景」
「…………って、ほんまのやつ?」
「うん。さあ、行こうよ」
拓海の優しい眼差しに、みりあは毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。
「……しゃあないなあ。ほな、連れてってもらおか」
みりあは少し照れくさそうに笑い、拓海の差し出した腕にそっと自分の腕を絡ませた。
先ほどまではヒリヒリして恐ろしく見えた簡易宿泊所の立ち並ぶ路地も、今となってはどこか哀愁漂う映画のセットのようにすら感じられるから不思議だ。遠くの夜空に浮かぶみなとみらいの煌びやかなネオンを目指し、不釣り合いにお洒落をした二つの影は、ディープな街の静寂の中をぴったりと身を寄せ合いながら歩いていった。
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