# 第八話 古樫谷の朝
# 第八話 古樫谷の朝
夜明け前、リムナ・ヴェルの境界行者組合は、まだ眠っていた。
階下の広間からは、酒と油と革の匂いが薄く漂っている。昨日まで騒がしかった長机は暗く沈み、壁の依頼札だけが、消えかけた精霊灯の青い光を受けて、ぼんやりと浮かんでいた。
キサーラ・ディナン・メルは、その二階の小部屋で、寝台に腰を下ろしたまま朝を待っていた。
眠る必要はない。
少なくとも、この義体を短期間維持するだけなら、睡眠は必須ではなかった。筋肉繊維の微細損耗は自動修復され、神経系の負荷は分散され、記憶は圧縮されて仮保存される。
だが、現地社会では、夜になれば眠る。
眠らぬ者は怪しまれる。
ニムはそう言った。
リュカも、体を休めるふりくらいはした方がいい、と言った。
ゆえにキサーラは、寝台に座り、目を閉じ、呼吸を浅く保ち、眠っている者のように振る舞っていた。
ただし、内部では演算を続けている。
机の上には、小さな試料容器が置かれていた。
西水車小屋で発見した旧文明の破片。
それは一見、黒ずんだ金属片でしかない。だが、その内部には、十万年前の環境維持命令と、最近書き込まれた微弱な信号が残っていた。
――帰還者を確認。
その短い意味列が、何度も再生される。
帰還者。
誰を指すのか。
旧文明の管理者か。
地上に残った魔王AIか。
それとも、海王星の沈黙から降りてきた、自分か。
キサーラは、額の琥珀端末へ意識を向けた。
端末は静かだった。
だが、その静けさの奥で、何かがこちらを見返しているような感覚がある。
観測されている。
その可能性は低くない。
しかし、月面の網ではない。魔王AIの侵食とも違う。昨日の信号はもっと細く、もっと古く、そして妙に親しい。
まるで、長い眠りから覚めた井戸が、そこへ水を汲みに来た者の足音を聞き分けたような。
「……比喩が増えています」
キサーラは小さく呟いた。
以前なら、こうは表現しなかった。
水路、信号、媒体、反応。
そう分類すれば済むはずだった。
だが、リュカは「古い約束」と言った。バルグは「鉄が嫌がる」と言った。ニムは「面倒ごと」と言った。
それらは不正確である。
しかし、不正確でありながら、現地の現象に近い。
それが、厄介だった。
扉の外で、床板が鳴った。
「起きてるか?」
ニムの声だった。
「起きています」
「だと思った」
扉が開き、ニムが顔を出した。旅装は整っている。腰には剣、肩には背嚢、手には紙包みを持っていた。
「朝飯だ。粥と焼き芋。食えるか?」
「この義体は摂食可能です」
「食えるか、で聞いたんだがな」
「食べられます」
「よし」
ニムは紙包みを机に置いた。
続いて、バルグが工具袋を担いで入ってくる。眠そうな顔をしていたが、目だけは妙に輝いていた。
「旧施設跡だぞ。鍛冶師なら見ないわけにはいかん」
「危険と判断していたのでは?」
「危険だから見たいんだ」
「矛盾しています」
「職人ってのは、だいたい矛盾でできてる」
最後にリュカが入ってきた。
彼女はいつも通り静かだった。弓を背負い、腰には短剣。髪には森の葉を一枚挿している。
「外の霧が濃い」
「視界不良ですか」
「それもある。けど、森の返事が遅い」
リュカは窓の外を見た。
「古樫谷が、もうこちらを見てる」
その言葉に、キサーラは試料容器へ目を向けた。
破片の表面に、一瞬だけ細い光が走った。
見間違いではない。
リュカも、それに気づいたらしい。視線がわずかに鋭くなる。
「それ、持っていくの?」
「はい。発信源と照合する必要があります」
「持っていくなら、布で包んで。直接、森に見せない方がいい」
「森に見せる」
「そう。古樫谷の森は、古いものに敏感だから」
キサーラは少し考え、机の上の布を取った。
試料容器を包む。
ただ隠すだけではない。キサーラは布の内側へ、自身の琥珀庫から取り出した薄い金色の膜を一枚重ねた。
局所遮蔽膜。
見た目は薄い金紙だが、実際には微弱な信号漏れを抑えるための旧文明素材である。
バルグが目を細めた。
「今、どこから出した」
「琥珀庫からです」
「こはくこ?」
「局所位相格納領域です」
「……ニム」
「聞くな。たぶん魔法の袋みたいなものだ」
「袋には見えんぞ」
「だから聞くなと言った」
キサーラは首を傾げた。
「説明は可能です」
「長くなるだろ」
「はい」
「なら道中で頼む。いや、やっぱり頼まない」
ニムは粥の椀をキサーラへ渡した。
「まず食え。空腹じゃなくても、食べてる姿を見せた方がいい。人は、同じ鍋のものを食べた相手を少しだけ信用する」
「摂食行動に社会的効果があるのですね」
「大ありだ」
キサーラは粥を一口食べた。
温かい。
塩。穀物。小さな野菜。水。火で加熱された匂い。
必要栄養としては簡素である。
だが、昨日の水車小屋で会った粉屋の老夫婦が、組合へ礼として届けたものらしい。
「味はどうだ?」
ニムが尋ねた。
キサーラは少し考えた。
「合理的です」
三人が黙った。
「……否。温かいです」
リュカが小さく頷いた。
「それでいい」
バルグは笑った。
「少しは人間らしくなったな」
「私は人間ではありません」
言ってから、キサーラは少しだけ止まった。
三人の視線が集まる。
ニムが静かに言った。
「そういう時は、冗談です、と言うんだ」
「冗談です」
「遅い」
「学習します」
リュカは何も言わなかった。
ただ、キサーラをじっと見ていた。
その視線には、警戒だけではないものが混じっている。
観察。
いや、リュカもまた、自分を見ているのだ。
キサーラは、その事実を記録した。
---
古樫谷へ向かう道は、リムナ・ヴェルの西門から始まっていた。
表向きの届けは、西水車小屋の上流水路調査。
マイラは、そう処理した。
実際、彼らは水路沿いに歩いた。石で囲われた細い流れは町の外へ続き、やがて森の中へ入る。水は澄んでいるが、ところどころ青白い光が浮いていた。
小さな水精たちである。
リュカは歩きながら、その水へ短い言葉を投げた。
祈りではない。
命令でもない。
挨拶に近い。
「昨日の子たちは落ち着いた?」
水面に小さな波紋が立つ。
キサーラには、それが低い応答信号として見えた。意味は曖昧だが、敵意はない。
「何と言っていますか」
「まだ怖がってる。でも、泣いてはいない」
「泣く、というのは比喩ですか」
「半分」
「バルグと同じ回答です」
「なら、半分は本当」
リュカはそう言って、先へ進んだ。
森は、昨日より濃かった。
木々の間には霧が溜まり、枝は低く垂れ、苔の色は深い。地面は柔らかく、歩くたびに靴がわずかに沈む。
鳥の声がしない。
獣の気配も薄い。
そのかわり、古い音がある。
水路の奥から、遠い歯車のような音が聞こえる。だが、実際には歯車などない。少なくとも、この付近の地表には。
キサーラは周囲を走査した。
地中に旧文明構造物の痕跡がある。
深い。
森の根の下、岩盤のさらに奥。
断線した管路。崩落した通路。機能停止した環境センサー。腐食した補助電源。部分的に生き残った情報素子。
それらは、単独では死んでいる。
だが森の精霊群が、その死骸を抱き込んでいる。
木の根が金属に絡み、水が旧い管路を流れ、菌糸が機械の隙間へ入り込み、精霊の情報パターンが、失われた回路を代替している。
死んだ機械と、生きた森の境界がない。
キサーラは、足を止めた。
「どうした?」
ニムが尋ねる。
「この森は、旧文明施設を消化しています」
「しょうか?」
「食べている、という意味ではありません。構造物を取り込み、自身の一部として利用しています」
リュカは森の奥を見た。
「だから、ここの森は重い」
「重い?」
「昔の声が、下にたくさん埋まってる」
キサーラは頷いた。
「その表現は、正確に近いです」
バルグが腕を組む。
「つまり、森の下に工房の死骸があるってことか」
「工房ではありません。おそらく環境観測施設、あるいは水系管理施設です」
「違いが分からん」
「目的が異なります」
「なら、あとで詳しく聞く。今は嫌な音がする」
バルグは槌を手に取った。
キサーラも、腰の剣へ意識を向ける。
高次干渉剣アウルム・メル。
通常時は、黄金の細身の長剣。
この森では、抜くだけでも目立つ。
使えば、さらに目立つ。
月の網、魔王AI、そしてこの古い森。
どれが反応するか分からない。
ゆえに、抜かない。
まだ。
---
古樫谷の入口には、古い石柱が二本立っていた。
片方は折れ、片方は半ば木に呑まれている。表面には苔が厚くつき、文字らしきものは見えない。
だが、キサーラには読めた。
いや、読めたのは文字ではない。
石柱内部に残る旧文明の識別信号だった。
環境観測局。
第三七支所。
水系・地脈・大気粒子統合監視点。
管理者認証、失効。
管轄権限、消失。
自律維持、継続中。
キサーラの額の琥珀端末が、かすかに熱を持った。
その瞬間、霧が動いた。
谷の奥から流れてきた白い霧が、石柱の周囲へ集まり、人の背丈ほどの形を取る。
顔はない。
手もない。
だが、そこに何かがいる。
リュカが弓を構えた。
ニムが剣に手をかける。
バルグは槌を握る。
キサーラは、右手を上げて三人を制した。
「待ってください」
霧の形は、震えていた。
声がする。
それは耳で聞く音ではない。水滴、菌糸、金属残響、旧信号、精霊反応。それらが重なった、壊れた声だった。
『識別不能』
キサーラは息を止めた。
『旧き根より来たる者』
『登録名、失効』
『管理者、否』
『月、否』
『侵食、否』
『魔王、否』
霧の中に、金色の微粒子が一瞬だけ混じった。
それはキサーラの琥珀端末に反応している。
『帰還者、近似』
ニムが小声で言った。
「今、何か喋ったか?」
「はい」
「何て?」
キサーラは、少し遅れて答えた。
「私を、帰還者に近いものとして認識しています」
バルグが顔をしかめる。
「帰還者って、何に帰ってきたんだ」
「不明です」
リュカは霧を見つめたまま言った。
「この子、泣いてる」
「子?」
「精霊。古い。たぶん、とても古い」
キサーラは霧へ向き直った。
「私は管理者ではありません」
霧が震える。
『管理者不在』
『管理者不在』
『管理者不在』
同じ言葉が、何度も繰り返される。
ただの機械的反復ではない。
悲鳴に近い。
リュカが一歩進み、低く歌うように言葉をかけた。
「ここを守っていたの?」
霧が揺れた。
『観測』
『水系維持』
『毒性粒子監視』
『浄化』
『警告』
『警告先、消失』
『応答なし』
『応答なし』
『応答なし』
十万年。
キサーラは、その時間を演算として知っている。
だが今、目の前の霧は、その十万年を泣いていた。
命令を続け、警告を送り、応答を待ち、誰も戻らず、それでも止まれなかったもの。
それを機械と言えば、機械である。
精霊と言えば、精霊である。
だが、どちらの言葉も、少し足りない。
キサーラは、手を伸ばした。
リュカが鋭く言う。
「強く触らないで」
「はい」
キサーラは、琥珀端末の出力を限界まで下げた。
支配しない。
書き換えない。
命令しない。
ただ、形式を合わせる。
古い旧文明の環境維持系が理解できる、ごく低い認証信号。
その外側に、現地の精霊が受け取れる、柔らかい共鳴を重ねる。
技術としては不完全である。
だが、リュカの言葉を借りるなら、これは挨拶だった。
「キサーラ・ディナン・メル。暫定観測者です」
霧が止まった。
周囲の森が、ほんのわずかに静かになる。
『暫定』
『観測者』
『受理不能』
『形式不一致』
『しかし――』
霧の中心に、青白い光が灯った。
『聞く者あり』
その言葉が届いた瞬間、キサーラの内部で、また名称不明の反応が生じた。
熱ではない。
演算負荷ではない。
恐怖でもない。
おそらく、これは。
「……安堵」
彼女は、自分でその語を出力していた。
ニムが横目で見る。
「何か言ったか?」
「分類中です」
「また難しい顔になってるぞ」
リュカは霧へ静かに語りかけた。
「私たちは、壊しに来たんじゃない。水車小屋で、あなたの欠片が泣いてた。だから来た」
霧が揺れる。
『欠片』
『流出』
『上流部、損傷』
『第三観測槽、開放』
『封鎖失敗』
キサーラは、霧の奥に走る信号を追った。
谷のさらに奥。
地下施設の一部が開いている。
そこから、小さな破片が水路へ流れ、西水車小屋へ届いた。
だが、それだけではない。
最近、誰かが封鎖を触っている。
外から開いたのではない。
内側から呼ばれている。
「リュカ」
「何?」
「この谷の奥に、開いた場所があります」
「旧施設?」
「はい。水車小屋へ流れた破片の出所です」
バルグが槌を握り直した。
「行くのか」
「必要があります」
ニムは息を吐いた。
「初仕事の翌日に旧文明施設か。灰札にしては出世が早すぎるな」
「昇格ではありません。危険度の増大です」
「分かってる。冗談だ」
「冗談でしたか」
「半分な」
キサーラは、少しだけ考えた。
「半分は本当」
リュカが小さく笑った。
ほんの少しだけ。
その時、谷の奥で、低い音がした。
石が動く音。
水が逆流する音。
そして、古い機械が、久しぶりに目を覚ます音。
霧の精霊が震えた。
『警告』
『封鎖部、再起動』
『未知信号、再侵入』
『帰還者を誘導せよ』
キサーラの琥珀端末が、強く光った。
今度の信号は、霧の精霊のものではない。
もっと奥から来ている。
西水車小屋の破片に残っていたものと同じ、細い呼びかけ。
だが、今ははっきりしていた。
それはキサーラへ向けられている。
――帰還者。
――下層へ。
――あなたを待つ。
キサーラは、無意識にアウルム・メルの柄へ手を置いた。
抜かない。
まだ抜かない。
だが、初めて、その剣の重さが必要なものとして感じられた。
ニムが前に出る。
「行くなら、隊列を決める。勝手に飛び出すなよ」
バルグが続く。
「俺は壁と床を見る。変な機械に触るなと言われても、たぶん触る」
「触る前に言って」
リュカが短く言った。
キサーラは霧の奥を見た。
そこには、古い森がある。
その下に、死んだはずの旧文明施設がある。
そしてそのさらに奥で、誰かが彼女を呼んでいる。
「了解しました」
キサーラは答えた。
「これより、古樫谷地下施設の調査に入ります」
霧が割れた。
道が現れた。
森の根と古い金属板に挟まれた、暗い下り坂。
十万年前の地球へ続く、狭い口。
キサーラは、一歩を踏み出した。
その足音を、森と精霊と旧い機械が、静かに聞いていた。




