私の心と梅雨の空
病院でのミニコンサートは午後の外来受付が終わった時間に設定された。
その日は、僕も遅い休憩を取って聴きに来ていた。
少し離れた柱の横に立って、コンサートが始まるのを待つ。
はじめての生演奏によるコンサートということで、入院患者や病院関係者も多く集まっているようだ。
彩李ちゃんは同僚のヴァイオリニストと一緒に、ピアノソロやヴァイオリンとのデュオを楽しませてくれている。
彩李ちゃんがピアノソロの最初に演奏したのは『月の光』。
思い出しても苦い記憶だけだった『月の光』は、誤解が解けた今、ほろ苦さは残りつつも甘く切ない思いが上書きされた。
ああ、ようやく近くで聴けた。
あの時、僕は教室で隠れるように彼女の弾く『月の光』を聴いていた。
高校生の時に聴いた『月の光』とは違う、今の彼女の演奏に僕は喜びを嚙みしめる。嬉しさと感動で、目頭が熱くなってきて慌てて目を閉じる。
彩李ちゃんの姿を見ながら味わいたいけど、今日は無理だな。
今日、彩李ちゃんはすっきりと晴れた青空のような天色のドレスを着ていた。胸元からスカートにかけて同系色のビーズがたくさん縫い付けられているため、光を反射してキラキラと輝いている。スカート部分は薄い生地がふんわりと何枚も重ねられているようだ。そして、後ろには大きめのリボンがついている。
普段は綺麗という印象が強いのだけれど、今日の彼女はとても可愛らしくて、ずっと見ていたかったのだけれど……
『月の光』の演奏を終え、拍手に応えている彼女を見る。
僕と目が合うと、笑みを深くしたのがわかった。
今日はコンサートと言っても、病院で聴いている人との距離も近いため、彩李ちゃんたちは次の曲や奏者の紹介、楽器の話などを挟みながら進めている。
特に小児科で入院している子どもたちは、今日をとっても楽しみにしていた様子だった。ここに来れる子は皆居るんじゃないかと思うくらいの人数だ。演奏者に一番近い前の方の席で、目をキラキラさせながら聴いている姿は、見ていてとても微笑ましかった。
彩李ちゃんも、それがわかっているのだろう。子どもたちの方を見ながら、わかり易い言葉を使って話しかけている。
「矢那井先生、今日はありがとうございます!」
突然、トントンと肩をたたかれる。
コンサートが始まってからずっと彩李ちゃんから目が離せずにいた僕は、彼女が近づいて来ていたことに気付いていなかった。
「ああ、水田さんか。いや、僕はお礼を言われることは何も……」
「いえ! あのピアノの方が矢那井先生の同級生の方なんでしょう。綺麗な方ですね!
あ、ヴァイオリンの方もとってもお綺麗で魅力的ですよ。
このコンサート、先生がお願いしてくださったと聞きました!」
僕の肩を叩いた手がそのまま降りてきて腕に触れたまま、ニコニコと屈託のない笑顔を向けてくる。
彼女は、小児科病棟を担当する看護婦だ。
今日は子どもたちが来ているので、一緒に付き添ってきたのだろう。
僕は一歩横にずれる。
彼女の手が方から離れてホッとしたのも束の間、僕と柱の間に出来た隙間にするりと入り込み横に立った。
慌ててそこから離れようとすると、彼女が僕の白衣の袖をもって引き留める。
「あ、次で最後みたいですね!
子どもたちのほとんどは、ヴァイオリン見るのも今日が初めてだと思います!
あんなに嬉しそうな顔見れるなんて。本当に良かった!」
そう話す彼女は、子どもたちが嬉しそうな様子を心から喜んでいるように見える。
「そこが曲者なんだよ」そう言った咲田の言葉が頭を過ぎる。
確かに彼女は掴めない、あの時もそう思ったことを僕は思い出した。
☆…♩♪♩. ♩♪|♪♪♪♩. …☆
あの看護師さんと仲良さそうだった……
初めての病院コンサートを終え、皆さんに喜んでもらえたというのに、私の心はモヤモヤとしていた。
一番前で目をキラキラ輝かせて聞き入っていた子どもたち。
私たちの演奏で子どもたちが楽しんでくれている様子が直に伝わってきて、色々な話を織り交ぜながらコンサートを進めた。
子どもたちだけでなく、来ていた人には好評だったようだ。病院コンサートを提案してくださった方からは、定期的にお願いしたいと言われ、また次回そのことも含めて打合せに行くことになっている。
皆が喜んでくれて、私も楽しかったコンサートだった……はずなのに。
ピアノソロの最初の曲には『月の光』を選んだ。
私に足りないものを気づかせてくれた曲だったけれど、それと同時に様々な負の感情が渦巻いて心乱されてしまい、人前で弾くことを避けてきた曲だった。
碧くんとの出来事を受け止めることが出来た今、ようやく私はこの曲と正面から向き合って弾くことができた。
碧くんはどんな思いでこの曲を聴いてくれただろう。
弾き終わった後、少し離れた場所で聴いていた彼に視線を向けると、微笑んでいるのがわかった。目が合うと、その笑みが深くなって満足そうに頷いてくれた。
この曲を弾いてよかった。
心の中にじんわりと暖かいものが広がっていき、とても心地の良いものだった。
その後の演奏は楽しいばかりだった。自分の心が軽くなったのが手に取るようにわかり、心から演奏を楽しめた。
それはヴァイオリニストの同僚にも伝わっていたようで、何度も演奏途中に目が合っては彼女から満足そうな笑みを向けられたのだった。
気づいたのはコンサートの終盤だった。
碧くんの横に女性の看護師さんが立っているのが目に入った。
碧くんは柱に寄り掛かるようにして立っていたはずなのに、いつのまにか柱と碧くんの間に入り込むように女の人が立って楽しそうに話をしている。
同じ職場の人だもの。仲良く話くらいするわよね。
仕事で知り合って仲良くなった人たちと話すのは、私にとっても当たり前のこと。
そう思うのに、その時の様子を思い出すだけで、唇をギュッと強く結んでしまう。
嫌なことされたわけじゃないのに……
彼女は小児科の看護師さんだったようで、コンサートが終わると、碧くんと一緒に近くに来てお礼を言った後、子どもたちに付き添って帰っていた。
彼女に言われたのは「ありがとうございます。素敵でした」という言葉だけ。
同じようなことを昨日は何人からも言われたのに、どうして彼女のことだけこんな気にかかってしまうのだろう。
おかげで……
〝今日はコンサートありがとう。
久しぶりに彩李ちゃんのピアノが聴けて嬉しかった。
明日の夜、彩李ちゃんの予定が空いていたら、一緒に食事でもどう?“
送られてきた碧くんからのメッセージを、もう何度も読み返している。
明日の夜は空いている。
返事は決まっているのに、心の中のモヤモヤのせいで、何度も書いては消して…を、もう30分以上も繰り返しているのだった。
ふうっとため息をつく。
碧くんと再会してから、私は自分の気持ちのコントロールができなくなっているように感じる。こんなこと、今までなかったはずなのに。
今日だってこんな気持ちになるなんて。
私は、部屋の窓を開けて思いっきり深呼吸する。
梅雨に入り、蒸し暑い空気が私の体をまとわりつく。
すっきりしないのは一緒ね。
そう思うと、何だか笑えてきた。
いろんな天候の日があるのだもの、私の心だっていろいろあるのは当たり前なのかもしれないと思えた。
「なるようになるわ」
相変わらず私の気持ちはすっきりしないままだったけれど。
母の口癖を呟いてから、返信を入れたのだった。
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