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あの夏、僕は病室を抜け出した君と歩いた  作者: よっぴぃ
第1章 行橋の夏

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2/15

1.何気ない日常

夏休みに入って、何日かが過ぎていた。


朝から蝉の声が聞こえている。


窓の外から、じりじりとした夏の日差しが部屋の中まで入り込んでいた。


浅井湊(あさいみなと)、十歳。


少し伸びた坊主頭に、色白の肌。

細い顔立ちで、どこかつんとした表情をしている。

少し無愛想に見えるが、ただ人付き合いが苦手なだけだった。


けれど、今の湊にそんなことを気にする様子はなかった。


ソファに寝転がり、手にはスマートフォン。


画面の中では、小さなキャラクターがモンスターに突進している。


湊は片手でスマートフォンを持ち、もう片方の指で画面を操作していた。


その横には、夏休みの宿題の日記が開いたまま置かれている。


『朝、起きてゲームした。』


内容はいつも同じだ。


今日もそう書くつもりだった。


夏休みに入ってから、変わらない毎日。


外で遊ぶこともない。


遊ぶ友達もいない。


暑い日にわざわざ外へ出る理由なんて、湊には思いつかなかった。


湊と母は二人で暮らしていた。


父と母が離婚したのは二年前のことだった。


それ以来、湊にとっては母と二人で過ごす毎日が当たり前になっていた。


台所から食器の触れ合う音が聞こえてくる。


母が朝の片付けをしているのだろう。


四十半ばで、目尻の少し下がった柔らかな目元をしており、肩まで伸びた髪を後ろでまとめている。


母は腕まくりをして、テキパキと家事をこなしていた。


しばらくすると、玄関のほうから声がした。


「ちょっと買い物行ってくるね」


「うん」


湊はスマートフォンを見たまま返事をした。


「すぐ帰るから」


「わかった」


母が出ていく。


それからまた、蝉の声とゲームの音だけが聞こえた。


「喉乾いたな……」


湊はスマートフォンを持ったまま立ち上がり、冷蔵庫の扉を開いた。


きれいに整理された冷蔵庫からは、母の几帳面さがうかがえる。


二本並んだラムネにちらっと視線をやったが、湊は麦茶のほうを取り出した。


しばらくして、玄関の扉が開いた。


「ただいま」


買い物袋を片手に母が帰ってきた。


「暑いねえ」


そう言いながら、買い物袋を台所へ運ぶ。


袋から食材を一つずつ取り出して、冷蔵庫へしまっていく。


野菜。


牛乳。


卵。


そして、湊の好物であるプリン。


母は冷蔵庫を整理しながら、湊のほうを振り返った。


「湊」


「ん?」


「たまには外で遊んだら?」


「暑いからいい」


湊はスマートフォンを見たまま答えた。


「でも、朝からずっとゲームしてるじゃない」


「だって、面白いし」


「ゲームばかりじゃ身体もなまるよ。少し外に出て、歩くだけでもいいんだから」


「暑いじゃん」


「まあ、暑いけどね」


母は苦笑いしながら、冷蔵庫を閉めた。


家事が一段落したので、コーヒーを一杯作り、ノートパソコンを手に取った。


普段から在宅で仕事をしている母は、湊が座っているソファの前にある小さなテーブルで仕事を始めた。


しばらくして、何かを思い出したように顔を上げる。


「あ、そうだ」


「なに?」


「今度おばあちゃんの家に遊び行こうか」


湊の指が一瞬だけ止まった。


「おばあちゃん?」


「うん。湊に会いたいって」


「いや、いい」


湊はまた画面に目を戻した。


祖父母とは、もう何年も会っていなかった。

住んでいる県も違い、家もかなり遠い。

会いに行くとなると、それだけで時間がかかる。

湊にとって、わざわざ遠くまで行くのは少し面倒に思えた。


母は少しだけ湊を見た。


けれど、無理に誘うことはしなかった。


「そっか」


そのときだった。


テーブルの上に置いてあった電話が鳴った。


突然の音に、湊が一瞬だけ顔を上げる。


母が電話に出た。


「もしもし」


誰なのか、湊には分からない。


「えっ……」


そう言って母は立ち上がり、湊から離れた場所で電話を続けた。


「そんな……」


さっきまでの穏やかな声とは少し違っていた。


「なんで……」


湊はゲームを続けながらも、なんとなく母のほうを気にしていた。


母の表情が少しずつ変わっていく。


何を話しているのかまでは聞こえない。


ただ、楽しい話ではない。


それだけは湊にも分かった。


しばらくして、母は小さく息を吐いた。


「……わかった。内緒にしちょくよ」


そう言って電話を切った母は、その場に立ったまま考え込んでいた。


湊にはさっぱり分からなかった。


母は湊を見た。


少しだけ間を置いてから言った。


「湊」


「なに?」


「明日から、行橋に行くよ」


ゲームの音だけが部屋の中に響いていた。

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