特別な人?
レオンのコンサート翌日。
碧くんから「自覚症状はないみたいだけれど、リサイタル前にチェックしておこう」と言われていた私は、診察のために病院に来ていた。
「聞こえの検査だけど、ここまで素晴らしい耳だったとは驚きだよ」
碧くんがデータを見せながら説明してくれる。
「看護師さんから、本当に聞こえてから押してますか?って尋ねられたわ」
「うん。信じられない結果なんだけど、聞こえのレベルはこれ10代以下だよ。これだけ聞こえていたんだったら、最初の状態は本当に気持ち悪くて大変だったと思うよ」
「耳だけ若いって言われても……喜ぶべきなのかしら?」
そう答えると、碧くんだけでなく控えている看護師さんからも笑われてしまった。
「大丈夫。その他も充分若いから。
この結果だと、リサイタルも安心だね」
「頑張ってくださいね」
苦笑する碧くんに加え、看護師さんからも笑顔で応援の言葉をかけてくれる。
笑われたことは少し恥ずかしかったけれど、リサイタルに向けて頑張ろうと思う気持ちが込み上げてきた。
今日はこの後、レオンと会う約束をしている。
昨日聴いた彼の演奏は、私がドイツにいた頃とは比べ物にならないくらい良い方に違っていた。
リサイタルで最高の音楽をつくるためにも、まだ時間があるこの時期にどうしても一度合わせておきたいと思っていた。
本番の翌日だから、お昼まではゆっくりしたいというレオンに合わせて、14時にホテルに迎えに行く約束をしている。その後、私が勤める大学の研究室で合わせることになっていた。
「今日の合わせ楽しんで。レオンハルトさんによろしくね。
リサイタル、僕も楽しみにしているから」
「ええ。いい音楽を届けられるよう、全力で頑張るわ」
碧くんからそう言われて、嬉しくなった私は笑顔を向けて強く頷いた。
思っていたよりも早く診察が終わり、レオンとの待ち合わせまでに時間があったので、病院併設のカフェで昼食を食べて行くことにした私は、軽く食事をとった後、デザートがメインとばかりに生クリームがたっぷり添えられたガトーショコラとコーヒーを味わっていた。
検査結果も良好。
レオンとの合わせも楽しみ。
ケーキも最高!
ひとりで幸せな時間を満喫していたのに、突然後ろから声をかけられたのだった。
「こんにちは。今日は診察だったんですか?」
振り返ると、コンサートの時に碧くんと親しそうにしていた看護師さんが立っている。
「ご一緒して構いませんか?」
彼女は尋ねると同時に、私の返事も待たずに前の席に座って話しはじめた。
「この前は素敵な演奏をありがとうございます。子どもたちとっても喜んでいました。終わって病室に戻ってからも、興奮冷めやらぬ様子だったんですよ。
素敵なドレスに憧れた女の子もいて『お姫様みたい』って。
しばらくはコンサートの話で持ち切りでした」
「ありがとうございます。喜んでもらって私も嬉しいです」
目の前に座る彼女のことを、気まずい思いで見返しながらお礼を伝える。
強引に座られて驚いたけれど、子どもたちの様子を伝えたかっただけかしら?
私が食後だというのは見てわかるはずだから、子どもたちの様子を伝えたら、すぐに立ち去るつもりなのかもしれない。
しかし、私の思いとは裏腹に、彼女はニッコリ笑って、立ち去ることなく話し続けたのだった。
「今度は夏休み明けだそうですね。碧先生から伺いました」
「そうなんです。大学の夏休み中は忙しくしていて……」
「リサイタルがあるそうですね」
「よくご存じで……」
「はい。碧先生が仰っていましたから」
「そうですか……」
彼女は小児科の看護師さんだったはず。
大きな病院だけれど、スタッフの方たちはよく話すのだろうか。
それとも……碧くんとは特別に親しいのだろうか……
そう考えていると、胸の奥にズキンと痛みを感じる。
思わず唇をきゅっと結びそうになったけれど、隠すように無理に笑顔を作って彼女に向けた。
「そういえば、碧先生もピアノお上手ですよね」
「ええ。私は高校生の頃にしか聞いたことありませんが……その頃もとてもお上手でした」
彼女は碧くんのピアノを聴いたことがあるのかしら。
そう思うと、やるせない思いが自分の中からあふれてくるのを感じる。
もう10年以上前に聴いた碧くんのピアノ、私の中では大切な出来事へと変化した思い出を浮かべる。
私もまた聴いてみたい。
嫌だと言われるかもしれないけれど、今度話してみようかしら。
そんなことを考えていた私は、彼女の表情が一瞬変わったことに気がつかなかった。そして、彼女が発した言葉にひどく動揺することになる。
「外来の方が帰られて誰もいない時間に弾いていらっしゃるのを、時々聴かせていただくんですよ。それに……」
「それに?」
え? 今、彼女は、碧くんが自分のためにピアノを弾いてくれていると言ったの?
彼女のペースに巻き込まれないようにと思うものの、続きが気になって、思わず聞き返してしまった。
「私の幼馴染が碧先生と同じピアノの先生だったので、小さい時から発表会でお見かけしていて。昔から本当にお上手ですよね。私、この病院に1年ほど前から勤めているんですが、碧先生がいらっしゃって本当にびっくりしました。再会できて、またピアノを聴かせていただけて嬉しかったです!」
「……そう……ですか」
屈託のない笑顔を向けられる。
彼女の晴れやかな表情とは裏腹に、私は次第に胸に息苦しさを感じてきた。
彼女が以前から碧くんを知っていたこと。
何度も彼の演奏を聴いていたこと。
そして、この病院で再会して彼女のためにピアノを弾いたこと。
その事実に自分がこれほど衝撃を受けるとは思っていなかった。
そんな私の様子に彼女は気づいていないようで、うっとりした表情で話し続ける。
「碧先生、昔からとても素敵な方でした。とってもお優しいし。
先日、ピアニストになった幼馴染がリサイタルをしたのですが、碧先生お祝いのお花を持って駆け付けて下さったんです。私、隣で一緒に聴いていたんですが、同門の活躍をとても喜んでいらっしゃいました」
「…そう…でしたか……」
「その後行った食事の席でも、嬉しそうに彼女のリサイタルの話をしていたんですよ」
嬉しそうに話す彼女の言葉のひとつひとつが、私の心を突き刺していくようだった。指先がすっと冷たくなり、血の気が引いていくのを感じる。
これ以上、彼女の話を聞くことは辛くてできそうにない。
そう思った私は、話の途中ではあったが、この場から逃れることにした。
「お話し中にごめんなさい。私、そろそろ行かないと……」
最後の気力で笑顔を作り、席を立つ。
「いえ、こちらこそ。お忙しいのにお引止めしてすみません。
でも、お話しできて嬉しかったです。次のコンサート楽しみにしていますね」
眩しい笑顔を向けられ、私は逃げるようにカフェを後にした。
苦しくて、今にも心臓が爆発しそうだった。
私、浮かれていたのかもしれない。
碧くんがあまりにも優しかったから。
再会してから、楽しいことばかりだったから……
涙が滲んでくる。
今はただ、一刻も早くこの場から離れたくて、足早に立ち去ったのだった。
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