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#2 重力に負けた看板

「あ、もしもし、みりあちゃん? もうお昼ご飯は食べたかい?」

「シャカシャカシャカ……。んー、まだやけど。いま、一生懸命()ぇ磨いてるとこや」

三月の少し肌寒い風が、北千住駅前の雑踏を吹き抜けていた。トレンチコートを翻し、拓海は食品メーカーの卸業者との打ち合わせを終え、スマホを耳に当てながら歩いている。自社のドレッシングの棚割りを完璧なプレゼンで勝ち取った彼は、端正な目元をわずかに細め、線路沿いの入り組んだ路地裏に目を向けた。

「ちょうどよかった。美味しいお寿司でも食べに行こうよ。北千住に、予約の取れない究極の〝隠れ家ギルド〟を見つけたんだ」

「シャカシャカ……」

「選ばれし者だけが辿り着ける、特別な場所さ。そこはね、重力から解放されたかのような、物理法則を超越した空間美を愉しめるお店なんだよ」

「シャカシャカ……(ペッ)。重力からの解放ぉ~? また始まったわ。こないだの煮込み屋の時もそう言うて、あたしを一時間も地蔵にさせたやんか。北千住のなんて? そんなん、どうせまたどえらい古い……」

「まさか。今回は本当に〝スペーシー〟な体験になるはずだよ。君の想像力では追いつかないほどのね」

「ん~? カレーかいな。ほな辛めがええな」

「違うよ、みりあちゃん。スペーシー。スパイシーじゃないよ」

「すぺーしー?……なんかようわからんけど、お腹空きすぎてカレーでもお寿司でも、胃に入れば一緒や」

「じゃあ、一三時に北千住駅の西口で待ち合わせよう」

「ええよ。ただ期待させといてボロ屋やったら、藤井寺の千手観音ばりの往復ビンタしたるからな」

「フフッ……それは怖いね。じゃあ、楽しみにしててね」

通話を切った拓海は、静かに肩を揺らした。みりあが〝スペーシー〟という言葉から、キラキラしたSFファンタジーのような近未来デザインを想像しているのは明らかだ。これから向かう場所が、別の意味で彼女の理解を完全に超える〝特異点〟のような伝説の寿司屋だとは露ほども知らずに。


◇ ◇ ◇ ◇


一三時。北千住駅の西口出口。拓海は一人、待ち合わせ場所のロータリー脇に立っていた。行き交う人々の中で、彼の長身と整った身なりは静かに目を引いている。時折腕時計に目を落としながらも、その視線はこれから訪れる〝落差〟への期待に、わずかに温度を上げていた。

「あ、おったおった」

「やあ、待ってたよ」

「スパイシー言うからカレーが飛び跳ねてもええような恰好で来たわ」

「みりあちゃん、スペーシーだよ。でも素敵だね。まさに宇宙の銀河的な漆黒のイメージだよ」

「なんやそれ」

現れたみりあは、拓海の訂正などどこ吹く風で胸を張った。今日のみりあは、ハイポニーテールを揺らし、ファー付きライダースからタイトなレザーミニワンピ、一〇センチの厚底ブーツに至るまで全身を黒で統一した、まさに〝漆黒〟の装いだ。上から下までカレーの汁を無効化するオールブラックスタイルだが、艶やかな金髪だけが都会の光を浴びて派手に輝いている。

「北千住、初めて来たけどだいぶ都会やな。もっと田舎なんか思てたわ」

「いやいや、ここは日本有数の交通の要所だからね」

二人は駅前の賑やかなロータリーを抜け、活気ある商店街へと歩き出した。

「こんだけ店あるし、きっとええ寿司屋なんやろなあ」

「フフッ、回るお寿司ではないことは間違いないよ」

「そうなんや。まあ、あたしは回る寿司屋も好きやけどな」

そんな軽い会話を交わしながら、賑やかな商店街から一本逸れ、日光街道を渡ると、景色は一気に色彩を減らしていく。道幅は急激に狭まり、スナックと古いアパートが肩を寄せ合う路地裏。そこには、時間が数十年前から止まったままのような一角があった。

「さあ、あそこだよ」

「あーん?」

最後の角を曲がった瞬間、その建物は不意に現れた。拓海の言葉にみりあの足が、アスファルトに縫い付けられたように止まる。

「いや、待って…………待って…………待て待て待て待て、待ててっ!!」

みりあは後ずさりしながら、目の前の〝それ〟に震える指を突き出した。そこには、およそ寿司屋とは思えない、壮絶な光景があった。二階建ての木造建築は、今にも自重で崩れ落ちそうなほどに傾き、煤けたトタン壁は深い錆に覆われている。

「う、嘘やん……これって、ほんまにお店なん!?」

「もちろん。ほら、お客さんも結構入ってるよ」

「だって、あの看板見てみ!!完全に押しつぶされそうになってるやん!!そもそも何で治さへんねん!!」

店舗正面の巨大な看板は、中央からグニャグニャにひしゃげ、左半分はぜんまいバネのように内側へ巻きかかっている。一番角度の入った部分に、かろうじて〝鮨〟の一文字だけが絶望的な角度で読み取れた。

「フフッ、あの看板かい? あれは長年、この街の〝重力〟を一点に受け止め続けてきた証さ。まさにスペーシーな空間美だと思わないかい?」

「なんでここだけ地球の重力とちゃうねん!!ほんなら店の中だってめちゃくちゃなっとるやん!!誰がこの看板見て『よっしゃ、寿司食お♪』ってなんねん!!」

「しーっ、みりあちゃん、声が大きいよ」

「いや、あんたが……」

「ほら、扉は開いている。重力の中心へ飛び込んでみよう」

「嘘やん……これなら駅前の回る寿司屋でええのにぃ……」

溜め息混じりの文句を垂れ流すみりあの背中を、拓海はどこか嬉しそうに押し出した。みりあは不満げな顔のまま、触れれば崩れそうな歪な木製の引き戸を嫌々滑らせて店の中へと足を踏み入れた。


◇ ◇ ◇ ◇


店内に入ると、そこは外の廃墟感からは一転、濃密な〝寿司屋の矜持〟が混ざり合った独特の空気に包まれた。

「いらっしゃい」

「瓶ビールと、グラスをふたつください」

まず運ばれてきた瓶ビール。ラベルが少し色褪せた昔ながらの銘柄。キンキンに冷えた大瓶の表面にはびっしりと水滴が浮かび、小さなグラスに拓海が手慣れた様子で注ぐと、黄金色の液体と純白の泡が美しい層を成す。トクトクという小気味よい音が、年季の入った静かな店内に響き渡った。

「……くぅぅぅぅ、うまっ!! 喉にガツンとくるなあ。なんか味も濃く感じるわ」

「ここの重力の低さが、アルコールの浸透を早めてくれるのかもね」

「適当なこと言いなや。……でも、昼間のビールって最高やな」

「フフッ、今からもっと最高のものがやってくるよ」

しばらくして、宝石のようなネタが踊る「特上海鮮丼」が運ばれてきた。年季の入った漆塗りの器に、これでもかとばかりに海の幸が敷き詰められている。角がピンと立った分厚いマグロの赤身、艶やかに光る肉厚なホタテ、透き通るような瑞々しい甘海老。さらに中央には、こんもりと盛られた黄金色のウニと、ルビーのように輝く大粒のイクラが零れんばかりに散りばめられ、ほんのりと赤酢の効いたシャリの香りが食欲を心地よく刺激した。

「うっそ……こんな綺麗な海鮮丼てあんの? キラキラ光ってて……ベタやけど、ほんまに海の宝石箱やんか!」

みりあは目を丸くして、器の上の豪華絢爛な景色に食い入るように見つめている。

「宝石はただケースに飾って眺めるものじゃない。身に着けて初めて価値が出るだろう? この海の宝石たちも君に味わってもらって、初めて本当の輝きを放つんだ」

「ほな、一番ええとこ『身に着け』させてもらうわ……いただきます!」

みりあは勢いよく割り箸をパチンと割り、まずは分厚いマグロの赤身を一切れ、パクリと口に放り込んだ。

「…………っ!!」

「みりあちゃん、どうだい。重力の底で味わう海の恵みは」

「おいしい……。なんやこれ、マグロが舌の上でねっとり溶けるわ!」

目を輝かせるみりあに、拓海は得意げに微笑んだ。

「目利きが確かな証拠さ。本マグロだから、赤身の持つ旨味の密度が違うだろう?」

「ほんまや……あ、このホタテも!」

みりあはすぐさま艶やかなホタテを箸でつまみ、パクリと口へ運ぶ。

「んんっ、甘みが強くてプリップリや!」

「まさしく、鮮度が抜群な証拠だね。それに、この甘海老も見てごらん。透き通るような身が、口の中で弾けるような食感を生んでいるよ」

瑞々しい甘海老を頬張ったみりあの顔が、さらに至福に歪む。

「うわっ、弾力すごっ!」

感動のままに、みりあはルビーのように輝くイクラをシャリと一緒に掬い上げた。

「このイクラもヤバいで! 噛んだ瞬間、プチッと弾けて濃厚なお出汁が口いっぱいに広がるわ!」

「皮残りが一切ないだろう? これも丁寧な醤油漬けの仕事が光っているね」

「ほんで、このウニ……!」

みりあは勿体ぶるように、黄金色のウニをたっぷりとすくって口に含んだ。その瞬間、彼女の表情が今日一番の驚きにとろけるように緩む。

「うわぁ……とろけたわ。クリームみたいに溶けて、香りと甘みがすんごいわ……」

「保存料のミョウバンを使っていない、無添加のウニだからね。まさに、海が産み出した純度一〇〇パーセントの黄金さ」

「……この店、見た目と味のギャップが激しすぎひん⁉ ネタがめちゃくちゃ新鮮やん!!」

「外の看板からは想像もつかないだろう? 花より団子、ここはネタの質に全振りしているんだ。まさに『外見の重力崩壊と引き換えに手に入れた究極の質量』というわけさ」

「またよう分からんこと言うてるけど……今は許したるわ!」

みりあは夢中で海鮮丼を頬張った。鼻に抜けるワサビの爽やかな辛味と、新鮮な魚介の濃厚な旨味が、ビールを飲む手すら止めさせる。店先での怒りなど一切忘れ、最後の一粒まで完食しそうな勢いだ。

「うっまぁ~、たまらんわあ」

「喜んでもらえて何よりだよ。でも、この店の真髄はもう一つあるんだ」

拓海は海鮮丼をかき込むみりあを見つめ、ふっと魅惑的な笑みを浮かべた。

「真髄? まだなんかあんの?」

「うん。せっかく重力の底まで来たんだ、無重力の宇宙空間に放り出されるような、とびきりスペーシーな体験を味わってほしくてね。……すみません、大将。ウナギの握りを二貫ください」

拓海がカウンター越しに声をかけると、みりあはキョトンと首を傾げた。

「宇宙空間って、また大げさな……ていうかウナギの握り?」

「そう。常識を覆すほどの圧倒的な質量を持った星、と言えば伝わるよね?」

「伝わるか」

みりあが呆れて言った直後、大将の手によってカウンター越しに小皿がコトリと置かれた。

差し出されたのは、小皿からはみ出さんばかりに巨大な一貫。備長炭で香ばしく焼き上げられた肉厚の身に、艶やかな漆黒のタレがたっぷりと塗られ、甘辛く焦げた匂いが鼻腔を強烈にくすぐる。シャリの温もりでウナギの脂がとろけ出し、箸で持ち上げれば今にも崩れ落ちそうなほどの柔らかさだ。みりあがひと口頬張り、感動のため息が出た。

「…………なにこれ、身がふわっふわやん。……タレも深みがあってめっちゃ美味しい」

「こういう年季の入った寿司屋は、とにかくタレを大切に扱うからね」

「あ、このウナギが渋井くんの言うスパイシーやんな⁉」

「みりあちゃん、スペーシー、ね」

昼下がりの店内に、みりあの明るい声が響き渡った。みりあは看板がひしゃげた寿司屋にいることすら完全に忘れ、拓海の言う『無重力空間』を漂うような至福の余韻にどっぷりと浸っていた。


◇ ◇ ◇ ◇


店を出ると、北千住の駅前へと戻る道すがら、三月の少し傾きかけた昼下がりの陽射しが街を穏やかに照らしていた。二人は並んでもう一度、あのひしゃげた看板を振り返った。

「……ふぅ。ほんまに美味かったわ。看板はめちゃくちゃやったけど、しゃーない、これは認めたるわ」

「みりあちゃんが喜んでくれるのが一番だよ」

拓海はしみじみとひしゃげた看板を眺めて言った。

「……この看板を見てるとさ、思い出したよ」

「なんや?」

拓海はコートのポケットからおもむろにスマホを取り出すと、画面を操作して一枚の写真をみりあの目の前に突きつけた。

「今朝のみりあちゃんの寝起きの顔。重力に負けてひしゃげた感じがそっくりだなって」

「しばいたろか!!」

その一言は、昼下がりの北千住に鋭く響き渡った。もはや反射。みりあの眉間に深い皺が寄り、殺気にも似たツッコミが拓海の喉元を射抜く。

「……ったく。それより、もう仕事終わったんやろ?」

みりあが不機嫌そうに、けれどどこか穏やかな眼差しで拓海を見上げる。

「うん、終わったよ」

「ほな、どっか行こか? あ、観たい映画あんねん」

「いいね。じゃあそのあとはまた僕がとっておきのお店に連れてってあげるよ」

「もうええて!!」

みりあが拓海に肩パンを一撃。それから二人は、賑やかな駅前へと再び歩き出す。柔らかな陽射しの中、彼女の金髪が跳ねるたび、傾いた看板のことなど忘れたような軽やかな空気が、二人の周りを満たしていく。

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