音楽家として
「僕さ、碧くんに会ったらお礼を言わなきゃと思ってたんだ」
「え?お礼ですか?」
雅樹さんに誘われて、少し彩李ちゃんたちから離れた場所へと移動しながら、かけられた言葉に僕は驚いた。初対面の雅樹さんにお礼を言われるようなことした覚えはないのだけれど…
よくわからないという表情をしていたのだろう。
雅樹さんは朗らかに笑った後、話を続けた。
「彩ちゃんを教え始めた頃、僕もまだ若くてさ。結構厳しいこと言ってたんだよね。彼女才能があったし……」
そう言って、雅樹さんは彩李ちゃんのことを話し始めた。
決定的に足りなかったのが曲への解釈と自己主張だったこと。
それが無いと、この世界でやっていくのは厳しいこと。
自分でも追い詰めてるな……と思っていた時に、彼女の演奏が変わったこと。
「まるで脱皮するかのようにね。あの時は本当に驚いた。
そしてね、ああ、これで大丈夫だと思ったんだ。
その時、何があったのか本人も話さなかったけれど、何かきっかけとなる出来事があったことだけは解ったよ」
おそらく当時のことを思い出しているのだろう。
弟子の成長を嬉しそうに話す姿に、彩李ちゃんを本当に可愛いがっていたことが伝わってくる。
「そのきっかけ、碧くんだったんだってね。
この前、伶から聞いたよ。ありがとう」
「そんな……お礼を言われるようなことではないんです。
僕はその時、彩李ちゃんを傷つけてしまいましたから……」
彩李ちゃんとの誤解が解けた今、僕にとって大切な思い出へと変化した出来事だったが、それでも彼女の涙を思い出すと、今もほろ苦い思いが胸の中に広がる。
「わざとじゃなかったんでしょ」
「もちろんです!!」
それだけは誤解されたくないと語気を強めた僕に、雅樹さんは「わかっているよ」と言いたげに柔らかい表情を向けてくる。
そして、穏やかに話し始めた。
「僕たちは生きている以上、毎日いろんなことを口に出したり、いろんな動作をしているよね」
「はい」
「それに、人と関わらなければ生きていけない。
となると、自分の思いとは裏腹に誰かを傷つけてしまうことはあると思わない?」
「はい……」
だから気にしなくていい、と言われているのだろうか。
そう思っている僕に、雅樹さんは話を続ける。
「それに……僕たちがしている大半の言動は、日常としてただ流れていくだけでしょ。過ぎ去ってしまえば、覚えていないことが多いよね」
「……はい」
たしかに僕たちは、毎日、何気ない言動を絶えず行っているようなもので。
そのほとんどは、何も問題を起こさないまま過ぎ去り、記憶にすら残っていない。
「誰かと深く関わりあえる言動って、一生の中でも実はそう多くはない。だから、それがたとえどんな感情を伴うものであっても大切なものだと僕は思うんだ」
「はい」
「特に辛かったり、悲しかったりする感情は本人にとってはたまらないことだけれどね。でも、その経験が人としての深さや幅を広げていくんだよ。
そして、僕たち音楽家にとって、その深いかかわりは糧となることが多い。
深い関りの中で多くの感情を持てば持つほど、人としての深さや幅が広がるほど、その人の音楽も広がっていくんだよ」
「そういうものですか?」
「うん。僕はそう考えてる。
だから碧くんが彩ちゃんの音楽を変えたというのは、本当に凄いことなんだ。
僕だったら嬉しいな。その人の音楽を変えられるほどの関りが持てたこと」
できれば避けたいと思うはずの負の感情すら、自分の糧だ言い切る雅樹さん。
『全ては芸の肥し』とは言うけれど、芸事を追求する人たちの飽くなき探求心を垣間見れたように感じた。
「まあ、当事者は辛いんだけどね」
そう言って苦笑いしている雅樹さんも、人との関りの中で多くのものを得てきたのだろう。
そしてその経験が自身の糧となり、目の前にいる春田雅樹という人物を創り上げているのだと考えると………歳を重ねるのも悪くないことのように思えてくる。
「それに今、また彩ちゃんが脱皮しようとしてるんじゃないかと思ってるんだ」
「……それは、どういうことですか?」
「ん?後は本人が気づくかどうか、だと思ってるんだけどね」
早く気づけばいいのに……と雅樹さんはブツブツ言いながら、レオンハルトと話している二人に視線を送る。
「それにしても……伶が言っていたとおりだ。
碧くんとレオンハルトが会ったら火花が散るわよ!って言ってたけど、本当だね」
雅樹さんは、くくっと笑いながら僕をチラリと見る。
僕はその言葉に、瞬時に顔が熱くなるのを感じた。
「わかります……よね……」
「うん。彩ちゃん以外は気づいていると思うよ」
「彼女は気づいていない……ですよね。やっぱり……」
「うん。非常に残念なところでもあり、そこが彩ちゃんらしくて可愛らしいところでもあると僕は思っている」
誰が見ても、僕が彩李ちゃんを好きだと思っているのはわかるらしい。
「そして、レオンもね」
「やっぱり、そうですよね……」
「うん。あれで気づかないなんて、僕はレオンの方に同情したいくらいだよ」
「……!」
「いやいや、レオンを応援するってことじゃなくてね。
僕は可愛い僕の生徒が幸せになってくれるのを願ってるだけなんだよ。
今まで彼女はピアノ一筋だったからね。ピアノと同じくらい大切だと思えるものが増えてほしいと思ってるんだ。
僕としては、日本に居てほしいとは思っているけど、それは彩ちゃんが選ぶことだからね」
雅樹さんは、相変わらず朗らかに笑っている。
「碧くん、がんばって。今回も期待してる」
「……はい」
励ましてくれているのだとは思う。
だけど、この思いを僕は、いつどうやって伝えればいいのだろう。
これまで、思いを伝えられたことはあっても、伝えた経験はない。
大きなため息をつくと、隣で雅樹さんが声をたてて笑った。
「さて、そろそろ帰らなきゃいけないみたいだね」
そう言うと、雅樹さんは励ますように僕の背中をトントンと叩いたのだった。
コンサートの帰り道(伶&雅樹の会話)
「ねえ、矢那井さんと話せた?」
「うん。けしかけておいた」
「動いてくれるかしら?」
「それを願っているけどね」
「本当に気づいてないのかしら?」
「みたいだよ。お互い」
「お互い……ね」
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