気づいた恋心
『レオン……私………』
何か言わなければと口を開いた私の頬に、レオンが手を添えた。
親指でゆっくり目元をなぞられた時、私は自分が涙を流していることに気づいた。
『愛しているよ、アイリー。
でも、のども乾いちゃったね。僕、冷たい飲み物がいいな』
額に優しく口づけられた後、レオンは笑顔で飲み物をねだって、私を研究室から出したけれど……私は彼の瞳が潤んでいるのに気づいてしまった。
夏休みに入り、学生たちの気配のない教官棟はひっそりと静まりかえっていて、渡り廊下でつながっている学生たちの練習棟から楽器の音が聴こえてくる。
飲み物を買いに出たはずだったのに、気づけば私の足は伶の研究室へと向かっていた。
「はい。どうぞ……え?彩李!? ちょっと、どうしたの?」
伶の研究室をノックして扉を開けた途端、慌てた声が飛んでくる。
よほどひどい顔をしていたらしい。
ソファに座らされ「何か飲む?」と聞かれたけれど、私は首を横に振った。
「今日は、レオンとの合わせだったんでしょ。何があったの?」
「……伶の……」
「私?」
目の前に座っている伶は冷静さを取り戻していて、落ち着いた様子で問い返してきた。
「伶の……言う通りだったわ。
レオンは…私を……。あ、あ……」
「レオンに愛してるって言われたのね」
伶は驚くことなく、私がためらった台詞をあっさりと口にしたのだった。
頷くことしかできない私に、伶の顔が優し気にほころぶ。
「やっぱり彼、今日言ったのね。それで、彩李はどうするの?」
「え……?やっぱり今日って?」
「だって昨日、彼、火花散らしてたじゃない」
「……火花?」
「彩李は気づいていなかったでしょ。
本当に彩李って音楽以外はポンコツよね」
「…ポン…コツ…?」
伶の言い方からすると、今日レオンが私に言うことを予想していた?
わかっていない私に、伶は苦笑しながら問いかけた。
「それよりも、彩李はどうするの?レオンのところに行くの?」
「私……」
言いよどむ私の言葉に、今度は口を挟まない。
じっくり待つつもりのようだ。
「私……レオンは、きっと私のことを大切にしてくれると思ったの。
レオンと一緒にいるのは、とっても心地いいし……
一緒に音楽を創っていくのは本当に楽しいし、尊敬もしている。
きっと、同じように、家庭も作っていけるのかもしれない……
でも……」
「でも?」
「でもね、そう思うのに、私の頭の中に別のことが思い浮かんで……。
別のことというか……、別の……」
自分の気持ちを整理するように、言葉を紡いでいく。
伶は相槌を打ちながら聞いていたが、私が口にするのをためらっていることに気づいて口を開いた。
「矢那井さんのこと?」
「……!」
碧くんのことを言われて、言葉に詰まってしまう。
何も言えなくなって伶を見つめていると、彼女は「ふふふっ」と優しそうに微笑む。
「ようやく気づいたみたいね」
「………」
「レオンにとっては不幸なことだけれど、私は彩李が幸せになるのを望んでいるから……。彩李が自分の気持ちに気づいたのは嬉しいわ」
伶は喜んでいるようだけれど……
今日病院であった出来事を思い出して、胸がズキリと痛むのを感じる。
碧くんの心にはあの人がいる。
だからといって、逃げるようにレオンの手を取るようなことはしたくない。
「……レオンの気持ちには応えることはできないの。
だから、ドイツには……行けない」
「ええ。彩李が自分の気持ちに気づいてしまったのだもの。
前に話したでしょう。恋は落ちるもの。自分じゃどうしようもないわ。
気づいたら、その人に心が捕らわれてしまっているの。
だから苦しいし、それ以上に喜びもあるって」
伶の言葉に頷くしかできなかった。
本当に自分ではどうしようもない。気づいたら碧くんに心が捕らわれていて……
でも、気づいた時には失恋して……私には恋は苦しいだけみたい。
伶の部屋を出て、自動販売機で飲み物を買って研究室に戻ると、中からヴァイオリンの音が聴こえてきた。
「あ…この曲……」
サン=サーンス作曲『序奏とロンド・カプリチオーソ』
はじめてレオンの伴奏をした曲だった。
レオンから声をかけられて伴奏することになって、初合わせの時に緊張して臨んだ曲。
物悲しいはずの冒頭だというのに、レオンのヴァイオリンの音を聴いただけで、これからどんな曲に仕上がるのかワクワクしてきて、緊張なんてあっという間に吹き飛んだんだった。
一緒に創り上げていくことが、こんなに楽しいことなんだって教えてもらった曲。
レオンに出会い、この曲と出会って……
レオンとは本当にたくさんの曲を一緒に演奏してきた。
それは、私にとってかけがえのない時間だったのは間違いない。
曲が終わるのを待って、私はノックしてドアを開けた。
笑顔でレオンと目を合わせる。
『レオン、冷たいもの買って来たわ。どっちがいい?』
『ありがとう、アイリー』
私が炭酸水とジャスミン茶を差し出すと、レオンは炭酸水を手に取った。
レオンはゴクゴクッと喉を鳴らしながら炭酸水を飲むと、『それにしても、日本の夏は暑いね』と肩をすくめた後、ふうっと息を吐く。
『さっきの曲……はじめてレオンと一緒に弾いた曲だったわね……』
『うん。あの時はいい意味で衝撃を受けたよ。
やっぱり僕の耳に狂いはなかったよね。アイリーを見つけ出したあの時の自分を誉めてあげたいよ。さすがだねって』
ためらいがちに話し出した私とは対照的に、レオンは嬉しそうに話す。
にっこりと笑うレオンからは、先ほどの張り詰めた様子は感じ取れなかった。
このまま、何もなかったことに……するわけにはいかない。
心の中に顔を出した自分の卑怯さが情けなくなる。
私への思いを真っ直ぐに告げてくれたレオンに対して、私も真正面から向き合わなければいけないというのに。
勇気を出してレオンの眼を見て……自分の顔が強張るのを感じる。
それでも私は次の言葉を口に出すために、大きく息を吸い込み話しはじめた。
『私もこの曲をレオンと演奏して、一緒に曲を創り上げることがこんなにも楽しいんだって教えてもらったわ。レオンと出会ったから、私は器楽コレペティトアとしての道を選んで、今があるの。
あの時、レオンが私に声をかけてくれたこと、本当に感謝しているわ。
ピアニストとしてレオンと一緒に過ごした時間や、創り上げてきた音楽は私にとってかけがえのないものよ。
でも……でもね、レオン。私……』
『アイリー、わかってるよ。大丈夫。言わなくてもわかってるから』
レオンは一瞬目を見開いた後、ヴァイオリンと弓をそっと置くと、私に近づいてふわっと抱きしめ、背中をポンポンと優しく叩いた。
『ごめんなさい……』
『アイリーの心には、昨日のあいつがいるんだよね』
『えっ……!』
『僕が気づいていないとでも? これだからアイリーは……』
そう言うと、レオンは私を抱きしめていた腕を話して視線を合わせると、少し寂しそうに笑ったのだった。
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