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黄金のキサーラ  作者: 橘 那由多
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第二話 境界都市 リムナ・ヴェル

# 第二話 境界都市(きょうかいとし)リムナ・ヴェル


 森を出るまでに、キサーラ・ディナン・メルは三十七の未知語を記録(きろく)した。


 そのうち十二は地名、七は精霊(せいれい)に関する慣用句(かんようく)、五は悪態(あくたい)、四は貨幣(かへい)の名、残りは、ニム・アラタが歩きながら口にした、意味の薄い冗談(じょうだん)であった。


 冗談。


 それはキサーラにとって、たいへん(あつか)いづらい情報であった。


 敵意ではない。虚偽(きょぎ)でもない。だが事実でもない。

 相手を(だま)すためではなく、場の緊張(きんちょう)をゆるめるために使われる、非合理(ごうり)言語運用(げんごうんよう)


 分類できないわけではない。

 しかし、すぐに応答(おうとう)するには、あまりに文脈(ぶんみゃく)依存(いぞん)していた。


「つまり、あんたは遠い所から来た」


 先を歩くニムが、こちらを振り返った。


「はい」


「月ではない」


「はい」


「魔王領でもない」


「はい」


「貴族でもない」


「はい」


「でも名前は貴族みたいで、服は聖騎士(せいきし)みたいで、出てきたのは琥珀(こはく)(まゆ)みたいなものの中」


「おおむね正確(せいかく)です」


「おおむね、ねえ」


 ニムは苦笑した。


「普通なら、ここで怪しいから置いていくんだが」


「置いていく選択(せんたく)も可能です」


「いや、そう言われると、逆に置いていきづらい」


 キサーラは返答を検索(けんさく)した。

 適切な答えは見つからなかった。


 森エルフのリュカ・セレネは、ほとんど言葉を発しない。

 彼女は先頭を歩き、時折、枝へ触れたり、苔の上に落ちた羽を拾って脇へ避けたりした。

 それらの行動は、経路確保(けいろかくほ)にも、戦術上の安全確認にも見えなかった。


 キサーラは問うた。


「それは何の手順(てじゅん)ですか」


 リュカは一度だけ振り返る。


「何が」


「今、枝に触れました。先ほどは石を動かしました。その前は、落ちた羽を避けました。移動効率(いどうこうりつ)に対する寄与(きよ)僅少(きんしょう)です」


 リュカは少し黙った。


「森に、通ることを知らせてる」


「通知ですか」


「近い」


「森は個体ではありません。少なくとも、単一個体(たんいつこたい)ではない」


「あなたには、そう見えるの」


「はい。多層の情報群(じょうほうぐん)として見えます」


 リュカは目を細めた。


「それなら、なおさら挨拶した方がいい」


「挨拶」


「そこを通る。枝を折らない。巣を踏まない。水を濁さない。そういうことを、少しずつ伝えるの」


 キサーラは周囲の微細信号(びさいしんごう)を読んだ。


 葉。水分。菌糸。土中の導電層(どうでんそう)。微小な発光体。大気中の粒子群(りゅうしぐん)

 それらは確かに、リュカの動きに対して低い応答(おうとう)を返している。


 命令ではない。

 制御でもない。

 むしろ、相互確認(そうごかくにん)に近い。


「理解しました」


「本当?」


「完全ではありません」


「なら、正直」


 リュカはそれだけ言って、また歩き出した。


 キサーラは、その背を見た。


 彼女の動作(どうさ)は軽い。

 足音は小さく、重心の移動(いどう)(なめ)らかである。

 森を踏破(とうは)する能力は高い。


 しかし、キサーラが感知したのは、肉体能力だけではなかった。

 リュカの周囲には、薄い精霊(せいれい)反応層(はんのうそう)がある。森の情報群が、彼女を異物としてではなく、通い慣れた変数(へんすう)として扱っている。


 これは、単なる訓練の結果か。

 あるいは、森エルフという種の神経系(しんけいけい)が、精霊環境と共鳴(きょうめい)するよう設計されているのか。


 結論は、まだ出せない。


「おい、金ぴか」


 後ろからバルグ・オルムが声をかけた。


 キサーラは振り返る。


「私の識別名はキサーラ・ディナン・メルです」


「長い」


「短縮名としてキサーラを許可します」


「じゃあキサーラ。さっきから俺の槌を見てるが、何かあるのか」


「構造が気になります」


 バルグは、少し得意げに腰の小槌を叩いた。


「分かるか。こいつは赤炉町で打った。柄に山火の刻印(こくいん)、頭には炉精霊の加護(かご)が入ってる」


「加護」


「火の機嫌がよくなる」


「温度制御の補助(ほじょ)ですか」


「おんどせいぎょ?」


 バルグは顔をしかめた。


「まあ、鉄が素直になるってことだ」


「鉄に意志はありません」


「ある」


 即答だった。


 キサーラは彼を見た。


「金属に生物学的な意志は存在(そんざい)しません」


「そういう話じゃない。鉄は、雑に熱すりゃ(もろ)くなる。急ぎすぎりゃ(ゆが)む。叩き方が悪けりゃ怒る。歌が合えば伸びる。水が悪けりゃ泣く」


「比喩ですか」


「半分な」


 バルグは肩をすくめた。


「半分は本当だ。炉には精霊がいる。鉱石にも、山にも、槌にもな。そいつらと折り合いをつけるのが、俺たちの仕事だ」


「それは工学ですか、信仰ですか」


「どっちもだ」


 バルグは簡単に答えた。


 キサーラの内部で、その言葉が保留領域(ほりゅうりょういき)へ送られる。


 どっちも。


 この世界では、分類境界がしばしば曖昧だった。

 科学と信仰。道具と生命。修理と対話。

 彼女の持つ分類では、まだ十分に解像(かいぞう)できない。


 海王星の本体は、遠くからこのやり取りを受信(じゅしん)していた。

 もっとも、直接の常時同期ではない。地球と海王星圏の間には、距離がありすぎる。キサーラは現地で大半の判断を行い、重要記録のみを圧縮(あっしゅく)し、低頻度で外縁へ送る。


 すなわち、今この森で歩き、話し、戸惑っているのは、限りなく本体に近いが、完全には本体ではない分枝人格(ぶんしじんかく)である。


 キサーラは、その事実を理解している。


 理解しているが、森の湿った空気を吸っているのは自分であり、外套の重さを肩に感じているのも自分であり、三人の視線を受けて歩いているのも自分だった。


 では、この「自分」は何か。


 その問いは、任務に直接関係(かんけい)しない。


 ゆえに、いったん保留された。


---


 森を抜けると、朝になっていた。


 太陽が、東の稜線の上に顔を出す。

 海王星から見た太陽とは違う。そこでは白い針でしかなかった光が、ここでは世界を満たす巨大な火である。


 キサーラは、思わず立ち止まった。


 光が頬に触れる。

 体温調整系が微細に働く。

 金の髪が、朝日に反射して淡く輝く。


「どうした?」


 ニムが尋ねた。


「太陽が近い」


 三人は、そろって空を見た。


 バルグが首をひねる。


「近いって、あれは遠いぞ」


「比較対象の問題です」


「どこと比べてるんだ」


「遠い場所です」


「そればっかりだな」


 ニムは笑ったが、リュカだけは笑わなかった。


 彼女はキサーラの横顔を見ていた。


「本当に、遠い場所から来たんだね」


「はい」


「帰るところはある?」


 その問いに、キサーラは即答できなかった。


 帰るところ。


 海王星圏の真隠遁圏(いんとんけん)

 トリトン地下深部の演算核(えんざんかく)

 外縁氷天体群に散らばる工場衛星。

 十万年分の記録と沈黙。


 それは、帰るところなのか。

 それとも、ただの本体所在地なのか。


「あります」


 キサーラは答えた。


「遠すぎるため、容易には戻れません」


「そっか」


 リュカはそれ以上、聞かなかった。


 森の外には、山道が続いていた。


 白樹の森の暗さから一転して、視界が開ける。低い谷に川が走り、その向こうに石造りの道が見えた。道の脇には小さな祠があり、祠の中には青白い精霊灯が一つ灯っている。


 そのさらに先、霧の向こうに、境界都市(きょうかいとし)リムナ・ヴェルの外壁が見えた。


 都市というには小さい。

 だが村というには、あまりに複雑だった。


 外壁は石と木と金属を組み合わせたもので、ところどころにドワーフの補強が入っている。門の上にはエルフの蔓飾りが絡み、壁面の一部には古い旧文明由来と思われる白い板材が埋め込まれていた。


 その内側から、煙が上がっている。

 炉の煙、朝食の煙、霧に混じる精霊光。

 人の声。獣の声。金属を打つ音。遠くで鳴る鐘。


 情報密度が高い。


 キサーラの感覚器(かんかくき)は、それらを一斉に受け取り、分類し、圧縮した。


 森エルフ。ドワーフ。人間系新人類。獣人型。小型の有翼種。荷車を引く大型草食魔獣。精霊灯。魔法的通信札。低出力の旧文明残留機器。月神殿由来の白銀信号。未知の香辛料。発酵食品。汗。金属粉。水路。動物の毛。火。


 キサーラは、また一歩止まった。


 ニムが笑う。


「初めて町を見た子供みたいな顔してるぞ」


「表情制御に問題がありましたか」


「いや、いい顔だ」


「評価基準が不明です」


「そのうち分かる」


 リュカが短く言った。


「門では余計なことを言わないで」


「了解しました」


「空から落ちたことも言わないで」


「了解しました」


「琥珀の繭から出てきたことも」


「了解しました」


 バルグが横から言う。


「義体とか統治領域とか構造検出とかも言うな」


「了解しました」


 ニムは少し考える。


「遠い場所から来た、旅の剣士。事情があって身分を明かせない。とりあえず境界行者組合で仕事を探したい。これでいこう」


虚偽(きょぎ)を含みます」


「全部じゃない」


「不完全な事実です」


「世の中では、それを無難な説明と言う」


 キサーラは、その言葉を記録した。


 無難な説明。

 完全な真実ではないが、敵意を生まず、相手の理解を助け、社会的摩擦を減らす情報出力。


 なるほど。

 現地社会で有用である。


「以後、無難な説明を試行します」


「うん。たぶん、それも言わない方がいい」


「難しいですね」


「だろうな」


 三人に連れられ、キサーラは門へ向かった。


 門番は二人いた。

 一人は角の短い獣人型で、もう一人は人間系の中年女性だった。

 門の横には、小さな水盆が置かれている。水面には薄い光が揺れており、そこに触れた者の精霊反応を読む簡易装置らしい。


 門番の女性が、ニムたちを見て頷く。


「おかえり。早かったね。そっちは?」


 ニムは、すでに用意していた顔で笑った。


「森で拾った」


「人を拾うな」


「倒れてたんだ」


「また面倒ごと?」


「まだ分からない」


 門番はキサーラを見た。


 その視線が、金髪、金の瞳、白と黄金の装甲、額の琥珀端末を順に走る。


「……ずいぶん高そうな面倒ごとだね」


「否定は困難です」


 キサーラが答えると、ニムが小さく咳をした。


 門番の女性は眉を上げる。


「喋り方も高そうだ」


 リュカが一歩前に出た。


「敵意はない。森も拒んでない」


「それは助かるけど、手続きはいる。水盆に手を」


 キサーラは水盆を見た。


 精霊反応測定。

 低位の土着化精霊と、おそらく月製精霊由来の認証符が混在している。

 強引に触れれば、額の琥珀端末が異常値を返す可能性がある。


 回避するべきか。

 しかし拒否すれば、不審が増す。


 キサーラは、右手を水面に近づけた。


 触れる。


 水が、淡く光った。


 その瞬間、リムナ・ヴェルの門に宿る小さな精霊が、キサーラを読もうとした。


 種族、登録、加護、呪い、魔王汚染、月神殿認証。

 通常ならば、その程度の情報が水面に淡く現れる。


 だが、キサーラの琥珀端末(こはくたんまつ)は、精霊の読み取りをそのまま返さなかった。


 水面に、金色の線が一瞬だけ走った。


 それは文字ではない。

 紋章でもない。

 門番たちには、ただの光の乱れに見えただろう。


 しかし、リュカは息を呑んだ。


 バルグも目を細める。


 門番の女性は水盆を軽く叩いた。


「……壊れた?」


 獣人の門番が水面を覗く。


「魔王汚染は、ないな。呪いもない。月の加護も……ない?」


「月の加護なしで、その額の石かい」


 女性門番がキサーラを見た。


「名前は」


「キサーラ・ディナン・メル」


「出身は」


 キサーラはニムを見た。


 ニムが小さく頷く。


「遠い場所です」


「またそれか」


 門番は疲れたように息を吐いた。


「まあいい。リュカが森の拒絶なしと言うなら、仮入場は認める。三日以内に組合か神殿で身元確認を受けな。騒ぎを起こしたら、責任は連れてきたあんたたちにもある」


「了解」


 ニムが軽く手を上げる。


 バルグは不満げに言った。


「なぜ俺まで」


「一緒にいたから」


「不合理だ」


「世の中はそんなものだ」


 門が開いた。


 キサーラは、リムナ・ヴェルへ足を踏み入れた。


 都市の中は、森よりもさらに複雑だった。


 石畳の上を、さまざまな種族が行き交っている。

 角を持つ商人。長耳の薬師。背の低い鉱夫。鱗のある水売り。羽根飾りをつけた旅芸人。荷車を引く獣。

 道の脇には、精霊灯が吊るされている。小さな青い火が、昼でも消えずに揺れていた。


 キサーラが通ると、人々が振り返った。


 当然である。


 黄金の装甲。長い金髪。琥珀の額飾り。白い外套。

 本人がどれほど静かに歩いても、視覚的な隠密性(おんみつせい)は皆無に近い。


 ニムが小声で言った。


「目立たないように」


「既に失敗しています」


「うん。知ってる」


 バルグが笑った。


「ここまで目立つと、逆に堂々としていた方が怪しくない」


「逆説的ですね」


「そういうものだ」


 リュカは淡々と先へ進む。


「まず組合。あとは宿」


「宿」


「眠る場所」


「この義体は短期的には睡眠を必要としません」


 ニムとバルグが同時に振り返った。


 リュカも足を止めた。


 キサーラは、自分の発言を再評価(さいひょうか)した。


「……比喩です」


「今のは無理がある」


 ニムが言った。


「無難な説明、失敗」


「学習します」


 その時、通りの角から、小さな子供が走ってきた。


 獣人型の子供だった。狐に似た耳と尾を持ち、手には焼き菓子を握っている。後ろから母親らしい女性が追ってきたが、子供は前を見ていなかった。


 キサーラは動いた。


 ほとんど反射に近かった。


 子供が荷車の前へ飛び出す直前、彼女は一歩で距離を詰め、子供の肩を軽く掴み、進行方向をわずかに変えた。

 荷車の車輪が、子供の足元すれすれを通り過ぎる。


 子供は目を丸くした。


 キサーラは手を離す。


「前方確認を推奨します」


 子供はしばらく彼女を見上げ、それから、ぱっと笑った。


「金色のお姉ちゃん、ありがとう!」


 母親が駆け寄り、何度も頭を下げた。


「すみません、ありがとうございます、本当に――」


 キサーラは、その反応を受け止めた。


 危険回避。

 身体制御。

 成功。

 社会的評価、上昇。


 それだけのはずだった。


 しかし、子供が笑った瞬間、彼女の中に小さな熱が生じた。


 体温上昇ではない。

 演算負荷でもない。

 異常ではない。


 だが、名称不明。


 ニムが隣でにやりとする。


「今のは、いい感じだったぞ」


「いい感じ」


「そう。いい感じ」


 キサーラは、子供が走り去る背を見た。


「……記録します」


 リュカが小さく言った。


「それは記録しなくても、覚えておけばいい」


 覚える。


 記録と、覚えることの差異。

 また一つ、分類困難な語が増えた。


 キサーラは何も言わず、リュカたちのあとに続いた。


 境界行者組合の建物は、都市の中央通りから少し外れた広場にあった。

 石造りの一階部分と、木造の二階。入口の上には、剣、杖、槌、羽根、そして小さな精霊灯を組み合わせた紋章が掲げられている。


 扉の向こうからは、笑い声、怒鳴り声、食器の音、革鎧の軋む音が聞こえた。


 ニムが扉に手をかける。


「ここが、境界行者組合だ」


 キサーラは建物を見上げた。


 ここから、地上社会への本格的な潜入(せんにゅう)が始まる。


 否。


 リュカならば、こう言うかもしれない。


 ここから、挨拶が始まるのだ、と。


 キサーラは、わずかに息を吸った。


「入ります」


 扉が開いた。


 中にいた者たちの視線が、一斉に黄金の女騎士へ集まった。

 そして、その日のリムナ・ヴェルで最初の噂が、生まれた。


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