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病気と上手につきあうために


少し考えるような表情をした後、碧くんは再び話し始めた。


「……うん、これははっきり言っておくね。

この病気は完治というより寛解すると考えた方がいいと思う」

「かん・かい?」

「そう、寛解。

症状が治まっておだやかな状態が続いているという状態で、病気の芽がなくなってしまった状態じゃないということだね」


「治らないの?」

「何を治ったか、治らないかとするのかにもなるけれど…メニエル病って聞いたことある?

そもそもメニエル病って繰り返しかかってはじめてその病名がつけられるんだけれど……。彩李ちゃんの低音障害型感音難聴って繰り返して起こると蝸牛型メニエル病と言われるんだ。

もちろん繰り返さないで今回限りという可能性もあるんだよ。

ただ……彩李ちゃんは一般的な人よりも耳を使っていて、仕事に直結しているよね。だから、繰り返す可能性もあるということをわかっていた方がいいんじゃないかと思うんだ。

今後仕事を続けていくためにも、ね」


「仕事、続けられる?」

「このまま治療を進めていくと、治ったと思える状態になるから仕事はできるよ。

だけど、頻繁に繰り返してしまうと仕事に影響が出るでしょう。

だから繰り返すものだと思って、少し調子がおかしいかも?と思ったら、早めに対処して症状が出ないようにする方がいいと思うんだよね。

睡眠時間を確保するとか、スケジュールに余裕を持たせるとかして、無理をしすぎない生活を心がけるようにする。

もちろん、これで絶対に出ないとは言えないんだけど。

でも、気を付けることで病気と上手に付き合っていけるし、仕事も自分のやりたいことも諦める必要はないと僕は思ってるよ」


病気と上手に付き合っていく…

完治はしないと聞いて少なからず動揺していた私だったが、繰り返す可能性があるのなら、そう考えていくしかないのだろう。


「病気と上手に付き合っていく…」


私は噛みしめるようにその言葉をつぶやく。

私が不安に思っているのを感じ取ったのか、母が両手で私の手を包むように握ってくれた。


「大丈夫よ、彩李。ひとりで病気に向き合うことないのよ。

私もお父さんも、おばあ様もついているわ。

命にかかわるような病気ではなかったのだから、有難いと思わないと。

病気と上手に付き合っていければ、仕事だってできるって先生仰ってるじゃない。

先生がついていて下さるのだから、きっと大丈夫よ。

諦めることなんて何もないのよ」


暖かい母の手と言葉に胸が熱くなる。


「そうだよ。

この病気が一過性であれば、それはそれで良かったという結果になるし、そうで無かった場合は、主治医となる僕とも長い付き合いになると思う。僕は医者として、これからも彩李ちゃんを支えていきたいと思っているよ。

それに、自分の体をオーバーヒートさせないということは、この病気だけでなくてほかの病気に対しても予防になるでしょ」

「オーバーヒート?」

「そう。彩李ちゃん、最近無理してなかった?」


そう言われれば…

日本に戻ってきて3年。コレペティトアとして多くの演奏者に知ってもらうために、本来の仕事に加えて、学外の伴奏依頼をたくさん引き受けていたから睡眠時間もかなり削っていた。

知名度を上げていくことに加えて、ピアノを弾く仕事が楽しいのもあって多少無理してでも引き受けていたけれど、改めて指摘されて振り返ってみると、詰めすぎていたと自分でも思う。

きっと、それがオーバーヒートを引き起こしたのだろう。


「そうね。大学の仕事以外にも伴奏たくさん引き受けてて……。

無理…してたと思う……」

「そう自分で自覚してもらえると、今後もきっと病気とは上手に付き合っていけるから大丈夫。

彩李ちゃん、高校の時から変わらず本当にピアノが好きなんだね。ぜひ、また聴きたいから、良くなったら聴かせてね。

さて、診断結果とはいえたくさん話しを聞いて疲れたよね。病院だけれど、今日はゆっくり休んでね。

何かあったら遠慮なくナースコールして。僕もまだしばらくは帰らないし。

明日は外来の診察が入っていないから、朝から様子を見に来るね」


そう言って、碧くんは笑顔で手を振りながら部屋を出て行った。




碧くんが病室を出た後、握っていた手を離した母がホッと息をついた。

母も緊張していたようだ。


「彩李の同級生なんですってね」

「うん。高校の時のね」

「矢那井先生、彩李が眠っている間に何度もいらしたのよ。

私が起こそうとすると、疲れているのでしょうからそのままでって仰って」

「そうだったの……悪いことしたわ……」


確かに。もうすぐ夕食の時間と言っていたから、かなり長い時間眠っていたようだ。


「優しそうな先生だし、同級生ってこともあるんでしょうけれど、とても親身になって心配して下さっていることも伝わってきたし。

彩李の仕事のことまで……いい先生に出会えて良かったわね」

「……うん」


高校の時の気まずい出来事が頭の中を過ぎるが、碧くんが担当医になったことに関しては、今日一日のやり取りを思い出しても心強い印象しかない。


「ねえ、彩李。矢那井先生って、ただの同級生だっただけ?」


私の心を見透かしたような母の問いに驚く。


「え?そうだけど?」

「そうよね。彩李には優輝くんがいたものね……」


努めて冷静さを装ったが、母はどう受け止めただろう。

しばらく考えるような素振りを見せていた母だったが、それ以上の追及は無かった。


「ドイツ行きは…」

「駄目に決まってるでしょ!」


念のために口にしてみたが、やはりドイツに行くのは諦めた方がよさそうだ。

チケットのキャンセルをしてレオンにも連絡いれなければいけない。





夕食の後、碧くんが言った「不味い薬」を飲んだ。

「100人中100人が不味いと感じると思う」は本当だと思う。口の中にまとわりついて残っている薬を、もらったプリンで流し込んだ。


娘が薬を飲んで苦しむ姿に「良薬口に苦しって本当なのね」と母は笑顔だった。

仕事が終わった父が病院に来た後、母は「もう小さな子どもじゃないんだから、付き添いはなくて大丈夫よね。明日は迎えに来るわね。それから、薬の口直しのためにチョコレート買っておくわ!」と言って父と一緒に帰って行った。


母が帰ってしまうと、ひとりになった病室は閑散としていた。

私が入った病室はふたり部屋だけれど、もうひとつのベットは空いている。

耳がこんな状態だから、病室の人の会話やテレビの音などが辛いだろうと配慮してもらったようだった。

そのため、部屋の中は何も音がしない。

普段は聞きたくなくても聞こえてくる冷蔵庫の運転音も、耳の調子が悪いせいだろう。全く聞こえてこない。病室の外の音も、分厚いカーテンを通しているかのようにぼんやりとしている。


何も聞こえないと不安になるのね…

いつもは煩わしものでしかなかった生活音すら聞こえない状態が不安を掻き立てる。


夕食後、騒がしかった病室の外もすっかり静まり返って、音がない世界に来たかのように感じる。

昼間よく寝たからだろう、すっかり目が冴えてしまった私は、気を紛らわせるために雑誌を借りてきたのだが、目で追っているだけ。

さっきから気づけば頭の中ではピアノ曲『月の光』が流れている。


碧くん…に会ったからよね。それに…「また聴きたい」と言ってた……

知らず知らずのうちにため息が漏れていた。


あれから12年。

高校の時のことを引きずっているのは、私だけなのだろうと思う。

碧くんは高校の同級生として、わだかまりなく普通に接してくれた。

高校3年生の時あんなに避けていたというのに、今日の碧くんは親切すぎるくらいだった。


碧くんが弾いていた『月の光』が頭の中に流れてくる。

あの時のことを思い出すと、今でも惨めな気持ちになる自分がいる。


あの時、彼が『月の光』を弾き出したとたん、一瞬にして凍ってしまった心臓が、曲が進むにつれてドクンドクンとうるさいくらいに波打ち、苦しくなった。


あの頃、私は自分を見失っていて、ただ楽譜に書いてある音を弾いているだけの状態になっていた。

ただ音を並べているだけの面白くない演奏。

まるで、お人形さんのような心のない演奏。

楽器を演奏するものとして一番大切な、自分がこの曲をどう弾きたいのかということを考えることができなかった。


そんな時に聴いたのが彼ののピアノ。

初めて碧くんの弾くピアノを聴いたけれど、あの時彼は自分が求める音楽を奏でていた。

一番大切なことを碧くんはわかっていて、それでいて楽しそうに弾いていた。


自分の足りなさ加減を見せつけられたように感じてしまい、自分がみじめで……

彼の演奏の素晴らしさよりも、自分のことにしか目を向けられなかった私。

今思い返しても、あの頃の自分が嫌いになる。


でも……

あの時のことがあったから、もがき苦しんでいた私は答えを見つけることができたのだと思う。

自分の音楽に魂を吹き込んで、生きている音楽を奏でたいと思えるようになった。

とはいえ、あの頃は自分の気持ちを消化できず、結局卒業まで避け続けてしまうという行動をとってしまって……とても褒められたものではなかったと思う。


「あの頃はごめんなさい」と謝るべき?

それとも「ありがとう」とお礼を言うべき?


そもそも、あの時のことを気にしているのは私だけなのかもしれない。

今日だって同級生としての対応に、碧くんの優しさは伝わってきたが、嫌悪感を感じている素振りは一切なかった。

碧くんが忘れているのだったら、わざわざ昔のことを蒸し返す必要もないはずで……

そう思うものの、私の心はザワザワと音を立てている。


「碧くんは、ただあの曲を弾いただけ…

今さら…あの時のことを話しても……迷惑よね」


気が付くと声に出していた。

相変わらず頭の中には『月の光』が渦まいたままだった。


この作品を見つけて読んでいただいてありがとうございます。

興味惹かれる作品でしたら、評価を頂けると嬉しいです。

よろしくお願いします。

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