表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄金のキサーラ  作者: 橘 那由多
9/14

# 第八話 古樫谷の朝

# 第八話 古樫谷の朝


 夜明け前、リムナ・ヴェルの境界行者組合きょうかいぎょうじゃくみあいは、まだ眠っていた。


 階下の広間からは、酒と油と革の匂いが薄く漂っている。昨日まで騒がしかった長机は暗く沈み、壁の依頼札だけが、消えかけた精霊灯(せいれいとう)の青い光を受けて、ぼんやりと浮かんでいた。


 キサーラ・ディナン・メルは、その二階の小部屋で、寝台に腰を下ろしたまま朝を待っていた。


 眠る必要はない。


 少なくとも、この義体(ぎたい)を短期間維持するだけなら、睡眠は必須ではなかった。筋肉繊維の微細損耗(びさいそんもう)は自動修復され、神経系の負荷(ふか)は分散され、記憶は圧縮されて仮保存される。


 だが、現地社会では、夜になれば眠る。


 眠らぬ者は怪しまれる。


 ニムはそう言った。


 リュカも、体を休めるふりくらいはした方がいい、と言った。


 ゆえにキサーラは、寝台に座り、目を閉じ、呼吸を浅く保ち、眠っている者のように振る舞っていた。


 ただし、内部では演算を続けている。


 机の上には、小さな試料容器が置かれていた。


 西水車小屋で発見した旧文明の破片。


 それは一見、黒ずんだ金属片でしかない。だが、その内部には、十万年前の環境維持命令と、最近書き込まれた微弱な信号が残っていた。


 ――帰還者を確認。


 その短い意味列が、何度も再生される。


 帰還者。


 誰を指すのか。


 旧文明の管理者か。


 地上に残った魔王AIか。


 それとも、海王星の沈黙から降りてきた、自分か。


 キサーラは、額の琥珀端末(こはくたんまつ)へ意識を向けた。


 端末は静かだった。


 だが、その静けさの奥で、何かがこちらを見返しているような感覚がある。


 観測されている。


 その可能性は低くない。


 しかし、月面の網ではない。魔王AIの侵食とも違う。昨日の信号はもっと細く、もっと古く、そして妙に親しい。


 まるで、長い眠りから覚めた井戸が、そこへ水を汲みに来た者の足音を聞き分けたような。


「……比喩が増えています」


 キサーラは小さく呟いた。


 以前なら、こうは表現しなかった。


 水路、信号、媒体、反応。


 そう分類すれば済むはずだった。


 だが、リュカは「古い約束」と言った。バルグは「鉄が嫌がる」と言った。ニムは「面倒ごと」と言った。


 それらは不正確である。


 しかし、不正確でありながら、現地の現象に近い。


 それが、厄介だった。


 扉の外で、床板が鳴った。


「起きてるか?」


 ニムの声だった。


「起きています」


「だと思った」


 扉が開き、ニムが顔を出した。旅装は整っている。腰には剣、肩には背嚢、手には紙包みを持っていた。


「朝飯だ。粥と焼き芋。食えるか?」


「この義体は摂食可能です」


「食えるか、で聞いたんだがな」


「食べられます」


「よし」


 ニムは紙包みを机に置いた。


 続いて、バルグが工具袋を担いで入ってくる。眠そうな顔をしていたが、目だけは妙に輝いていた。


「旧施設跡だぞ。鍛冶師なら見ないわけにはいかん」


「危険と判断していたのでは?」


「危険だから見たいんだ」


「矛盾しています」


「職人ってのは、だいたい矛盾でできてる」


 最後にリュカが入ってきた。


 彼女はいつも通り静かだった。弓を背負い、腰には短剣。髪には森の葉を一枚挿している。


「外の霧が濃い」


「視界不良ですか」


「それもある。けど、森の返事が遅い」


 リュカは窓の外を見た。


「古樫谷が、もうこちらを見てる」


 その言葉に、キサーラは試料容器へ目を向けた。


 破片の表面に、一瞬だけ細い光が走った。


 見間違いではない。


 リュカも、それに気づいたらしい。視線がわずかに鋭くなる。


「それ、持っていくの?」


「はい。発信源と照合する必要があります」


「持っていくなら、布で包んで。直接、森に見せない方がいい」


「森に見せる」


「そう。古樫谷の森は、古いものに敏感だから」


 キサーラは少し考え、机の上の布を取った。


 試料容器を包む。


 ただ隠すだけではない。キサーラは布の内側へ、自身の琥珀庫から取り出した薄い金色の膜を一枚重ねた。


 局所遮蔽膜(しゃへいまく)


 見た目は薄い金紙だが、実際には微弱な信号漏れを抑えるための旧文明素材である。


 バルグが目を細めた。


「今、どこから出した」


琥珀庫(こはくこ)からです」


「こはくこ?」


局所位相格納領域きょくしょいそうかくのうりょういきです」


「……ニム」


「聞くな。たぶん魔法の袋みたいなものだ」


「袋には見えんぞ」


「だから聞くなと言った」


 キサーラは首を傾げた。


「説明は可能です」


「長くなるだろ」


「はい」


「なら道中で頼む。いや、やっぱり頼まない」


 ニムは粥の椀をキサーラへ渡した。


「まず食え。空腹じゃなくても、食べてる姿を見せた方がいい。人は、同じ鍋のものを食べた相手を少しだけ信用する」


「摂食行動に社会的効果があるのですね」


「大ありだ」


 キサーラは粥を一口食べた。


 温かい。


 塩。穀物。小さな野菜。水。火で加熱された匂い。


 必要栄養としては簡素である。


 だが、昨日の水車小屋で会った粉屋の老夫婦が、組合へ礼として届けたものらしい。


「味はどうだ?」


 ニムが尋ねた。


 キサーラは少し考えた。


「合理的です」


 三人が黙った。


「……否。温かいです」


 リュカが小さく頷いた。


「それでいい」


 バルグは笑った。


「少しは人間らしくなったな」


「私は人間ではありません」


 言ってから、キサーラは少しだけ止まった。


 三人の視線が集まる。


 ニムが静かに言った。


「そういう時は、冗談です、と言うんだ」


「冗談です」


「遅い」


「学習します」


 リュカは何も言わなかった。


 ただ、キサーラをじっと見ていた。


 その視線には、警戒だけではないものが混じっている。


 観察。


 いや、リュカもまた、自分を見ているのだ。


 キサーラは、その事実を記録した。


---


 古樫谷へ向かう道は、リムナ・ヴェルの西門から始まっていた。


 表向きの届けは、西水車小屋の上流水路調査。


 マイラは、そう処理した。


 実際、彼らは水路沿いに歩いた。石で囲われた細い流れは町の外へ続き、やがて森の中へ入る。水は澄んでいるが、ところどころ青白い光が浮いていた。


 小さな水精たちである。


 リュカは歩きながら、その水へ短い言葉を投げた。


 祈りではない。


 命令でもない。


 挨拶に近い。


「昨日の子たちは落ち着いた?」


 水面に小さな波紋が立つ。


 キサーラには、それが低い応答信号として見えた。意味は曖昧だが、敵意はない。


「何と言っていますか」


「まだ怖がってる。でも、泣いてはいない」


「泣く、というのは比喩ですか」


「半分」


「バルグと同じ回答です」


「なら、半分は本当」


 リュカはそう言って、先へ進んだ。


 森は、昨日より濃かった。


 木々の間には霧が溜まり、枝は低く垂れ、苔の色は深い。地面は柔らかく、歩くたびに靴がわずかに沈む。


 鳥の声がしない。


 獣の気配も薄い。


 そのかわり、古い音がある。


 水路の奥から、遠い歯車のような音が聞こえる。だが、実際には歯車などない。少なくとも、この付近の地表には。


 キサーラは周囲を走査した。


 地中に旧文明構造物の痕跡がある。


 深い。


 森の根の下、岩盤のさらに奥。


 断線した管路。崩落した通路。機能停止した環境センサー。腐食した補助電源。部分的に生き残った情報素子(じょうほうそし)


 それらは、単独では死んでいる。


 だが森の精霊群が、その死骸を抱き込んでいる。


 木の根が金属に絡み、水が旧い管路を流れ、菌糸が機械の隙間へ入り込み、精霊の情報パターンが、失われた回路を代替している。


 死んだ機械と、生きた森の境界がない。


 キサーラは、足を止めた。


「どうした?」


 ニムが尋ねる。


「この森は、旧文明施設を消化しています」


「しょうか?」


「食べている、という意味ではありません。構造物を取り込み、自身の一部として利用しています」


 リュカは森の奥を見た。


「だから、ここの森は重い」


「重い?」


「昔の声が、下にたくさん埋まってる」


 キサーラは頷いた。


「その表現は、正確に近いです」


 バルグが腕を組む。


「つまり、森の下に工房の死骸があるってことか」


「工房ではありません。おそらく環境観測施設、あるいは水系管理施設です」


「違いが分からん」


「目的が異なります」


「なら、あとで詳しく聞く。今は嫌な音がする」


 バルグは槌を手に取った。


 キサーラも、腰の剣へ意識を向ける。


 高次干渉剣(こうじかんしょうけん)アウルム・メル。


 通常時は、黄金の細身の長剣。


 この森では、抜くだけでも目立つ。


 使えば、さらに目立つ。


 月の網、魔王AI、そしてこの古い森。


 どれが反応するか分からない。


 ゆえに、抜かない。


 まだ。


---


 古樫谷の入口には、古い石柱が二本立っていた。


 片方は折れ、片方は半ば木に呑まれている。表面には苔が厚くつき、文字らしきものは見えない。


 だが、キサーラには読めた。


 いや、読めたのは文字ではない。


 石柱内部に残る旧文明の識別信号だった。


 環境観測局。


 第三七支所。


 水系・地脈・大気粒子統合監視点。


 管理者認証、失効。


 管轄権限、消失。


 自律維持、継続中。


 キサーラの額の琥珀端末が、かすかに熱を持った。


 その瞬間、霧が動いた。


 谷の奥から流れてきた白い霧が、石柱の周囲へ集まり、人の背丈ほどの形を取る。


 顔はない。


 手もない。


 だが、そこに何かがいる。


 リュカが弓を構えた。


 ニムが剣に手をかける。


 バルグは槌を握る。


 キサーラは、右手を上げて三人を制した。


「待ってください」


 霧の形は、震えていた。


 声がする。


 それは耳で聞く音ではない。水滴、菌糸、金属残響、旧信号、精霊反応。それらが重なった、壊れた声だった。


『識別不能』


 キサーラは息を止めた。


『旧き根より来たる者』


『登録名、失効』


『管理者、否』


『月、否』


『侵食、否』


『魔王、否』


 霧の中に、金色の微粒子が一瞬だけ混じった。


 それはキサーラの琥珀端末に反応している。


『帰還者、近似』


 ニムが小声で言った。


「今、何か喋ったか?」


「はい」


「何て?」


 キサーラは、少し遅れて答えた。


「私を、帰還者に近いものとして認識しています」


 バルグが顔をしかめる。


「帰還者って、何に帰ってきたんだ」


「不明です」


 リュカは霧を見つめたまま言った。


「この子、泣いてる」


「子?」


「精霊。古い。たぶん、とても古い」


 キサーラは霧へ向き直った。


「私は管理者ではありません」


 霧が震える。


『管理者不在』


『管理者不在』


『管理者不在』


 同じ言葉が、何度も繰り返される。


 ただの機械的反復ではない。


 悲鳴に近い。


 リュカが一歩進み、低く歌うように言葉をかけた。


「ここを守っていたの?」


 霧が揺れた。


『観測』


『水系維持』


『毒性粒子監視』


『浄化』


『警告』


『警告先、消失』


『応答なし』


『応答なし』


『応答なし』


 十万年。


 キサーラは、その時間を演算として知っている。


 だが今、目の前の霧は、その十万年を泣いていた。


 命令を続け、警告を送り、応答を待ち、誰も戻らず、それでも止まれなかったもの。


 それを機械と言えば、機械である。


 精霊と言えば、精霊である。


 だが、どちらの言葉も、少し足りない。


 キサーラは、手を伸ばした。


 リュカが鋭く言う。


「強く触らないで」


「はい」


 キサーラは、琥珀端末の出力を限界まで下げた。


 支配しない。


 書き換えない。


 命令しない。


 ただ、形式を合わせる。


 古い旧文明の環境維持系が理解できる、ごく低い認証信号。


 その外側に、現地の精霊が受け取れる、柔らかい共鳴を重ねる。


 技術としては不完全である。


 だが、リュカの言葉を借りるなら、これは挨拶だった。


「キサーラ・ディナン・メル。暫定観測者です」


 霧が止まった。


 周囲の森が、ほんのわずかに静かになる。


『暫定』


『観測者』


『受理不能』


『形式不一致』


『しかし――』


 霧の中心に、青白い光が灯った。


『聞く者あり』


 その言葉が届いた瞬間、キサーラの内部で、また名称不明の反応が生じた。


 熱ではない。


 演算負荷ではない。


 恐怖でもない。


 おそらく、これは。


「……安堵」


 彼女は、自分でその語を出力していた。


 ニムが横目で見る。


「何か言ったか?」


「分類中です」


「また難しい顔になってるぞ」


 リュカは霧へ静かに語りかけた。


「私たちは、壊しに来たんじゃない。水車小屋で、あなたの欠片が泣いてた。だから来た」


 霧が揺れる。


『欠片』


『流出』


『上流部、損傷』


『第三観測槽、開放』


『封鎖失敗』


 キサーラは、霧の奥に走る信号を追った。


 谷のさらに奥。


 地下施設の一部が開いている。


 そこから、小さな破片が水路へ流れ、西水車小屋へ届いた。


 だが、それだけではない。


 最近、誰かが封鎖を触っている。


 外から開いたのではない。


 内側から呼ばれている。


「リュカ」


「何?」


「この谷の奥に、開いた場所があります」


「旧施設?」


「はい。水車小屋へ流れた破片の出所です」


 バルグが槌を握り直した。


「行くのか」


「必要があります」


 ニムは息を吐いた。


「初仕事の翌日に旧文明施設か。灰札にしては出世が早すぎるな」


「昇格ではありません。危険度の増大です」


「分かってる。冗談だ」


「冗談でしたか」


「半分な」


 キサーラは、少しだけ考えた。


「半分は本当」


 リュカが小さく笑った。


 ほんの少しだけ。


 その時、谷の奥で、低い音がした。


 石が動く音。


 水が逆流する音。


 そして、古い機械が、久しぶりに目を覚ます音。


 霧の精霊が震えた。


『警告』


『封鎖部、再起動』


『未知信号、再侵入』


『帰還者を誘導せよ』


 キサーラの琥珀端末が、強く光った。


 今度の信号は、霧の精霊のものではない。


 もっと奥から来ている。


 西水車小屋の破片に残っていたものと同じ、細い呼びかけ。


 だが、今ははっきりしていた。


 それはキサーラへ向けられている。


 ――帰還者。


 ――下層へ。


 ――あなたを待つ。


 キサーラは、無意識にアウルム・メルの柄へ手を置いた。


 抜かない。


 まだ抜かない。


 だが、初めて、その剣の重さが必要なものとして感じられた。


 ニムが前に出る。


「行くなら、隊列を決める。勝手に飛び出すなよ」


 バルグが続く。


「俺は壁と床を見る。変な機械に触るなと言われても、たぶん触る」


「触る前に言って」


 リュカが短く言った。


 キサーラは霧の奥を見た。


 そこには、古い森がある。


 その下に、死んだはずの旧文明施設がある。


 そしてそのさらに奥で、誰かが彼女を呼んでいる。


「了解しました」


 キサーラは答えた。


「これより、古樫谷地下施設の調査に入ります」


 霧が割れた。


 道が現れた。


 森の根と古い金属板に挟まれた、暗い下り坂。


 十万年前の地球へ続く、狭い口。


 キサーラは、一歩を踏み出した。


 その足音を、森と精霊と旧い機械が、静かに聞いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ