95話目
95話目です
誤字・脱字があったら申し訳ありません
冬花ちゃんの突然の来訪に皆が皆、俺を除いて同じ理由で戸惑いながらも、山中の説明によりパーティーの準備は再開する。
彼女いわく、一が話を聞いていたときに食事の話題が上がり、その部分に遠くの席で待っていた冬花ちゃんが食い付いたらしい。
だから一に頼んで材料を大量に買い込み、彼女に満足してもらうためか、俺らが食べ損ねてしまうという可能性を消去するためか、はたまた両方かのために備えたらしい。
冬花ちゃんらしいと言えばらしい理由で、実際にこうして用意してしまった以上、彼女に食いきってもらわねば余りが出てしまう。
理由を聞き、変に追い出す必要も皆無のため、一人増えた六人でのパーティーが始まった。
けれど流れる空気は妙に重く、その原因の一端が俺にあるのはもちろん解っている。
そしてもう一つの理由は、真向かいに座る冬花ちゃん。
俺が今まで見てきた時とは違い人並みの速度で、加えて何も喋ること無く器に箸を入れては口へと運び、表情を崩さず控えめにその頬を動かす。
あまり自ら喋る彼女ではないが、だからこそきっと、俺と同じで常に頭は働いているのだろう。
彼女の心の中では一体、何が考えられているのだろうか。
冬花ちゃんは見た目可憐な少女だが、その実俺たちの高校に飛び級と、普通なら聞かないようなことを成して入学してきた。
ならば、俺が退部したことにも、何かしら普通の子供が思う以上の感情を持っていてもおかしくはない。
彼女なりの、誰も読み解けない未知の頭の中のその感情が一体どういうものなのか、傍に長くいたあの新崎でさえ分からない時があるのだ。
今まで全部でなくとも別人を見続けていた俺に、それは一生を注ぎ込んでも遠く理解出来るものではない。
「……」
だから、伝えるべきなのは彼女が納得するようなしっかりと練られた答えではなく、ただの俺の、形もあやふやな本心。
…そんな勢いでちゃんと言えていたら、きっと新崎や城戸さんに笠木さん、ましてや冬花ちゃんとこんな雰囲気を作ってしまう関係になることは無かっただろう。
どれだけ出来事を重ねても、時間を経ても、俺は変わらず成長していなかった。
言葉も出せずに、矢波先輩が器によそってくれたスープに浸る具材に視線を無意味に留めてしまう。
「ね…」
不意の冬花ちゃんの声。
名前こそそこには入ってはいなかったが、誰を指しているのかは一発でわかった。
視線を上げると、右で気まずそうにして一が俺と冬花ちゃんを交互に見ているのが写った。
左に座る矢波先輩達は俺がどうするのか行く末を見たいのか、間に入って口を出すような気配は一切感じられない。
ただ先輩達も一も、ここにいる全員が俺が部活を辞めたことであの部活に今いる人らと、何かしらの亀裂があるのは解っているらしい。
だから、山中は彼女をここに呼んだのだろうか。
冬花ちゃんが来るということをここまで隠していた理由。
それは俺の逃げ道を失わせ、しっかりその亀裂を修復させようとしたからだろうか。
そんなことを考えられるぐらいの間が空いた後、冬花ちゃんは先の言葉を放った。
「どうして…やめたの…?」
「…」
その質問は俺が絶対に答えられない質問。
城戸さんや矢波先輩達でさえ俺は言わなかったのだ。
自分の勝手な思い込みが嫌になったからと。その事だけは。
馬鹿馬鹿しいと思われたくない、変な奴だと思われたくない、そんなプライドと自衛が積もり、心の内側で言い訳を尽きること無く産み出していく。
「それは…」
続く言葉なんて考えてない。
…いや、考えてはいるのだ。
数多に、無数に、大量に。
なのに考えた言葉は結局頭止まりで、口から俺の声帯を使って外に吐き出されることはなく、それが解っているのに今もなお、こうしてひたすら頭で考え続けているのを思うと自分自身が酷く馬鹿で滑稽に思えた。
城戸さんや矢波先輩達と違い、両方が喋らない者同士の会話は、声を発しているときよりも間の方が長くなる。
だから、他の人達にも一層の気まずさを与えてしまっているのだろう。
その空気の中で、俺が言葉を詰まらせた事に冬花ちゃんは気付いたのか、ぽつりと、呟くのと同じ小ささの声が部屋に広がった。
「かんがえたの…」
優しく微笑んで、冬花ちゃんは先を普段と変わらない、いっそ楽しそうな面持ちで、隣に座る山中を見上げた。
「灯と二葉…一緒に六人であの部屋にいるの…楽しそうって、思った…」
「…冬花ちゃん」
視線を合わせた山中が冬花ちゃんの表情に釣られ、ふわりと優しい笑顔を浮かべる。
一にとってそれはかなり不気味なものらしく、うわぁとちょっと引いたような顔を見せていた。
が、一の顔に気付いた山中が睨むような視線を向け、刺された一は固い笑みで視線を遠くに逃がした。
「できないの…?」
山中がいて、俺もいる部活。
果たして、そんな日は来たのだろうか。
俺が辞めたから山中が入部したのだ。
いつか、山中があのきっかけとは別の事で日常部に入部した日が来ていた可能性もあったのかもしれない。
けれど今、これから俺がまた改めて入部するということはとても考えられず、多分山中もそんな日が有り得ないと分かっていたからこそ、こうしてこの場に彼女を呼んだのだ。
軽々しく嘘を付いて頷くことなんて出来ない。
というよりも、今、何も、動くことさえも俺はろくに出来ていないのだ。
彼女に特別な想いが人一倍あったからこそ、反動は人一倍を越えて喉に尋常じゃない圧力を掛けてくる。
出来ないと本心を伝えた後、冬花ちゃんの表情がどう変わってしまうのか想像したくなかった。
彼女の表情が崩れてしまうぐらいに自分が慕われているのだと、気持ち悪い自惚れを感じたくなかった。
もっと、彼女に慕われている人間はいるのだから。
「灯…?」
答えを求める不安を混じらせた控えめな少女の声。
袋小路に陥り、無意味な間を持たせる言葉さえ、閉ざした口は外に吐いてはくれない。
「…多分、無理ないんじゃないかな」
ふと、俺ではない声が冬花ちゃんの質問に答えを返した。
その声はとても聞き慣れていて、発した人はすぐにでも分かる。
…矢波先輩。
そして桜丘先輩もどうしてか、かなり真剣な顔をしていて、二人はとんと腰を上げると俺を挟む形で両端に座る。
「どう…して…?」
表情を僅かに暗く落ち込ませ、冬花ちゃんは二人を瞳でしっかり捉える。
城戸さんの時同様に、そう思いたいという想いが産み出した気持ち悪い自惚れか、その瞳と声には何処か敵意が含まれているような感じがした。
山中も隣でそれを感じ取ったのか、驚きで瞳が丸くなっている。
けれど、二人の戸惑いをよそに矢波先輩は空気に似合わない明るいテンションで、幾度も見てきた、からかうような笑顔を見せる。
「ふっふーん、それはねー。灯くんが僕たちの事、大好きだから、かな♪」
「いや…その先輩…」
「えー、これからも一緒にいたいって言ったでしょ?」
横目で見上げてきた先輩の瞳には、ふざけていたりからかうような気配は全くと言って良いほど感じられない。
むしろ、初めて見たかもしれないぐらい、そこには真剣さが滲んでいた。
あぁ、この人は分かってやっているのだ。
このまま俺と冬花ちゃんだけに任せていてもこの場は収まらないと、俺の不甲斐なさを理解していて、それで助け船を出してくれているのだ。
桜丘先輩を見れば普段よりも格段に大人びた表情で、優しい微笑を困惑する俺に向けてくれていた。
緊張のせいかいつの間にかに服を掴んでいた俺の手は、炬燵の掛布団に隠れながら気づけば二人の手に暖かく包み込まれていた。
「ね、春?」
「う、うんっ!今も…えっと、勉強とか一緒にやってたりするから…その、部活に戻るのは難しい…かな?」
「そう…なの…?」
せっかく出してくれた助け船をそのまま流すわけにはいかない。
冬花ちゃんに嘘を付くという傷が生まれるが、だからと言って何も伝えずに終わらせて冬花ちゃんを余計に悩ませるよりかは、こっちの方が良い終幕なのだと勝手ながら信じたい。
「…まぁ。…ごめんなさい」
「そっか…」
「ふふーん♪灯くんが欲しいなら、もっとお姉さんにならなきゃかなー?」
「むぅ…」
肩が触れるぐらい距離が詰められ、冬花ちゃんを挑発するかのような矢波先輩の声が間近に聞こえて、反対側にこっそり逃げようと試みる。
けれどそっちには桜丘先輩がいて、俺の行動に目ざとく気付くと「ダメだよ」と注意され、桜丘先輩も間を詰めてきて最終的には二人の真ん中に戻されてしまう。
だが、こんな行動が取れるぐらいに、先輩達のお陰で空気の重さは取り除かれたのだろう。
「…冬花ちゃん」
山中がそう言うことだからと冬花ちゃんに言うと、納得してくれたのかこくんと頷く。
そして、顔を上げるとまた一つの質問が俺に飛んできた。
「ね…灯…いっこ、いい…?」
「…な、なんですか」
どうにも冬花ちゃんとの正面を向いての会話の仕方が定まらず、変な言葉使いじゃないか不安を抱きながらも返事をする。
「私のこと…きらいじゃ…ない…?」
「も…もちろん」
「すき…?」
「………す、好き…です…」
簡単にオウム返し出来る言葉ではなく、一瞬の間を取りながらも、視線を壁に逸らしながらも、それでも何とか照れくささを底に押し込めてしっかり全部を言い切る。
すると、冬花ちゃんのくすっと静かに微笑むような声を耳が捕まえた。
安心して視線を戻せば冬花ちゃんの隣の山中が、俺を刺し殺すような鋭利さの瞳で強く睨んできていた。
「ふーん…灯くんってばそういうことする子なんだ…せっかく助けてあげたのに…ふーん」
「…その、指…食い込んでます」
「あ、私、爪切るの忘れてかも、ごめんね灯くん。…耐えてね」
そして俺の両隣からも外に蔓延する冷気をそのまま放ったような、低く凍える声が耳を突き刺してくる。
警察が犯人をパトカーの真ん中に配置して運ぶシーンがあるが、実際こんな感じなのかもしれない。
重い空気から外れた筈なのに凄く気まずいです…。
だが、冬花ちゃん一人は俺の言葉に喜んでくれたのか表情を柔らかくし、目元を細める。
「なら…いい…」
呟くように言うと冬花ちゃんは膝を立て、危なっかしくも鍋に突っ込まれていた菜箸を手に取り、鍋の中から一番存在感を放っていたどでかい椎茸を掴む。
鍋に近い体勢に山中が不安そうに、けれど変に手を出して火傷をさせてしまうのを恐れてか、横でひたすらにあわあわする。
「と、冬花ちゃん、お鍋、熱いですから気を付けて…」
「ん…わかってる…。灯…これ…あげる…」
冬花ちゃんは目いっぱいに身体を伸ばし、箸で掴んでいた椎茸を俺の器に乗せた。
本当にただの善意なのだろうが、どうにも素直に喜ぶ反応が見せられない。
文化祭の時に俺がキノコ嫌いの事は言っていた覚えがあるが、俺が覚えているだけで冬花ちゃんが覚えているとは限らない。
加えて、彼女はその時、目の前のご飯に夢中だったのだ。そもそも耳にすら届いていなかった可能性も考えられる。
「一番おっきいの…あげる…ふふ」
「あ…ありがとう…」
流石に、あんな可愛らしい笑みの御前で嫌いだからと断ることは不可能で、ひきつった苦笑いでお礼を述べる。
冬花ちゃんは菜箸を鍋に戻そうとしたが、それを「少し良い?」と言って、山中が何故か引き継ぎまた別の椎茸を菜箸で丁寧に掴む。
「こほん。先輩、私からもあげます。どうぞ」
「いや…流石に…」
「いいえ。私の、冬花ちゃんを笑顔にしてくれたお礼ですから、是非」
山中の表情にはさっきの怨みを晴らそうとしている魂胆がはっきりと出ていて、言葉で咄嗟に応戦したが間に合わず、また椎茸が器に一つ増える。
およそ器の半分が埋められ、どうすればと、それをジッと見下ろしてしまう。
「二葉ちゃん、ちょっと貸して」
「あ、はい、どうぞ」
また俺の視界の外では菜箸のやり取りが行われているらしく、今度は矢波先輩へと回ったらしい。
俺の手を離し、腰を浮かせているのが端に写った。
「ほい、灯くん」
また一つ、器にかなりのサイズの椎茸がどんと乗ってくる。…どうして。
矢波先輩にあの…と視線を向けても、にんまりと笑むだけで答えはくれない。
と、俺の目の前を横にいた桜丘先輩の腕が伸びていく。
「やーちゃん、私も」
「ん、いいよ」
「えっと、椎茸…椎茸…あ、あった。はい、灯くん」
ついに器の表面全てが椎茸に埋まり、十字が所々にデザインされた蓋のようなものが目の前に出来上がる。
内、一つは確実に善意なのだが残りの三つは多分きっと悪意による行動で、犯人の顔を見ても、細かな差はあれど、一言に纏めると不気味な笑顔しか返ってこなかった。
一もまさかこの流れに乗るんじゃないかと不安で彼の顔を覗くと、丁度その境で揺れていたようで言葉をぽつぽつ漏らしていた。
「じ、自分もこの流れに乗るべきっすかね…」
「いや…やめて…」
「でも…いや、分かったっす…!」
必死に首を横にブンブン振ると想いが伝わったのか、それじゃあと鍋に戻った菜箸に手を伸ばすことはなかった。
「ありがとう…」
「いや、先輩との仲っすから…!」
男同士の友情は深まったが、それでも器の中には四つのでかい椎茸が綺麗に収まっていて、一度ここに入ってしまった以上、鍋に戻すことは出来ない。
俺が器と向き合って頭を悩ませているのをよそに、矢波先輩は明るい声音で場を仕切り直し、一通り話をすると皆、各々に会話をしながら鍋だったり、他にも用意していた物を食べ始めていく。
冬花ちゃんもいつもの食べるスピードを取り戻して、これなら買ってきた大量の材料が無駄になる事はないだろう。
…椎茸農家さんには申し訳ないと思うが、残すという最終手段を使うしかないと決意し、器の端にこっそり箸で寄せていると、桜丘先輩が俺の顔を不意に覗いてくる。
「残しちゃダメだよ?私とやーちゃんで頑張ったんだから」
「…はい」
先程の冬花ちゃんの件もある手前、簡単に無理ですと断ることは厳しい。
恐る恐る箸で椎茸を掴み、少しだけ口に入れる。
慣れない食感と好みでない味に、顔が勝手にしかめっ面になってしまう。
その後も必死に椎茸を食べ進め、その度に先輩二人は声を励ましの声を掛けてくれたのだが、直接的に助けてくれることは一切としてなかった。
外に出れば夕焼けは闇に呑まれていて、一定の間隔で設置されていた街灯がその中でLEDの白い光を辺りに放つ。
冬花ちゃんの年齢を踏まえて、食べ終えて少し経つと山中達は家に帰る運びとなった。
俺もその流れに乗って家に帰らせてもらおうとしたのだが、矢波先輩達は何やら他に準備かあるからと、何故か見送り係を頼まれてしまった。
それはつまりまだ帰ってはいけないということ。
コートも着ずに真冬の外に出ると暖かい鍋を食べていたとは言え、身体はブルブルと震えてくる。
出る息も真っ白で、暖かそうに何枚も着込んだ山中が心配そうに視線を向けてくる。
「あの…寒いなら別に戻ってもらっても」
「いや…冬花ちゃんもいるから」
「ふぁぁ…」
肝心の冬花ちゃんはもうかなり眠気に瞼を落とされているらしく、山中と手を繋いでいなければそのまま地面にどてっと倒れるかもしれない。
しかし、さっき見た通り、道には街灯がそこそこ付いてはいるのだが、俺たちから少し離れたところでボケーッと桜丘先輩の家を見上げている一と山中だけで家に向かわせるのは少々危険では無いだろうか。
特別この地域が治安が悪いという訳ではないが、だからと言って何も危険が全く無いわけではない。
山中はそこら辺考えているのかどうか、不安に駆られ口が勝手に尋ねてしまう。
「帰り…大丈夫なのか」
「えぇ、冬花ちゃんのご両親に頼んでて…そろそろ迎えに来る時間ですから」
ポケットからスマホを取りだし、それで時間を確認したらしく山中はこくんと頷く。
だからここで止まっていたのかと、納得してほーと吐息が漏れる。
「まぁ、なら良いんだけど」
「先輩と違って私は冬花ちゃんのご両親と仲が良いですので、変に心配しなくても大丈夫です。ご両親と仲が良いですから」
「…そう」
ちゃっかり何回目かの自慢をされ、苦汁を飲んだ顔で返事をした。
と、俺とは真逆に、勝ち誇った笑みを見せていた山中の表情が急に曇る。
「…その、すみませんでした」
「…なにが」
「冬花ちゃんをここに呼んだことです。本当なら、ああなってしまうことも分かってはいたんですけど…どうしても、冬花ちゃんの顔が、いつも暗いのが見てられなくて…」
「……」
隣でふらふらしている冬花ちゃん本人は眠気でこの会話は聞こえていないらしく、自分の名前が出てもこっちを見たりするような動きはない。
ただその表情は良い夢でも見ているかのように少しばかり微笑んでいて、それを俺と同時に見た山中は、握っていた自分の手の力をぎゅっと、些細な事では離れないように強くした。
それは決意の現れだったのか、家から溢れた光が彼女の真剣な瞳をはっきりと照らし出す。
「…本音を言うと私の嫉妬なんです。冬花ちゃんがずっと悩んでいたのに先輩は矢波先輩達とどんどん親しくなっていってる気がして…ズルいな…って。冬花ちゃんの暗かった表情もそうですけど…一番はそっちだったのかもしれないです」
「…悪い」
長々と謝罪の言葉を並べると言い訳染みた物が出来てしまいそうで、そんな短い一言しか口に出せなかった。
…謝罪の言葉よりも俺には彼女に言わなければならない言葉があるのではないだろうか。
矢波先輩達のお陰がほとんどではあるが冬花ちゃんとの関係は多分、これで新しくなったのだ。
なら。
「まぁ…なに…その…あ、ありがとう」
「…なんですか、急に」
「いや…冬花ちゃんと話せたのは山中のお陰だし…その、なに」
俺が言葉を詰まらせたのが面白かったのか、山中は口に使っていない手を当てふふと静かに口の端を緩める。
「その言葉、もっと先に言う人がいるんじゃないですか?」
「…まぁ」
「ですが、一応、そのお礼は受け取らせてもらいます。…て、来たみたいですね」
山中が俺の後ろに視線を運ぶのに釣られて俺もそっちに身体を向ければ、一台の車がヘッドライトで道を照らしながらこっちへと向かってくる。それは山中にとって見慣れた車らしい。
俺の脇から彼女と瞼を擦る冬花ちゃんが抜けていく。
「それじゃあ、先輩」
「…あぁ」
「二葉ー!あれっすかー?」
「えぇ。…というか、そんな大きな声出さないでください…辺りに迷惑ですから」
冬花ちゃんの両親が乗った車が矢波先輩の家の玄関に被らないよう僅かに離れた場所で止まり、三人はそこへと並んで歩いていく。
明かりの付いた車内には冬花ちゃんと似たような雰囲気の両親が前の席に座っていて、会釈だけで挨拶を交わす。
一が最初に乗り込み、二番目に冬花ちゃんが真ん中の席に座る。その直後、残り続けていた眠気に負けてしまったのか、山中が乗り込んで車の扉を閉めると同時に、彼女は山中の肩に自分の頭をこてんと預けた。
すると山中が腹立つぐらいにしたり顔をしてきて、苦い顔だけで文句を伝えていると、車のタイヤが回り、来たときとは反対の方向へ、ヘッドライトで道をまた照らして走っていく。
車が背中を見せたときに一が手を振っていたのが見え、それに控えめに手を上げて応えた。
少し走ると車は右折し、車が放っていたライトの明かりも徐々に薄らぎ、しばらくすればそれは完全に見えなくなった。
俺が退部して山中が入部した。
それがあの部活にとって一人減って一人増えたで片付く話ではないことを、俺は知っているつもりではいたが、深く理解することは無意識に拒んでいたのかもしれない。
城戸さんや新崎の振る舞いで、自分の都合の良いように解釈してそれで終わりと決着を急いでいたのだ。
自ら作った本当の後悔に、気づき、呑まれないたくないがために。
…見送りをきっちり終え、芯まで冷えた身体を寒い寒い言いながら震わし、矢波先輩の家の玄関を開ける。
リビングまで早足で向かって戸を開けると、流れてくる暖かい空気にふぅと身体で冷やされた吐息が漏れる。
見送りに来なかった二人を辺りを探してみれば、炬燵に身体をすっぽり入れた姿が目に飛び込んでくる。
矢波先輩がぐでーっと炬燵のテーブルに腕を投げ出していて、桜丘先輩は炬燵の掛け布団とは違う生地の、ブランケットよりも小さい何かを胸に抱いていた。
「灯くん、お帰り。見送りご苦労さまー」
先輩達の元まで向かい、腰を下ろして炬燵の暖かさで冷えた自分の身体を溶かしていく。
「…先輩達、なんで来なかったんですか」
「それは、えっと…あ、これ、まだ見ちゃダメだから」
理由には桜丘先輩が抱くそれが関係しているんじゃないかと見ると、慌てた様子で桜丘先輩はそれを自分の服の内側にバサッと覆い隠してしまう。
流石に時節柄、下に何枚も着ているから素肌や肌着は見えなかったが、それでも反応と目のやり場に困る行動で逃げるように矢波先輩に視線を移した。
「…僕たち、多分冬花ちゃんから嫌われちゃってるかもしれないから」
「それは…すみません」
「子供好きなんだけどなー…」
炬燵に乗せていた矢波先輩の頬が、ぷくーっと熱した餅みたく膨らんでいく。
「本当にすみません…」
「…それに灯くん、冬花ちゃんのこと…す、好きって。ね、やーちゃん」
「そ。それが今いちばんの問題」
「いや…別にそんな掘り返すような話じゃ…」
正しく言うのであれば掘り返して欲しくないだけなのだが、先輩二人は俺の嫌がるような振るまいに表情をむっとさせる。
「春的に見て、あの感じって本心あった?」
「いや、あの…」
「あった。うん、絶対に」
「ふーん…僕たちとのただならぬ関係は嘘だったって訳なのか灯くん」
「結局…ただならぬ関係ってなんですか…」
話題を逸らすためにも前々から気になっていたことを矢波先輩に投げ掛ける。
「逃げたね…。…だって、先輩後輩とか友達とか、そういう簡単に済むような関係じゃないでしょ?僕たち」
「そう…なん、ですかね」
じとりと疑惑の目を向けられながらも、なんとか相槌を打つ。
「じゃあ、僕たちと灯くんの関係ってなに?」
「あー…」
言う通り、確かに友人や先輩後輩で済むかと言われればなんか色々あった以上、変な引っ掛かりは生まれてしまうし、かと言って親友や…なに、そういう親密な類いに安易に入れてしまって良いかと言われると答えに困る。
ただならぬ関係と言うのが妙にしっくり当てはまる気がして、それが顔にも表れてしまう。
「ね?これが一番合ってるでしょ?」
「…まぁ」
自分で一方的に他人との関係を決めるのはあまり気分の良いものではないが、矢波先輩が一部を否定してくれたお陰で、飲み込める所も見つけられてしまう。
「そんな関係を持った先輩二人がいるのに君って子は…うー…僕はとっても不満です」
「私も、少し寂しかった…かな」
口を尖らせて言葉だけでなく表情で表す矢波先輩と、困ったような笑顔で呟く桜丘先輩。
その板挟みに苦しくなり、どうすればと頭を捻る。
冬花ちゃんの時は馬鹿みたいに言葉が出てきたのに、こういう時になると全く出てこないのだから役立たずで困る。
だが、それでもなんとか考えに考えて、一つの案が思い付く。
しかし、それはかなり諸刃の剣と言うか何というか、事によっては俺の身がどうにかなりかねない案。
でも、使わないと改善されない状況なのは確かで、だから息をぐっと飲み込んで、しっかりとした言葉に変えた。
「その…」
「……」
二人の視線が声を出した俺に集まる。
「あ…その、色々あるんだったら聞きますけど」
「…どういうこと?」
しっかりとした言葉に変えた筈だったのに、矢波先輩が首をかしげ分からないと伝えてくる。
もどかしさで表情を苦くしながら、もう一度頭で並べた文字を再考して、今度こそと口から吐き出す。
「いや…なんか頼み事とかあるんでしたら…」
「…あ、もしかしてお願いを聞いてくれるってことかな?」
「まぁ、はい…お礼も兼ねて」
「…良いの?僕だよ?」
矢波先輩自身も自分の傍若無人には気付いていたらしいが、それも承知の上でと俺は深く頷く。
今まで、先輩達二人、というか大半、というか全て矢波先輩に無理矢理付き合わされて来ていたが、必ずその中には常識という限度が設定されているはずで、UFOを呼べとか非常識的な無理難題を頼まれた記憶はない。
だが、俺が言ったことはつまるところその限度を外すというもので、そもそも俺がそこまで必要とされているかは分からないが、とにかく人体改造だろうがなんだろうが言われれば聞くと言う事。
矢波先輩相手に言うのは酷く恐ろしいものだが、頭が出した最善の結論がそれな以上、そうなってしまう。
聞いた二人は顔を見合わせ、なにか視線上でやり取りをしていたのか、口が開いたのは少し遅れてからだった。
「あの灯くんが…大体なんでも嫌がる灯くんが…」
「や、やーちゃん…どうするの?」
「春、ちょ、ちょっと来て」
炬燵から勢い早く先輩達は離れると、少し遠くのリビングの戸の傍でしゃがみこそこそ密談を始め出す。
その時立ち上がった瞬間にお腹に収納していた例の布が落ちそうになっていたが、上手いこと桜丘先輩は拾い、またそこに入れ直して今度は手でがっちり支えた。
何が頼まれるか恐怖は変わらず胸の内で暴れるが、口に出した以上やっぱり無しと取り消す事は不可能。
そわそわしながら待っていると、二人の密談は頷きを最後にして終わり、とたとた早足で帰ってくる。
そして、炬燵に揃って入ると矢波先輩がおほんと咳払いをして話を切り出した。
「…その、少し時間が欲しいから、お皿洗いでもしない?」
矢波先輩が俺の後ろを指差し、その方向には整えられた綺麗なキッチンがある。
山中の見送りや先輩達の準備が優先され、鍋やお皿は水に浸すだけで完璧にはまだ終わらせていなかった。
「私とやーちゃんのお願いはその時に考えておくから、ね?」
「わ、分かりました…」
先輩達に続いて炬燵から立ち上がり、俺もキッチン目指して二人に付いていく。
自分で言ったことが妙な雰囲気を作り上げてしまい、二人の顔を交互に覗いてしまうが、当たり前ながらお願いが貼ってあるわけでもなく何の情報も得られない。
…この皿洗いを一人でやるとか、そういう小間使いみたいなので解決すれば良かったんじゃないだろうか。
ふと、そんな無難な考えが湧いてきて、酷い後悔に襲われる。
その後もほぼ会話という会話もなく、皿を洗うのに専念しようとしても、なんでも言うことを聞くよりも簡単に済みそうな案がぽろぽろ出てきて、本当にこの真逆にしか働かない頭が怨めしく憎たらしく思えてくる。
不安に心を揺らされながらもなんとかお皿洗いを終え、また三人で炬燵へと戻る。
桜丘先輩が暖かい緑茶を淹れてくれて、それで心を落ち着かせようと貰ってすぐ飲んでみたが、思った以上に冷めておらず、舌を静かに火傷する。
舌は痛いし心は不安だしで酷い有り様でいると、また密談を交わしていた二人がさながら三者面談のように俺の真正面の所に揃って移動して、ぽふっと腰を下ろした。
「灯くん、決まりました」
矢波先輩の真剣な声に続き、同じく真剣な表情の桜丘先輩がこくっと首を下げる。
「そ…そうですか。…それで」
固い場の空気に居住まいを正され、最後の言葉を放つ前に、目の前に置いていたお茶の入ったカップをそっと横に退けた。
俺が促すと、二人は覚悟を決めたのか顔を見合わせて、それじゃあとこっちに動かした顔を戻す。
その動作の間は俺にとっての覚悟の時間であり、緊張を連れてきた息をふーっと外に吐いた。
「…僕たちの、名前を呼んでほしい…な…って」
「永遠に…とかですか」
「ううん。一回でもいいんだけど…どう?」
「ま、まぁ…それでしたらなんとか…はい」
「…そ、それじゃあ私から」
桜丘先輩がそっと恥ずかしそうに手を上げ、名前を呼ぶ順番が決まる。
…大丈夫。
名前ぐらいならば勇気を振り絞り、覚悟を飲み込み、緊張を解けばきっと言える。
いや、多分普通ならばそんな事しなくてもすんなり言える人がほとんどなのだろうが、何でも聞くと言うことにこれをお願いしてきたということは、それはつまりそこまで俺が用無しなのか、もしくはそんなことを言わなければならないぐらい俺が面倒くさい人間と理解しているかのどっちかである。
桜丘先輩の名前を前もって頭で確認して、たった二文字に妙な時間を取らせてもらう。
「は…春…先輩…」
視線を逸らし口ごもるようにして言ってしまったが、視界の端に写る先輩は満足そうに胸の前で手をそっと合わせ微笑んでいて、ギシギシしながらもなんとか身体を前に戻した。
「な、なんか、凄い嬉しい…ね。ふふっ」
「…それじゃ、次は僕。お祭りの時にも一回言ったし、そんな難しくはないでしょ?」
「いや…」
その夏祭りからもうだいぶ時間が経ってしまっている。
確かに、一度言ったという事実は微かにでも気を軽くしてくれるが、そもそもがかなりの重量な分、あまり体感としては変わらない。
だが結局は言わないとダメで、桜丘先輩の時と同じく頭で名前を確認して、それを視線を定められないまま声に変換した。
「あー…。か、芽野…先輩」
問題が無かったか矢波先輩を見ると、俺みたく視線をわずかに逸らして、うっすら赤い気のする頬を人差し指で撫でていた。
「…な、なんか、あの時とは違う感じかする」
「ふふっ、やーちゃんほっぺ赤いよ?照れてるなんて珍しいね」
「う…いーの気にしなくて!」
微笑んでいた桜丘先輩が矢波先輩の顔を覗こうとするが、ぷいっと反対に逃げられてしまう。
「…あの、それで」
言うと、矢波先輩がハッとして俺の方に向き直る。
「え、あ、うん。よ、よし灯くんを…許してあげます」
「本当に…一回で良いんですか」
何というか、これで終わっていいのか不安に近い感情が胸に不意に現れ、勝手に口がそれを尋ねてしまう。
すると桜丘先輩がえっとね、と口を開けた。
「実を言うとね、ずっと呼んでほしいって言うのも考えてたんだけど…やーちゃんが」
俺を捉えていた視線を隣に下ろすと、そこに体育座りでいた矢波先輩の口がつんと尖る。
「…なんか、そういうのでずっと呼んでもらうのより、君からでずっと呼んでくれた方が…嬉しいんだもん」
「…って。でも、せめて一回だけはってお願いさせてもらったの」
「そう…ですか」
何故かその事が異常に恥ずかしく感じられ、また視線をあちこち彷徨かせていると、壁に掛けてあった時計の時刻が目に入ってくる。
8時までそう遠くはなく、この辺りだと補導の対象になってしまうかもしれない時刻。
俺が時計を見ていることに桜丘先輩も気付いたらしく、同じ場所を見て「あ」と口に手を当て、声を漏らした。
「そろそろ帰らないと危ないかな?」
「まぁ…多分」
「なら、僕の親に頼んで車で送ってもら…って、あー、そうだ…ダメだったんだ」
話ながら先輩の目が呆れたような、じとっとしたものに変わっていく。
「歩いて帰りますけど…なんか、あったんですか?」
「いや…今、春の家で春の親と一緒に晩酌中だと思うから…はぁ…クリスマスの時もしてたのにまたこっちのにかこつけて…ごめん」
「あ…そうだったね」
「…大丈夫です」
言って、炬燵から立ち上がり持ってきていた荷物やコートを手早く拾い、気持ち早めに身に纏っていく。
そんなに多くは持ってきていないため早々に準備は済み、玄関へと忘れ物がないか鞄の中身をチェックしながら歩いていく。
「灯くん、ストップ」
全て揃っていることを確認して、手袋を嵌め、靴に足を通し、相変わらず首を晒しっぱなしのまま、後は玄関の扉を開けるだけのところで矢波先輩にふと呼び止められた。
振り向けば、呼び止めた矢波先輩と、お腹を布っぽいなにかで少しこんもりさせた桜丘先輩がいて、表情で理由を聞く。
それに口を開いたのは桜丘先輩。
「灯くんにね、プレゼントがあるの」
「…はあ」
「えっと、これなんだけど」
服の内側に納めていたあの布を服を少し捲って取り出し、手で広げその正体を見せてくれた。
黒を混ぜたような濃い青を基調とした落ち着いたデザインで、そこそこの細長さと厚み。
パッと見て、俺の脳内に当てはまる物がひとつ。
「マフラー…ですか?」
「そ、せーかい」
「これを…」
「うん、貰ってくれるかな?」
広げたマフラーをまた綺麗に折り畳み、抱くと、どうかなと桜丘先輩は首を傾ける。
まぁ、未だマフラーを買い損ねていた身としてはとても嬉しく、頂けるのであれば頂きたいのだが、経緯が分からない。俺の為にわざわざ受験勉強の時間を割いてくれたのだろうか。しかし手編みっぽい以上、そこそこの労力と時間が掛かっているように見えるが、しているような素振りを定期的に訪れていたのに俺は一度として見たことがない。
「あー…やっぱり、出所気になっちゃう?」
一体何処から…とマフラーをまじまし見てしまっていると、矢波先輩が少し戸惑った笑みを浮かべる。
何も知らずにこんな丁寧な出来のものを受け取るわけにもいかず、それに深く頷いた。
「これ、元々は春が去年の父の日用に作ってた奴だったんだけど…」
視線を矢波先輩は桜丘先輩に向け、続きの話を渡す。
「…お母さんと見事に被っちゃって。今思えばとりあえず出来てたんだから渡しておけば良かったんだけど…結局奥にしまっちゃって…そんな感じです」
「…前に終業式で話してたのも」
「そ、これ。灯くんがマフラーをなくして寒がってるとこにこの春のマフラー、ちょっと運命みたいじゃない?はー、忘れてないで良かった」
…確かに俺ぐらいにはマフラーとの運命の出会いが丁度良いものなのかもしれない。
それならと了解して頷き、受け取る意思を伝えると桜丘先輩が距離を詰めてきてふわりと首にマフラーを巻いていく。
服の内側に入れていた事に加え抱きしめていたからか触れる毛糸が体温で暖かく、ほんのり先輩の甘い香りも残っていて、口を完璧に覆い、鼻を少し塞ぐぐらいの所で巻かれると気恥ずかしくなってきてしまう。
慌てて顔を上に向け口と鼻を逃がすが、桜丘先輩はほんわか笑むと「寒いでしょ?」と口まで親切でまた覆い直してくる。
綺麗に巻き終えると先輩は数歩下がり、矢波先輩と並んでぱちぱち拍手しながら揃っておーと声を上げた。
「似合ってるー」
「だね。ふふ、良かった」
晒しっぱなしで室内でさえ冷えかけていた首が徐々に暖まっていくのを実感できる。
「その…あ、ありがとうございます…春…先輩と、か、芽野先輩…」
「うん、なら…え?」
「灯くん…今…」
俺が放った言葉が聞き間違えだったのかと、先輩二人はぽかんとして一緒に首をかしげる。
多分、俺は無意識と恥ずかしさとそれに類する照れのような感情に阻まれ、自分から関係を深められずにいた。
あの時、俺が部活を辞め先輩たちと話したときに一歩は踏み出せていたのだろうが、本当に一歩だけだったのだろう。
…だから、もう一歩だけ進んでしまいたくなった。
名前で呼ぶ事がさして関係に影響を及ぼさなかったとしても、それでも、その道の始めに立つぐらいの意味はあるはずと信じている。というか、じゃないと困る。本当に。
「あの…その…」
色々な感情を押し殺して閉じ込めてかき消して精一杯で言ったのに、相変わらず先輩二人の反応は首をかしげたまま固まっていて、俺の視線がおぞましい勢いで右往左往してしまう。
背中にじんわり汗が滲み、なのに身体は寒さの渦中にいるかのように震えてしまう。
「…灯くん」
「な、なんでしょうか…」
「もう一回」
「…む、無理です」
「わ、私からも、もう一回だけお願いできない?」
良い方向に流れてはくれたのか、表情を柔くした二人が距離を詰め俺の手をぎゅっと握るが、流石にもうそこまでの勇気は消え、無理です…と何回も首を横に必死にぶるぶる振る。
「もー…灯くん、不意打ちなんてズルいぞー」
「そうだよね、やーちゃん。私もちょっと聞き逃しちゃったなぁ…」
同意見の矢波先輩と桜丘先輩はお互いの顔をねーと見合わせる。
「…あの、そろそろ」
短い言葉で手を離してもらおうとするが、全然離れる感じはせず、むしろ若干強くなっていっているような気さえする。
「む、逃げるつもりか。春」
「うん。…もう一回呼んでくれないと、手は離してあげません」
「ほ、本当に…無理です…」
懇願するが、矢波先輩はいじらしく小悪魔のようににやりと口の端を上げる。
「それじゃ、今日は僕の家に泊まってくしかないね。んふふー♪着替えならお父さんのがあるし、問題ないよ?」
「あ、なら私も今日はやーちゃんの部屋で寝ちゃおっかな」
「ん、いいよー」
捕まえられた手をグイグイ引っ張っても、上手いことトカゲの尻尾みたく手袋だけを犠牲にしようと少しずつずらしても、手をしっかりと掴まれ逃げ道を失う。
このままそのままでいくと本当に泊まりかねない気配がして、心拍を犠牲になんとか勇気を作り出した。
「は、春、先輩…と、芽…野…先輩…」
震えた声で、何度も躓きながらそれでも言い切ると、二人は嬉しそうに暖かい笑みを滲ませ、掴んでいた俺の手をぱっと離した。
「あーあ、もう少しでお泊まりできたのに」
「やーちゃん、本気で言ってなかったでしょ?」
「まーね。…半分ぐらいはあったけど」
「…あの、それじゃあ俺そろそろ…」
また手を掴まれないよう少し距離を取って、玄関に手を掛ける。
「ん、あ、もしかしたら年明け前にも一回呼ぶかもだけど…良い?」
「…まぁ多分、大丈夫だと思います」
「ん、ありがと」
「それじゃあね、灯くん」
「じゃあねー」
二人がふりふり手を振り、それを背中にして玄関の冷えた扉を開けた。
暖まり過ぎた体温と背中に残る汗は外の冷たい風を浴びると一瞬で冷まされ、余計体温が奪われていく。
山中の時と比べ空の暗さはそんなに変わっておらず、つまり夜の時間はそこそこ前から訪れていたらしい。
もう自分の家まで一々スマホのマップを開く必要なく、最短ルートは頭が勝手に導き出してくれる。
ルートが指した方向に足を向け、貰ったばかりのマフラーに顔をぼふっと埋めると、冷めない温もりに溺れてしまいそうなぐらい深く包み込まれた。




