第七話 帰還者の信号
# 第七話 帰還者の信号
帰還者を確認。
その短い信号は、キサーラ・ディナン・メルの内側で、何度も再生された。
言葉としては短い。
だが、意味は重い。
帰還者。
どこへ帰った者なのか。
誰が、誰を、そう呼んだのか。
西水車小屋の旧文明の欠片は、ただの部品ではなかった。少なくとも、一度は何者かに触れられている。あるいは、何者かの呼びかけを受け取っている。
そして、その呼びかけは、キサーラの琥珀端末に反応した。
それは偶然ではない。
だが、現時点で断定するには、まだ情報が足りなかった。
「で、結局それは、魔王の仕業なのか?」
ニム・アラタが、腕を組んで言った。
小部屋の机の上には、黒ずんだ金属片が入った試料容器が置かれている。
その周りには、キサーラ、ニム、リュカ、バルグ、そして受付のマイラが集まっていた。
キサーラは少し考えてから答えた。
「魔王系の侵食信号とは一致しません」
「じゃあ、月か?」
マイラが低く問う。
「月神殿、または月製精霊の管理信号とも一致しません」
「なら、もっと悪いね」
マイラは、短く息を吐いた。
「分かっている相手なら、対処のしようがある。分からない相手が、一番面倒だ」
リュカは黙って金属片を見ていた。
その目は、物を見ているというより、その向こうの気配を読もうとしているようだった。
「これ、まだ起きてる?」
「はい」
キサーラはうなずいた。
「とても弱いですが、完全には沈黙していません」
「怒ってる?」
「怒りに相当する反応はありません。むしろ、待っているように見えます」
「待っている」
リュカは、その言葉を小さく反復した。
バルグ・オルムが、机に身を乗り出す。
「待ってるってのは、つまり、こいつは誰かが来るのを待ってたってことか?」
「可能性があります」
「その誰かが、キサーラだと?」
「それも可能性の一つです」
ニムが顔をしかめた。
「それ、かなりまずくないか。初日から古い何かに目をつけられたってことだろ」
「正確には、初日にこちらが発見しました」
「言い方で軽くなる話じゃない」
マイラは帳面を閉じた。
「この件は、表には出さない。村への報告は『水車の故障と小精霊の混乱を修復』で止める。旧文明の欠片については組合内で保留。いいね」
ニムはうなずいた。
バルグも不満そうではあったが、否定はしなかった。
リュカは、キサーラを見た。
「あなたは?」
「同意します。現時点で情報公開は危険です」
「神殿にも?」
マイラの問いに、キサーラは一拍遅れて答えた。
「現時点では、共有しない方がよいと判断します」
「理由は?」
「月系の術式が、この欠片の残留情報を変質させる可能性があります。もう一つは――」
キサーラは、言葉を選んだ。
「この欠片が、月の網に属していないからです」
小部屋の空気が、少し重くなった。
月の網。
この世界の者たちは、それを別の言葉で呼ぶ。
月の加護。
月神の目。
白き秩序。
天上の守り。
だが、キサーラの認識では、それは監視と管理の網であった。
マイラは、声を落とした。
「その言い方は、神殿ではしない方がいい」
「了解しました」
「いや、たぶん本当に分かってないね。神殿で『月の網』なんて言ったら、話がややこしくなる」
「以後、月の加護と表現します」
「それも場合による」
ニムが苦笑した。
「キサーラ、神殿では俺が先にしゃべる。いいな?」
「はい。交渉を委任します」
「……委任って言われると、急に責任が重くなるな」
バルグが腕を組んだ。
「それで、次はどうする。水車小屋に戻るのか?」
「戻る必要はあります。しかし、まず確認すべき場所があります」
キサーラは、壁の地図を指した。
リムナ・ヴェルの西側。
西水車小屋のさらに奥。
古樫谷と呼ばれる森の谷間。
そこには、旧文明の観測施設跡がある。
キサーラが地上へ降りた場所の近くでもある。
「この破片の材質は、西水車小屋の部品としては古すぎます。おそらく、近隣の旧文明施設から流出したものです」
マイラの表情が険しくなる。
「古樫谷か」
「既知の危険地域ですか」
「あそこは昔から、精霊の機嫌が悪い。道に迷う。音がずれる。夜になると、誰もいないはずの場所で灯りが見える。組合でも、灰札や白札には近づかせない」
「私の降下地点でもあります」
部屋が静かになった。
ニムが額を押さえた。
「そういう重要なことは、もう少し早く言おうか」
「必要性を再評価します」
「今後は高めに評価してくれ」
リュカは、地図から目を離さなかった。
「古樫谷なら、森に聞ける。けど、あそこは森の返事が遅い」
「返事が遅い」
「古いものが多すぎる。木も、石も、鉄も、精霊も。みんな、昔の声を持ってる」
バルグがうなった。
「旧施設の跡か。鍛冶師としては見たい。行者としては行きたくない」
「どちらを優先しますか」
「……見たい」
「正直ですね」
「職人だからな」
マイラは、しばらく考えた。
「古樫谷へ行くなら、今日は駄目だ。準備が足りない。行くとしても明日の朝。人数は最小。組合には、私から別名目で届けを出す」
「別名目?」
ニムが聞く。
「西水車小屋の追加調査。水路上流の確認。それなら自然だ」
「神殿に知られない?」
「完全には無理だろうね。水車小屋の件は、村から神殿にも話が行く。だけど、旧文明の欠片のことまでは伏せられる」
キサーラはうなずいた。
「合理的です」
「褒められてる気がしないね」
「肯定的評価です」
ニムが小さく笑う。
「それ、朝粥の時と同じだな」
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その夜、キサーラは組合の二階にある小部屋を与えられた。
宿としては簡素である。
寝台は一つ。窓は小さく、鎧を置く台もない。壁には前の利用者が彫ったらしい傷と、意味不明の落書きがある。
だが、雨風は防げる。
扉は閉まる。
外敵の侵入経路も限られる。
現地での安全拠点としては、十分だった。
キサーラは寝台に腰を下ろした。
眠る必要はない。
少なくとも、義体機能の維持だけなら短期間の睡眠は不要である。
しかし、ニムは「寝ない奴は怪しまれる」と言った。リュカも「体を休めるふりでもした方がいい」と言った。
そのため、キサーラは寝台の上で静かに目を閉じた。
内部では、今日得た情報の整理が始まる。
ミル。
西水車小屋。
旧文明の欠片。
帰還者を確認。
古樫谷。
月神殿。
境界行者組合。
朝粥。
子供の笑顔。
挨拶。
異なる種類の情報が、同じ日に入ってきた。
海王星の演算核なら、重要度順に即座に並べ替えるだろう。
だが、キサーラの中では、なぜか子供の笑顔と、ミルの小さな光が、旧文明の欠片と同じくらい強く残っていた。
非効率。
だが、無視できない。
その時、机の上の試料容器が、かすかに光った。
キサーラは目を開く。
室内に、青白い線が一本浮かんでいた。
破片からではない。
いや、破片を経由して、どこか別の場所から届いている。
キサーラは即座に遮断用の微細場を展開した。
光の線は、文字のように曲がる。
旧文明語ではない。
現地語でもない。
だが、意味は取れる。
――管理者不在。
――基底命令、維持。
――帰還者、認証未了。
――古樫谷、応答待機。
キサーラの琥珀端末が熱を持った。
これは罠か。
呼びかけか。
あるいは、ただの自動応答か。
判断を急ぐべきではない。
キサーラは、情報を圧縮し、海王星圏へ送るための低出力報告片を作成した。
だが、送信直前に停止する。
この信号を、そのまま外縁へ送れば、逆に発信元をたどられる可能性がある。
地上の誰かが、あるいは月の網が、あるいは古樫谷の何かが、キサーラと外縁の本体のつながりを検出するかもしれない。
キサーラは、報告を保留した。
初めて、自分だけで判断を遅らせた。
それは単なる通信規制ではない。
海王星の本体へ報告しない、という選択に近かった。
その意味を、彼女はまだ深く考えなかった。
扉の向こうで、床板が鳴った。
足音。
一人。
軽い。
迷いがある。
「キサーラ」
ニムの声だった。
「起きてるか? いや、寝てるなら悪いんだが」
「起きています」
「即答か。やっぱり寝てないな」
扉を開けると、ニムが小さな盆を持って立っていた。
盆には湯気の立つ杯が二つ。
「マイラさんから。初仕事の後は温かいものを飲めってさ」
「水分補給ですか」
「そうとも言う。気分を落ち着けるとも言う」
キサーラは、盆を受け取った。
「感謝します」
ニムは部屋の中を見回し、机の上の試料容器に目を止めた。
「それ、まだ光ってるのか?」
「先ほど、追加信号を受信しました」
ニムの顔つきが変わる。
「何て?」
キサーラは少し迷った。
迷った、という判断が出たことに、自分で気づいた。
「古樫谷で、応答を待っていると」
ニムはしばらく黙った。
それから、深く息を吐く。
「行くしかなさそうだな」
「はい」
「怖いか?」
問いは、予想外だった。
キサーラは答えを検索した。
危険予測はある。
警戒もある。
だが、それを恐怖と呼ぶかは不明。
「不明です」
「そうか」
「あなたは怖いのですか」
「怖いよ」
ニムは、あっさり答えた。
「古い遺跡、変な信号、月にも魔王にも属さない何か。おまけに、空から落ちてきた金色の新人。怖くない方がおかしい」
「それでも行くのですか」
「仕事だからな」
彼は少し笑った。
「それに、放っておいた方がもっと怖い」
キサーラは、その言葉を静かに受け取った。
恐怖がある。
それでも進む。
それは、観測でも命令でもない。
現地の者たちが持つ、別の種類の行動原理だった。
「理解を試みます」
「うん。たぶん、それでいい」
窓の外では、夜のリムナ・ヴェルが静かに光っていた。
精霊灯が路地を照らし、遠くの月神殿の塔には、白い灯りがともっている。
そのさらに上に、月があった。
白く、美しく、冷たい月。
キサーラは、それを見上げた。
そして、月の光の下で、古樫谷からの呼びかけが、まだ微かに続いていることを感じていた。




