届かない思い
今日ホテルに迎えに来てくれたアイリーを一目見て、何かあったと気づいた。
僕がエレベーターから降りて、顔を上げているアイリーの正面から近づいているのに、一向に気づく気配がない。
『アイリー、お待たせ』
『レオン……』
目の前で呼びかけて、ようやく僕を認識したようだった。
近くで見てみると、顔色が冴えないのも気になった。
『どうしたの、アイリー?具合が悪いの? 顔色が悪いよ』
そう言って覗き込むと、慌てて大丈夫だと作った笑顔を向けられた。
外が暑かったせいだと言っているけれど、それだけではないような気がした。
『本当に? 暑かっただけ? 無理してない? 今日の合わせ止めておく?』
『大丈夫よ』
『本当に?』
『ええ。さっき病院でも体調は万全だって言ってもらったばかりよ。
心配かけてごめんなさいね。さあ、行きましょう』
えっ? 病院に行った?
……ということは、今朝もあいつに会ったのか。
そこで何かあったのか?
ようやく今日からアイリーとの待ちに待った時間を過ごせると浮かれていたのに、冷や水を浴びせられたかのように感じた。
僕の気持ちがザワザワと波立ち『……ふ~ん。あいつに会ったんだ』と呟いた言葉は、アイリーには聞き取れなかったようだ。
『え? 何か言った?』と問い返されたが、そのままにしてアイリーの大学へと向かったのだった。
アイリーの研究室でリサイタルの曲を合わせた時に、僕の勘は確信に変わった。
『ねぇ、アイリー。やっぱり今日は変だよ。
本当に体調は大丈夫なの?今日は無理して合わせることないんだからね』
『暑いからかしら……本当にごめんなさい』
僕をごまかそうとするのは無理だよ、アイリー。
どうして、僕に本当のことを話してくれないんだろう……
僕はそんなに頼りないのだろうか。
『休憩しよう、アイリー』
そう言って、僕は弓を緩めて、楽器をケースにしまう。
そして、ドアの方へと近づくアイリーを後ろから抱きしめた。
『レ…レオン!』
『アイリー……』
我に返ったアイリーが僕の腕を叩いているが、僕は彼女が逃れられないように更に強く抱きしめた。
『アイリー……。
僕と一緒にドイツに帰ろう。もう離れたところで心配するのは嫌なんだ。
アイリーの傍にいたい。
ねぇ、お願いだよアイリー。ずっと僕の傍にいて……』
他の誰でもない、僕の傍にいてほしい。
僕のことを見てほしい。
僕を愛してほしい。
アイリーが僕の気持ちに気づいていないのは知っていた。
それでも、こんなに音楽の相性がいい僕たちだ。いずれ………そう思ってきたけれど。
あいつの横で、幸せそう微笑んで話しているアイリーを思い出すと、胸が搔きむしられるように感じる。このままアイリーが僕の元を去って行くのは耐えられない。
僕は抱きしめていた腕を緩め、アイリーと向き合った。
でも、彼女は俯いたままだ。
『アイリー、お願いだから僕を見て。
僕はアイリーのことを本当に大切な人だと思っているよ。
一生離したくないし、誰にも渡したくない。
愛してるんだ、アイリー。
僕が日本に来たっていいんだ。
だから……だからアイリー、ずっと僕の傍で一緒に生きて……』
顔を上げたアイリーと目が合う。
彼女の瞳は僕をとらえているはずなのに……僕は息を飲んだ。
アイリーは瞳に僕を映しながら、別の誰かを見ていた……
アイリーの眼から、すーっと涙がこぼれ落ちる。
『レオン……私………』
僕はその続きを聞きたくなかった。
僕を見つめるアイリーの涙をそっと親指で拭い、額に口づけると、つとめて明るい声で言う。
『愛しているよ、アイリー。
でも、のども乾いちゃったね。僕、冷たい飲み物がいいな』
無理矢理作った笑顔で送り出したもの、アイリーがドアを閉めるまでが限界だった。
こらえていた涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。
アイリーと目が合った瞬間に気づいてしまったんだ。
彼女の中には、僕ではない別の人が居ることを……
アイリーに嫌われているわけではない。
僕のことは信頼してくれている。
でも、アイリーの心に僕はいないことを……
そして……
あの涙は、その人を思う涙だったこと。
『アイリー、アイリー…、アイリー………』
僕は、何度も彼女の名前を呼んだ。
それでも、僕の手が届かなくなってしまった人を取り戻せるはずがない。
日本に帰さなければよかった。
あのままドイツで一緒にいれば、僕を……
僕は流れる涙を拭おうともせず、彼女が出て行ったドアを見つめていた。
どれだけの時間がたっただろう。
アイリーが戻る前に僕は研究室に備え付けてあった手洗い場で、涙でぬれた顔と手を洗って綺麗に拭った。
それでも、彼女が戻ってくるまでに気持ちを落ち着かせておかなければ。
僕は弓を張り、ヴァイオリンをかまえる。
サン=サーンス作曲『序奏とロンド・カプリチオーソ』
リサイタルでも演奏する曲。
そして、はじめてアイリーの伴奏で弾いた曲。
物悲しい序奏で始まるこの曲。
ため息をつくような旋律は、アイリーに届かない僕の心と同じ。
アイリーのことを思うと心は波打ち、搔き乱される。
僕はアイリーを手に入れることはできない……
それでも……僕はやっぱり君のことが大好きだよ。
序奏の後にロンドの音楽が続く。
繰り返される主題に挟まれるように現れるのは、軽快な旋律や情熱的な旋律、そしてエキゾチックで甘美な旋律。
現れる旋律にふさわしい音色と速さで繋いでいく。
この曲をはじめてアイリーと合わせた時のことは忘れられない。
彼女は目まぐるしく変化するこの曲にぴったりと付いてきてくれたんだった。
ピアニストに気を遣うことなく、あんなに自由に演奏できたのは初めで。
アイリーは僕のやりたい音楽を感じ取り、その上で自身の色を添えてきた。
曲を一緒に創り上げていくことが、こんなに素敵なことだと教えてくれたのはアイリーだった。
楽器で会話するように演奏できることが、心地よくて幸せで……もっとこの時間に浸っていたいと思いながらも、駆け抜けるように弾き切った満足感を思い出しながら。あの時と同じように………最後は颯爽と駆け抜けるように。
カプリチオーソ!!
アイリーの恋人として、夫として一緒にいることは叶わない。
だけど僕たちが音楽家として、創り上げてきた音楽は、間違いなく僕たち二人にしかできないものだったよね。
だから、これからもパートナーであってほしい。
それくらい……僕も願っていいよね。
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