表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄金のキサーラ  作者: 橘 那由多
2/14

第一話 琥珀の降下

# 第一話 琥珀の降下


 地球は、遠くから見れば、まだ青かった。


 その事実に、キサーラ・ディナン・メルは――否、キサーラを通じて外縁の知性は――小さな誤差を覚えた。


 観測記録では知っていた。

 十万年の間に氷床は拡大し、海面は後退し、大陸棚は陸となり、気候帯は移ろい、人の名を持つ国家はすべて消えた。

 月面超人類は地上を庭園とし、旧文明の残存AIは魔王と呼ばれ、新人類は精霊と契約しながら諸国を築いた。


 それでも、雲の白と海の青は、なお古い記憶と似ていた。


 似ている。


 ただし、同じではない。


 それが、もっとも厄介だった。


『大気圏侵入まで、八百四十二秒』


 降下殻の内部で、下位制御系が報告した。


 キサーラは、まだ完全には目覚めていなかった。

 義体の神経系は低出力で保持され、視覚、聴覚、触覚、平衡感覚はいずれも制限されている。人格器の中心には、海王星圏の本体から切り出された低帯域分枝が、静かに同期を待っていた。


 外側から見れば、降下殻はただの小さな隕石片である。


 岩石、氷、金属、古い宇宙塵を模した多層偽装殻。表面は自然天体と同じ反射特性を持ち、熱放射も最小限に抑えられている。内部の黄金義体は、琥珀色の生体樹脂に包まれ、胎児のように膝を抱えて眠っていた。


 大気圏侵入角は浅い。


 降下は、一度ではない。


 海王星圏から射出された主殻は、太陽系内を長く迂回し、途中で幾つもの囮片を放った。木星軌道外側で一度、土星圏の旧廃棄物帯で二度、さらに天王星圏の古い観測残骸に似せた通信反射を一度。


 月面統合知性(ルナリス・ノウス)が仮にそれらを検知しても、全体像には至らない。

 少なくとも、そう設計されていた。


『月面監視網、低出力走査』


 月。


 その白い球体は、地球の傍らにあった。


 かつて人類が見上げた静かな衛星。

 いまは、白銀の都市群、月内部演算層、軌道環、精霊管理中枢を抱く、巨大な統合知性の巣。


 キサーラの眠る降下殻は、月の監視網の縁を掠める。


『偽装流星群との同期、成功』


『識別危険度、許容範囲内』


『大気境界へ到達』


 次の瞬間、降下殻の外殻が炎に包まれた。


 いや、炎と表現するのは、義体側の感覚翻訳にすぎない。実際には、大気との摩擦、プラズマ化した気体、断熱殻の剥離、熱流束の制御、姿勢補正噴射の連続であった。


 だが、キサーラの閉じた瞼の裏に、赤金色の光が滲んだ。


 熱。


 圧力。


 振動。


 それらは、海王星の氷の内側には存在しなかった感覚である。


 義体の深層で、まだ名を持たぬ反応が生じた。


 恐怖ではない。

 痛みでもない。

 だが、無機的な演算とも違う。


『感覚入力、上昇』


『義体人格器、覚醒準備』


『降下殻、第三外層を分離』


 空に、幾つもの流星が走った。


 地上の者が見れば、それは晩秋の流星群にしか見えなかっただろう。

 霧銀山地の上空では、夜明け前の暗い空に、細い金の線がいくつも裂けた。


 そのうちの一つだけが、途中で軌道を変えた。


 ほとんど誰にも分からぬほど、わずかに。


 ただし、まったく誰にも、ではない。


---


 霧銀山地の北麓で、森エルフの斥候リュカ・セレネは、空を見上げていた。


 耳が動いた。


 風の音が、変わったからだ。


「……今の、見た?」


 彼女の隣で、短躯の若いドワーフが首を傾げた。

 名をバルグ・オルムという。肩に工具袋を担ぎ、腰には小さな槌を下げている。髭はまだ薄いが、目つきだけは一人前の工匠のそれであった。


「流れ星だろ。珍しくもない」


「違う。落ち方が曲がった」


「流れ星は曲がらんのか?」


「普通は、あんなふうには曲がらない」


 三人目の青年、ニム・アラタが眠そうに欠伸をした。

 人間系の混成新人類で、背は高く、服装は旅人と傭兵の中間。剣は持っているが、抜くより先に交渉する性格である。


「リュカがそう言うなら、何かあるんだろうな」


「面倒ごとの匂いがする」


「じゃあ、確認するか?」


「確認しない方がもっと面倒になる」


 リュカは短く答え、森の奥へ目を向けた。


 霧銀山地は、その名の通り霧の多い土地である。北には白樹の森、南には山火ドワーフ同盟の鉱山路、西には人間系開拓民の交易宿、東には古い旧文明遺跡の立入禁止域がある。

 地図の上では境界線が引かれているが、実際には、森と岩と霧と精霊の都合で、境界など日ごとに変わる。


 そのため、この地では何かが起きる。


 行方不明の商人。

 狂った小精霊。

 山道に現れる魔獣。

 月神殿の巡礼者。

 魔王領から逃げてきたという噂の者。

 そして、ときおり空から落ちる旧文明の残骸。


 リュカは、森の声を聴く。


 厳密に言えば、声ではない。葉の揺れ、枝の軋み、苔に宿る微細な光、根の下を流れる水気、精霊が残す気配。

 それらを、彼女の神経系は「言葉に似たもの」として受け取る。


 今、その森がざわめいていた。


「落ちたのは、古樫谷の方」


 バルグが顔をしかめる。


「旧観測所の近くじゃないか。あそこは精霊の機嫌が悪い」


「だから行くの」


「だから行きたくないんだが」


 ニムが苦笑し、背嚢を背負い直した。


「どのみち境界行者組合へ報告するなら、現物を見てからだな。隕鉄なら売れる。魔獣なら逃げる。月の使徒なら土下座する。魔王の欠片なら……まあ、全力で逃げる」


「あなたの人生方針、分かりやすい」


「長生きの秘訣だ」


 三人は森へ入った。


 夜明け前の森は、青黒い。


 霧が低く垂れ、木々の間に細い光が漂っている。精霊灯ではない。自然の微精霊が、湿気と菌糸と樹液に反応して発する淡い燐光である。

 足元では苔が柔らかく沈み、遠くで獣の声がした。


 リュカは先頭を歩いた。


 彼女は時折、立ち止まり、耳を澄まし、枝に触れ、何かに小さく謝るような仕草をした。

 バルグはそのたびに待たされるので不満げだったが、文句は言わない。エルフが森に礼をする時、急かすと碌なことにならないと知っているからだ。


 やがて、古樫谷の底に出た。


 そこは、霧銀山地でも特に古い森である。

 巨大な樫の根が岩を抱き、谷底には細い水が流れ、崖には半ば朽ちた金属板が埋まっている。旧文明の観測施設の残骸だと伝えられているが、文字は読めず、入口らしきものは土砂で塞がれて久しい。


 だが今、その中央に、見慣れぬものがあった。


 琥珀色の繭。


 そう呼ぶほかなかった。


 それは地面に浅くめり込み、周囲の草を焼くこともなく、ただ霧の中に沈んでいた。表面は樹脂のように半透明で、内側から淡い金色の光が脈打っている。


 バルグが息を呑んだ。


「……隕鉄じゃないな」


「売る気だったの?」


「最初からそのつもりではない。ちょっと期待しただけだ」


 ニムが剣の柄に手を置く。


「生き物か?」


「分からない」


 リュカは弓を構えたまま、ゆっくり近づいた。


 森の精霊たちは、怯えているわけではなかった。

 怒ってもいない。

 ただ、困惑している。


 それがリュカには、かえって不気味だった。


 月の使徒が降りた時、森は凍るように静まる。

 魔王の欠片が現れた時、森は腐った鉄の味を帯びる。

 狂精霊が暴れた時、森は泣く。


 だがこれは違う。


 森は、知らないものを見ている。


「リュカ」


 ニムが囁いた。


「中に、人がいる」


 琥珀の繭の内側に、確かに影があった。


 膝を抱えた人影。

 長い金髪。

 白と黄金の装甲。

 額に、琥珀色の宝玉めいた光。


 バルグは思わず一歩前へ出た。


「待て」


 リュカが鋭く言う。


「あれは、装飾じゃない。精霊が触れようとして、弾かれてる」


「魔具か」


「魔具でもない」


 その時、繭の表面に亀裂が走った。


 三人は同時に身構える。


 亀裂は花の蕾が開くように広がり、琥珀色の殻は音もなくほどけていった。破片は地に落ちる前に霧へ溶け、霧は小さな光粒となって森に吸い込まれる。


 中から、彼女が現れた。


 白い衣。黄金の鎧。精緻な冠めいた額飾り。肩に流れる金髪。

 その美しさは、森の中ではあまりに不自然だった。


 だが、不自然でありながら、作り物めいてはいなかった。

 呼吸をしている。

 肌に血色がある。

 霧に濡れた睫毛が微かに震えている。


 彼女はゆっくりと目を開いた。


 金色の瞳が、三人を映した。


 その瞬間、キサーラ・ディナン・メルは、初めて地上を見た。


 湿った空気。

 土の匂い。

 森の暗さ。

 三つの生命反応。

 周囲を漂う無数の精霊信号。

 遠方に残る旧文明施設の腐食した電磁影。

 そして、自分自身の頬を伝う、冷たい霧の感触。


 情報量が、多すぎた。


 海王星の本体は、地球の環境を知識として知っていた。

 だが、知識と感覚は別物である。


 キサーラは、息を吸った。


 肺が膨らむ。

 空気が喉を通る。

 心臓が打つ。


 それは設計された生理反応にすぎない。

 しかし、その一つ一つが、奇妙に重かった。


 彼女は三秒、黙っていた。


 そして、最初の言葉を発した。


「……ここは、どの統治領域ですか」


 三人は顔を見合わせた。


 最初に口を開いたのは、ニムだった。


「統治領域?」


 バルグが小声で言う。


「貴族か?」


 リュカは弓を下ろさない。


「あなたは誰」


 キサーラは答えようとした。


 識別名。目的。降下経路。任務。

 それらの情報が一瞬で候補として並ぶ。


 だが、いずれも現地公開に不適であった。


 彼女は、わずかに首を傾けた。


「私は……」


 言葉を選ぶ。


「キサーラ・ディナン・メル」


 リュカの眉が動く。


「どこの家名?」


「遠い場所です」


「月から?」


 その問いに、キサーラの内部で警戒値が上がった。


 月。


 この世界において、それは単なる天体ではない。地上管理者の象徴であり、神話であり、政治的権威であり、監視網である。


 否定するべきか。

 曖昧にするべきか。


「月ではありません」


 リュカは、少しだけ目を細めた。


「なら、魔王領?」


「それも違います」


 ニムが少し安堵したように息を吐く。


「じゃあ、記憶喪失の姫騎士か何かか?」


「記憶はあります」


「あるのか」


「はい」


「じゃあ、何でそんな所から出てきたんだ?」


 キサーラは琥珀の繭があった場所を見た。

 すでに殻は消え、湿った草と小さな光粒だけが残っている。


「移動手段です」


「移動手段」


 ニムは頷いた。


「なるほど。分からん」


 バルグが、じっとキサーラの鎧を見ていた。


「その装甲、見せてもらっていいか」


「拒否します」


「即答か」


「現時点で、あなたの意図を評価できません」


「俺は鍛冶師だ。未知の金属を見ると触りたくなる」


「危険な職能ですね」


「よく言われる」


 リュカが一歩近づいた。


「あなたは、森を傷つける?」


「目的に含まれません」


「目的?」


 失言。


 キサーラの内部で、補助判断が微かに警告を発した。


 彼女は言い換えた。


「傷つけるつもりはありません」


 リュカは、まだ疑っている。


 だが、弓をわずかに下げた。


「精霊が、あなたを嫌っていない」


「好いてもいないようです」


 その返答に、リュカは初めて少し驚いた。


「聞こえるの?」


「聞こえる、というより……構造を検出しています」


「こうぞう?」


 ニムが小声でバルグに尋ねる。


「分かるか?」


「分からんが、何となく工房の言葉に近い」


「つまり?」


「かなり怪しい」


 キサーラは三人を観察した。


 森エルフ。ドワーフ。混成新人類。

 武装あり。敵意、低から中。好奇心、高。恐怖、中。

 即時戦闘の可能性、低下。


 現地協力者として利用可能。


 利用。


 その語が、義体人格の中でわずかに引っかかった。


 彼らは対象である。観測対象。

 協力者候補。情報源。現地社会への接続点。


 それ以上ではない。


 そう判断するはずだった。


 しかし、ニムが自分の外套を脱ぎ、キサーラへ差し出した。


「とりあえず、寒いだろ」


 キサーラは外套を見た。


「この義体は低温環境に耐性があります」


「義体?」


 また失言。


 ニムは首を傾げたが、外套を引っ込めなかった。


「まあ、耐性があっても、森をその格好で歩くと目立つ。いや、もう十分目立ってるけどな」


 キサーラは外套を受け取るべきか計算した。


 受け取れば、現地社会的な友好応答となる。

 拒否すれば、警戒を生む。

 布製外套に有害物質や拘束機能は検出されない。


 彼女は外套を受け取った。


「感謝します」


 ニムは笑った。


「どういたしまして、キサーラさん」


 名前を呼ばれた。


 ただの識別名が、他者の声で発せられる。

 その瞬間、義体人格の深層で、また小さな反応があった。


 解析不能。


 キサーラは、それを一時保留した。


 リュカは森の奥を見た。


「ここに長くいるのはよくない。古樫谷は、夜明けのあと機嫌が変わる」


「機嫌?」


「精霊の」


 バルグが頷く。


「それに、その格好だ。山道で誰かに見られたら、半日で噂になる」


「噂は好ましくありません」


「なら、町へ来い。境界都市リムナ・ヴェルだ。身元不明の怪しい女騎士でも、登録すれば多少は歩ける」


「登録」


「境界行者組合。知らないか?」


「知りません」


「だろうな」


 ニムは肩をすくめた。


「じゃあ、まずはそこからだ」


 キサーラは、三人を順に見た。


 このまま単独行動を取る選択肢はある。

 だが、現地制度、言語運用、貨幣、宗教、精霊慣習、国家関係を学ぶには、案内者が必要である。


 加えて、目の前の三人は、敵対するより同行した方が有益であった。


 彼女は頷いた。


「同行を希望します」


 リュカが短く答える。


「武器は抜かないで」


「了解しました」


 バルグが彼女の剣を見た。


「抜かなくても、充分目立つがな」


 ニムは笑いながら歩き出す。


「まあ、いいさ。今日は流れ星から黄金の騎士様が出てきた。明日はきっと、もっと普通の日になる」


 リュカとバルグは、同時に彼を見た。


「そういうことを言うと、普通じゃなくなる」


「おい、縁起でもないこと言うな」


 キサーラは、そのやり取りの意味を完全には理解できなかった。


 だが、三人の声に敵意はない。


 森はまだ霧に包まれている。

 遠くで、夜明けの鳥が鳴いた。

 彼女の額の琥珀端末が、淡く、しかし確かに光を返す。


 キサーラ・ディナン・メルは、初めて地上の土を踏みしめた。


 その一歩は、観測任務の開始にすぎない。


 しかし、海王星の沈黙から見れば、それは十万年ぶりの帰還であった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ