#1 下町ビストロの甘い罠
二月のからりと晴れた空の下、渋井拓海は銀座で食品メーカーとの商談を終えたところだった。一八〇センチの長身にグレーのトレンチコートを羽織った姿は、どこからどう見ても仕事のできる都会派サラリーマンだ。アッシュブラックのマッシュウルフはマットな質感でドライに整えられ、目元を縁取る重めの前髪の奥には、弧を描く涼しげな目元が覗く。真っ直ぐ通った端正な鼻筋と、爽やかに上がる整った口角が、ランダムにハネる束感のある毛先と共に都会的な〝こなれ感〟を漂わせている。シワ一つない上質なネイビーのジャケットにノーネクタイのサックスブルーのシャツという出で立ちは、清潔感と、ほどよい脱力感を醸し出している。
腕時計に目をやると、時刻は午後二時。スマホのスケジュール帳を開くと、今日最後の予定が飛び込んできた。
『十五時三十分 月島・ヨシオカ食品フォローアップ』
拓海は端正な顔立ちをわずかに緩め、ふっと口角を上げた。
「……そうか。今日は月島で終わりか」
その瞳には、商談をまとめた達成感ではなく、もっと個人的で、いたずらめいた企みが滲んでいた。月島──もんじゃ焼きの匂いが染み付いた街の片隅に、拓海がこよなく愛するあの場所がある。いつか彼女を連れて行こうと、虎視眈々と機会を狙っていたのだ。拓海は迷わずスマホのLINEを開き、愛する妻「みりあ」のアイコンをタップした。
「あ、もしもし、みりあちゃん? 今、仕事の合間なんだけど……うん、今夜はね、この前のお詫びも兼ねて最高のお店を予約したんだ。ちょうど月島で仕事が終わりそうだから、現地で合流しないかい?」
スマホの向こうから、聞き慣れたコテコテの関西弁が、銀座の洗練された空気をぶち壊す勢いで返ってくる。
「ホンマかぁ?渋井くん、嘘ちゃうやろな? こないだも『夜景が見える』言うて、ただの高架下の屋台連れてったやんか」
拓海は、脳裏に蘇った当時のみりあの憤慨した顔を思い出し、プッと声が漏れそうになるのを必死で堪え、再びスマホに耳を傾けた。
「まあ、おでんはおいしかったけど……でも、あたしはもう騙されへんで」
「本当だよ。月島ですごく人気のお店なんだ。二名分の席を確保するのは……そう、至難の業だったよ」
「月島に? もんじゃ屋ちゃうの。あたし、今もんじゃの気分やないで。もっとこう、しっとりしたもん食べたいわ」
「いやいや。そこでは、トロットロに煮込まれた極上の〝ビーフシチュー〟が有名なんだよ。美食家たちがこぞって通う、隠れ家中の隠れ家さ」
「ビーフシチューゆーたら、ちょっとオシャレなビストロとかなんちゃう? あたし、茶色も白もシチューは大好物や」
「オシャレなビストロ……うん、そうだね」
拓海は一瞬、含みのある表情を浮かべた。拓海の脳裏にはビストロとは程遠い光景が浮かんでいたが、声はどこまでも優雅なトーンを装った。
「ある意味では究極のヴィンテージ・デザインだよ。創業一〇〇年以上の歴史と伝統が織りなす空間、と言えばいいかな」
「一〇〇年以上て! ええやん、なんか響きが大人やわ」
「どうだい? 興味そそるだろう?」
「わかった、気合入れて着替えていくから、月島駅で待ち合わせでええか?」
「うん、じゃあ夕方五時に。楽しみにしておいてね」
「ほんまやで、ガッカリさせんといてや」
通話を切った拓海は、低く笑った。今頃みりあは、鏡の前で最低一時間はかかる戦闘準備に入っているだろう。そんなことはつゆ知らず、みりあを待ち受けているのは、ビストロどころか予約すら受け付けない、並んだ者だけが勝者となる〝遺跡〟のような大衆酒場なのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
午後五時。月島駅の地上出口に拓海はいた。夕闇が迫り始めた街には、早くもソースの焦げる匂いが風に乗って漂っている。メイン通りのもんじゃストリートは、青いイルミネーションが街路樹を飾り、観光客たちの賑やかな声で溢れていた。
カツ、カツ、カツ──その喧騒の中、硬質なヒールがアスファルトを小気味よく叩く音が近づいてくる。
「お~い」
「ああ、みりあちゃん。こっちだよ」
軽く手を振って現れたのは、拓海より二歳年上の妻、みりあだった。今日のみりあは、拓海の想像を遥かに超える気合の入りようだった。金髪のゴージャスな巻き髪はハーフアップに完璧にセットされ、風に揺れるたびに甘い香水の匂いを撒き散らす。鋭く美しい緑の猫目と繊細でツンとした鼻筋、そして気品ある艶やかな小口が、元ギャルらしい強気な魅力の中に洗練された色気を添えている。オーバーサイズの真っ白なロングセーターに、〝下、履いてない?〟丈の黒のマイクロショートパンツ。その上からは、ボリュームのあるエコファーがあしらわれた黒のショートダウンジャケットを羽織っている。そこから伸びる細い脚にはヒールのロングブーツを履き、指先には派手なネイルが施されている。小さなクラッチバッグを握る姿は、大人の色香を纏わせた完璧な装いだった。
「渋井くん、お待たせ。……って、なんなんその顔。あたし、変な格好してる?」
「まさか。今日も素敵だよ、みりあちゃん。その白の眩しさが、お店の雰囲気を一段と引き立ててくれるはずだ」
(この純白のセーターに、あの〝濃厚な煮込み〟の汁が跳ねたら……)
拓海は平静を装いながらも、心の中では不穏なシミュレーションを走らせていた。
「さあ、行こうか。期待を裏切らないヴィンテージ・ダイニングへ!」
「あはっ、最高の気分やわ。はよ連れてって」
拓海はわざと、華やかな表通りを外し、街灯もまばらな暗い路地へとみりあを誘った。
そこから数分も歩くと、景色は一変した。足元はガタガタの石畳になり、側溝からは湿った風が吹き抜け、積み上げられた古いビールケースが影を作っている。まさに時代の止まった東京下町。みりあは訝しげに周囲を見渡した。
「……なぁ、渋井くん。まだなん? それっぽいビルとかもうないで?」
「いや、創業一〇〇年以上の味を楽しめる場所は、もう少しだけ先にあるんだ」
そして、暗い角を曲がった瞬間、みりあの足が止まった。正確には、目の前に広がる人の波に困惑の声を上げた。そこには、壁は煤け、瓦は少し波打ち、年季の入った青い暖簾が掛かっている木造建築があった。その前から路地を埋め尽くすように、数十人の人間が、修行僧のように押し黙って列をなしていた。
「嘘やん……なんなんこの行列。なんか有名なとこなん?」
みりあは、そこが単なる古民家でしかないという様子で通り抜けようとしたが、拓海がその列の最後尾でぴたりと止まったのを見て、動きが凍りついた。
「え?…………えっ⁉…………はあぁ⁉ まさか、ここちゃうよな⁉」
「そのまさかだよ。今夜のお店はこの素敵な建物さ」
みりあのこめかみにピキッと血管が浮き上がり、路地裏をシュールな沈黙が数秒間埋め尽くした。
「何言うてんのアンタ!!あたしにビーフシチュー食べさせてくれる言うたやんか!!あの暖簾、どこをどう見ても『煮込み』ってデカデカ書いてあるただの居酒屋やん!!しかも何この行列、正気⁉あたしらにこれに並べ言うてるん⁉」
「そうだよ。ほら、見てごらん。今日は列が短い方だ。これなら一時間もかからずに入れる。ラッキーだね」
みりあの目が、みるみるうちに据わっていく。静かな、しかし確かな殺意が月島の路地裏に満ちていった。
「一時間⁉ラッキー⁉……自分、さっき電話でなんて言うた⁉『予約した』ってハッキリ言うたよな⁉あたしはそれを信じて、このヒールのロングブーツ履いて、わざわざ下ろし立てのセーターまで着て気合入れてきたんやぞ!!予約しててなんで一時間も寒空の下で地蔵みたいに並ばなあかんねん!!」
「みりあちゃん、落ち着いて。誤解しないでほしいんだけど、ここは『予約ができない』という究極の平等が保たれた聖域なんだ。僕が『予約した』と言ったのは、僕の心の中のスケジュールに、みりあちゃんとここで過ごす時間を予約した、という意味だよ。この一時間の待ち時間こそが、最高の一皿への前奏曲なんだ」
「心の中に予約してどうすんねん!!自分、ただの嘘つきやろがい!!格好ええ風に言うたら許される思うなよ!!それになあ、この建物なんなん。ヴィンテージゆーてたけど、これ創業一〇〇年ゆーか、もはや遺跡やん!!堺の古墳と同じやん!!そんなん小学生の社会見学だけでええわ!!」
「まあまあ、並んでいる人たちを見てごらん。みんな幸せな顔をしているよ」
「ほんまや、あたしだけが不幸な顔しとる……やかましいわ!! ヒールでこんなん一時間も立たされたらな、あたしの脚がそれこそカッチカチの遺跡みたいになってまうわ!」
「フフッ、それはちょっと見てみたいな」
「こいつ……ホンマ、後で覚えとけよ。自分、絶対しばいたるからな……」
みりあは肩で息をしながら、周囲の行列が放つ圧倒的な熱気に圧され、渋々と列に加わった。拓海は、その怒り狂った横顔を穏やかな眼差しで眺めていた。
最初から「煤けた煮込み屋に行こう」と正直に誘えば、お洒落を愛する妻から秒で却下されるのは火を見るより明らかだ。だからこそ、みりあが食いつくような甘い〝嘘〟でコーティングして現場まで引きずり出す必要があった。みりあは文句こそ人一倍だが、好奇心もまた人一倍強い。ここまでお膳立てされ、名店の熱気を直接浴びてしまった以上、結局は受け入れてしまうことを拓海は確実に見抜いていた。
なにより、自分の愛するディープな世界を大好きな妻にも知ってほしい──この手の込んだ詐欺まがいの手口こそが、拓海なりの不器用な愛情表現なのである。
冬の夜風に晒され、ようやく暖簾が揺れたのはそれから一時間後のことだった。
「みりあちゃん、いよいよだよ。歴史の扉が開く瞬間だ」
拓海は少年のように目を輝かせ、ポケットで指を鳴らした。冷気でかえって冴え渡るその表情には、期待が満ち溢れている。一方のみりあは、完全に電池が切れた玩具のようだった。ヒールのロングブーツで一時間立ち続けた脚は、もはや感覚がない。自慢の巻き髪も乱れ、表情は疲労と空腹で土気色になっていた。
「……げ、限界や、渋井くん。あたし、もう膝が笑てる通り越して、大爆笑してるわ……。はよう……はよう座らせて……」
ガラリ、と引き戸を開けた瞬間、外の静けさが嘘のような熱気に包まれた。使い込まれて飴色に光るコの字型の木製カウンターが鎮座し、内側の巨大な鍋からは、猛烈な勢いで湯気が噴き出している。何より異様なのは、その静寂だった。満席の客たちが、誰一人大声を出さず、目の前の一皿に魂を削るように向き合っていた。
「すいません、二名です」
「そちらの二つ空いてる席へどうぞ」
酒を嗜む客たちの箸が一斉に止まる。煤けた店内に突如現れた〝純白のギャル〟という異分子に一瞥を送り、また黙々と器へと視線を戻した。
「(……ちょ、渋井くん! あたしのこの格好、浮きすぎてて死にそうなんやけど!)」
みりあは拓海の耳元で、消え入るようなヒソヒソ声を出す。先ほどまでの勢いはどこへやら、この店特有の空気に完全に気圧されていた。白いセーターと金髪は、茶褐色に燻された店内で不気味なほど輝いている。
「(この静けさが最高のお酒のアテなんだ。……見てごらん、みりあちゃん。あの鍋から出る湯気。あれは牛の旨味とコラーゲンが凝縮された『モツ・アロマサウナ』だよ。今、みりあちゃんの肌に高級な脂が浸透して、明日にはプルプルだ)」
「(ただの湯気やん、ゆ・げ! アロマとかよう言えたな)」
二人は運よく鍋の真ん前、特等席に座ることができた。「注文はまかせて」という拓海に従い、まずはやってきたキンキンに冷えた生ビールで乾杯する。
「(ぷはぁ……っ! 冷たっ、最高やわ)」
「(うん、おいしい)」
二人は申し合わせたようにジョッキを握り、ちょうど三分の一ほどビールを飲む。みりあはジョッキを握ったまま、運ばれてくる料理に好奇心を寄せた。まずは、「自家製ポテトサラダ」だ。
「(なんや、見た目めっちゃ普通やん。おかんのお弁当に入ってるやつみたい)」
「(そう思うかい? でも、この形をよく見てごらん。完全に潰しきらないジャガイモの隆起……これは計算され尽くした『食感の建築』なんだよ)」
「(建築ぅ? 自分、また適当なこと言うて…………んんっ⁉)」
みりあがひと口食べると、マヨネーズの酸味と芋の甘みが、絶妙なバランスで押し寄せる。そこへ瑞々しい胡瓜と人参が小気味よいアクセントになっている。
「(……悔しいけど、これ、おかんが作るやつより三倍は美味しいわ)」
「(ここの隠し味は愛情じゃなくて、一〇〇年の伝統だからね)」
そして、ついに拓海がみりあにどうしても食べさせたかった「牛にこみ」が登場した。濃厚な味噌色に染まったモツの上に、山盛りの白い刻みネギが美しく盛られている。
「(どこをどう見ても、おっちゃんらが喜ぶ『もつ煮』やん)」
「(いいかいみりあちゃん。これは醤油と味噌のデミグラスソースで煮込まれた『和製・ブフ・ブルギニョン』なんだ。ほら、このコの字カウンター全体がフランスの厨房に見えてこないかい?)」
「(ブフ、ブ……って、なんやねん。あの茶色い大鍋、終わりかけの町内会の炊き出しにしか見えへんけどな)」
拓海は微笑みながら、何十年も継ぎ足されてきたという漆黒の煮汁を指差した。みりあは呆れ果てたように溜息をつきながらも、箸を伸ばした。その一切れを口に運んだ瞬間、みりあの動きが完全に止まった。
「え……なに、これ……えっ?」
「(みりあちゃん、一〇〇年の歴史の味はどうだい?)」
「…………嘘やん。なんなんこれ、お肉が舌やなしに唇で溶けるわ。ほんま、噛まんでええやん。……めっちゃ美味しい!! このビーフシチュー、バケモンやん!!」
「みりあちゃん、牛にこみ、ね」
その瞬間、店内の空気がピタリと止まった。黙々と煮込みを啜っていた常連客たちが、スローモーションのように一斉に顔を上げ、こちらを凝視する。
「あっ……」
みりあは、自分の声が思いのほか響いたことに気づき、金髪を揺らしながら慌てて口を押さえた。派手なネイルを添えた手で口元を隠し、周囲にペコペコと小さく会釈しながら、コの字カウンターの隅っこへ逃げるように体を丸める。
「(めっちゃ恥ずかしいけど……ほんまにおいしい。この煮込み、味が深すぎて底が見えへんもん)」
「(気に入ってくれてよかった)」
「(渋井くん、これ、おかわりの注文しよ。一生食べ続けられるわ)」
「(追加するなら『豆腐入り』にするかい? 味の染みた豆腐は、君の好きなチーズケーキより濃厚かもしれないよ)」
「(さっきから例えが全部詐欺師やねん。……でも、ええ詐欺師や。絶対美味しいに決まってるしな)」
今度は豆腐入りの牛にこみを、みりあは夢中で頬張った。純白のセーターにタレが跳ねるのも構わず、最後の一滴まで汁を啜り、生ビールで流し込む。その姿は、お洒落を気にするギャルではなく、ただの〝煮込みに魂を奪われた一人の女〟だった。
店を出ると、冷たい夜風が火照った体に心地よかった。みりあは、満足げに微笑みながら、拓海の腕に絡みついた。
「あー、ちょい緊張したけど、ほんまに美味かったわ。渋井くん、たまにはええ仕事するやん」
「喜んでもらえてよかった。……やっぱり、みりあちゃんには〝牛〟がよく似合うね」
拓海はトレンチコートの襟を立て、さらりと言った。
「なんやそれ。煮込みみたいに、あたしの顔もドロドロに溶けてるって言いたいんか?」
「まさか。ただ、今朝のみりあちゃんのイビキがあまりに〝野太い牛〟みたいだったからね」
「しばいたろか!!」
拓海の言葉が終わるか終わらないかの刹那、月島の夜空に、みりあの低く地を這う、まさに野太い牛のような声が響いた。遠慮のない怒気と心地よい親愛、長年連れ添った二人ならではの阿吽の呼吸だった。
「フフッ、冗談だよ」
「ほんま、渋井くんは嘘つきやで」
呆れたような表情で、みりあは拓海の腰あたりをパンッと景気よく叩いた。それは二人の間だけで通じる〝合図〟でもあった。どちらからともなく手が重なる。拓海の大きな手が、みりあの指先を優しく包み込んだ。
「帰ろか、渋井くん」
「そうだね、みりあちゃん」
ロングブーツの音が、拓海の足音と重なり合いながら遠ざかっていく。二人の影は、月島の古い路地裏にご機嫌な足取りと共に夜の闇へ紛れていった。
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