これからもパートナーとして
研究室に戻り、笑顔で僕に飲み物を渡してくれたアイリーだったが、『さっきの曲……はじめてレオンと一緒に弾いた曲だったわね…』と、ためらいがちに話始めると表情を硬くした。
『うん。あの時はいい意味で衝撃を受けたよ。
やっぱり僕の耳に狂いはなかったよね。アイリーを見つけ出したあの時の自分を誉めてあげたいよ。さすがだねって』
僕は努めて明るい声で答える。
きっと、彼女はさっきの答えを伝えようとしているのだろう。
答えはもう分かっている。
それに、アイリーがこの場を離れた時間で僕なりに心の整理はつけることができた。
笑顔でアイリーを見つめ、次にくる言葉を待つ。
大丈夫。僕は冷静に聞けるはずだ。
そう身構えていたというのに。
『私もこの曲をレオンと演奏して、一緒に曲を創り上げることがこんなにも楽しいんだって教えてもらったわ。レオンと出会ったから、私は器楽コレペティトアとしての道を選んで、今があるわ。
あの時、レオンが私に声をかけてくれたこと、本当に感謝してるの。
ピアニストとしてレオンと一緒に過ごした時間や、創り上げてきた音楽は私にとってかけがえのないものよ』
ああ……もう充分だよ、アイリー。
僕の心にあたたかいものが広がっていく。
僕との時間をそんな風に思っていてくれたなんて……。
同じ音楽家としてこんなに嬉しいことはないと思った。
だから、続けて言葉を紡ごうとするアイリーをふんわりと抱きしめた。
『アイリー、わかってるよ。大丈夫。言わなくてもわかってるから』
『ごめんなさい……』
謝るアイリーの背中を、できる限りの優しさを込めてポンポンと叩く。
『アイリーの心には、昨日のあいつがいるんだよね』
そう言うと、彩李は驚いたように僕を見た。
『僕が気づいていないとでも? これだからアイリーは……』
僕が気づいていなかったとでも?
ドイツであんなにアイリーを見ていた僕だよ。
アイリーの心は手に入らなかったけれど……
『ねえ、アイリー。
これからも、ピアニストとしては僕のパートナーでいてくれるよね』
あいつは嫌がるかもしれないけれど、そのくらいは許してほしい。
『レオン……私でいいの?』
『もちろん。アイリーとだったら僕にとって一番の音楽が創れる。
でも、よかった……これまで断られたら、どうしようかと思ったよ。
あいつは嫌がるかもしれないけれどさ』
『あいつ……?』
『うん。昨日会ったあいつ』
アイリーは戸惑うように僕を見ている。
僕はピアニストとしてのアイリーまで手放すつもりはない。
あいつが知ったら反対するかもしれないけれど、あいつはアイリーの心を手に入れられるんだから、このくらい我慢してもらおう。
もし逆の立場だったら僕は嫌だし、絶対に反対するけれど……今ここにあいつはいない。
『もちろん!というか、あいつは嫌がるかもしれないけれど、それだけは絶対に譲れない!本当は日本以外でもアイリーにお願いしたいけれど……。
でも、あいつが嫌がるだろ……。だから、それは……我慢する…けど……』
最後は少し後ろめたさもあって、言い淀んでしまった。
僕たちは目を合わせて、どちらからともなく笑い出した。
『これからも、レオンと一緒に音楽を創れることが嬉しいわ』
『断られるかと思ったから、僕も嬉しい。まあ断られても、これだけは頷いてもらうまで何度でも言うつもりだったけれどね』
『それに……あいつって碧くんのことかしら?
私と碧くんは、ただの同級生で私の主治医ってだけよ』
『え? だって、あいつ……』
アイリーの表情が少しだけ曇ったけれど、振り払うかのように明るい笑顔を向けて僕の言葉は遮られた。
『レオン、これからもよろしくね。
じゃあ、さっきのサン=サーンスを合わせる?』
腑に落ちない気持ちを抱えつつも、これからもアイリーとの関係が続くことへの喜びの方が大きかった僕は『うん』と返事をして楽器を構えた。
☆…♩♪♩. ♩♪|♪♪♪♩. …☆
僕は仕事を終えると、急いで彩李ちゃんの勤める大学へと向かった。
今日は午後からここでレオンハルトさんと合わせると聞いていた。
彩李ちゃんがまだ帰っていないことを願うしかない。
大学の敷地に入り、学生に研究室の場所を尋ねる。
教えられた建物に入ったところで「矢那井さん?」と声をかけられた。
「伶さん……。彩李ちゃんは? もう帰ったか知っていますか?」
「矢那井さん、もう彩李から聞いたの?
でも、さっきのことだし……そんなはずは………」
「え…?」
もしかして、伶さんは今日の病院でのことを彩李ちゃんから聞いたのだろうか?
「さっきのことって……?
伶さん、彩李ちゃんから何か聞いて知っているんですか?」
「知っているというか……。聞いたけれど……」
やけに伶さんの歯切れが悪い。
「伶さん、誤解なんです!
彼女が話したことは真実ではない。僕は、ずっと彩李ちゃんのことが!」
「ちょ、ちょ、ちょっとまって!!
ええ、それは知ってる! あなたが彩李のことを好きだって」
「え? じゃあ……?」
どうやら、お互いの話が噛み合っていないようね、と苦笑する伶さんを前に僕は力が抜けていくのを感じた。
「でも矢那井さん、いいタイミングよ。これから先は私から話すことはできないけれど。ちょうど、彩李の研究室に行くところだったの。一緒に行きましょう」
含みのある言い方が気になるが、彩李ちゃんと会えるとわかって僕はようやく落ち着きを取り戻した。
「今日は一緒に食事をする約束をしていたの」という伶さんに案内され、彩李ちゃんの研究室へと向かう。
レオンハルトさんもまだ一緒にいるのだろうか……
『彩李、レオン、そろそろ時間よ。
レオン申し訳ないけれど、彩李にお客様。私と先に行って待ってましょう』
「お客様?」
伶さんが、ノックして開けたドアから覗き込んで声をかける。
彩李ちゃんの声が聞こえてきて、僕は緊張が高まるのを感じた。
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