解けたわだかまり
いつもより長くなってしまいました。
今なら話せる。
穏やかな景色に心もほぐれてきた私が大きく深呼吸して碧くんに目線を向けると、碧くんがこっちを見ていた。
いつも優しそうな笑顔を向けてくれる碧くんが、泣きそうな顔をしている。
どうしたの? と尋ねようと口を開きかけた時……
「今日は僕のために時間を取ってくれてありがとう。
そしてごめんね、彩李ちゃん。僕はずっと高校の時の音楽室でのことを謝りたかったんだ…」
碧くんが話し始めた。
私を泣かせてしまった原因が自分にあるとずっと後悔していたこと、それを言えないまま高校を卒業してしまったこと、そして私とピアノや音楽の話をしたかったことを。
聞きながら、私の心臓はドクドクと音をたてて鳴り始めた。
あの時、碧くんの思いを勘違いし、独りよがりに受け取って勝手に傷ついたのは私だというのに……
彼に誤解させた上に、辛い思いをさせていたことを知り、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
あの時、私が逃げてしまったから……。
「違う」と否定しなければと思うのに、碧くんからの予期せぬ謝罪に言葉がまとまらない。
早く…早く言わなければ!と思うのに。
「一方的に謝罪を押し付けてしまう形になってごめんね。
それに、過去のことを思い出させるようなことになって申し訳ないと思う。
それでも…僕のひとりよがりな思いなんだけれど、僕はずっとあの時のことを謝りたかったんだ」
碧くんの誠実さが…優しさが…胸に刺さるようだった。
なんてまっすぐな人なんだろう。
清廉な彼を目の前にして、私は恥ずかしくてたまらなかった。
過去の自分が彼を傷つけてしまったこと。
そして、今の自分が何も言えないままでいることが情けなくて鼻の奥がツンと痛む。
「ごめんなさい…」
やっと絞り出せた言葉と共に涙がこぼれた。
「え、彩李ちゃん?
また僕、泣かせるようなことを……ごめん……」
驚いた碧くんが慌ててハンカチを差し出しながら、また謝ってくる。
どこまで優しい人なんだろう……
こんなに優しい人にずっと罪悪感を抱かせていたんだと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「違うの…
悪いのは私なの……
碧くんは何も悪くないの……」
昨日から、どんなふうに話をしようかとたくさんシュミレーションしたのに、上手く言葉が出てこない。
でも、今日はちゃんと伝えると決めていた。
あの時のように誤解されたままは嫌だと心の中で私が叫んでいる。
大切なのは、心からの謝罪と感謝の思いを伝えること。
あふれる涙を拭いながら、私は一生懸命言葉をつないだ。
時々、詰まりながらも当時の自分の状況や心情を話す私を、碧くんは焦らせることなく聞いてくれた。
話の途中から、碧くんの手が私の背中を優しく撫でてくれた。
大きな手から伝わる暖かさを感じながら、碧くんは全く悪くなかったこと、自分の至らなさで彼に後悔させたことを心から謝り、そして変わるきっかけをくれたことへの感謝も伝えた。
「ごめんなさい…」
「いいんだよ、僕が彩李ちゃんを傷つけてしまったのは間違いないことだから。
でもね、泣いている彩李ちゃんを前に不謹慎なんだけど……」
碧くんは少しの間ためらった後、言葉を続けた。
「僕は今、嬉しいとも思ってるんだ。
だって……話さなくてもお互いのピアノが影響し合ってたってこと……だよね」
何度も謝罪を繰り返す私に、碧くんは背中を撫でながらそう言ってくれた。
その言葉に私はハッとする。
そう。確かに私たちはお互いが知らないうちに影響し合っていた……
あの時の出来事は、私にとって思い出すだけで心に鈍い痛みを感じるものだったけれど。
でも今の彼の言葉と、背中に回された大きな手のぬくもりのおかげで、その痛みが暖かい光で包まれたように感じたのだった。
これからも、この痛みが消えることはないだろうと思う。
それでも……その痛みと共に、今胸に広がる暖かい気持ちを思い出すことができるはず。
家族以外の前でこんなにも泣いたのは初めてだったけれど……
恥ずかしい気持ち以上に、今は満たされた気持ちが広がっていた。
今日、ここで伝えることが出来て本当に良かったと心から思えたのだった。
お互いのわだかまりが解けたこともあって、食事をしながら音楽のことやお互いの仕事のことなど話は尽きることはなかった。
「高校生の時ですら、こんなに話したことはなかったね」
「そうね。碧くんと同じクラスだったのは1年生の時だけだったし、あの頃は知らない人がクラスの半分いて……」
「うん、彩李ちゃんが人と話したりするのが得意じゃなかったのは覚えてるよ。特に男子は苦手だったよね。
僕のことは、優輝と友達だったから大丈夫だったんでしょ。
実は、今日も僕と病気以外の話するのが辛かったらどうしようかと思ってたんだけれど……。たくさん話せて嬉しいよ」
そうだった。あの頃はまだ人見知りも激しかったし、特に男子は苦手で……高校生の私しか知らない碧くんがそう思っていたのも無理はないと思った。
「音楽って……、特にアンサンブルって何も言わなくても合わせられたりするでしょう。
日本だけで生きていた時は、みんな同じ国で似たような環境で育っていたから言わなくても伝わることが多くて、あまり話せなくても問題なかったんだけど……」
「ドイツでは違った?」
「そう。その中で自分を理解してもらうためには主張しないとダメだったの。
話さなければ伝わらない、わかってもらえない、それは自分にとっても相手にとっても何一つ良いことがないって気づいたの」
いろんな国から来た個性あふれる留学生たちとひとつの音楽を創り上げていくためには、音で伝えることはもちろん、言葉にして伝えることがどうしても不可欠だった。
違いを知り、それを尊重しながらもひとつの音楽を創り上げていくことは、苦しいことでもあったが、同時にそれ以上の喜びをもたらしてくれるものでもあった。
私たちはそうやってしのぎを削ってお互いを高め合ってきた。
ドイツで出会ったたくさんの友人たちの顔が思い浮かぶ。
「なるほどね……。頑張ったんだね」
「ええ。頑張りを認めてもらえるって嬉しいものね。ありがとう」
素直に感謝の意を伝えた私に「どういたしまして」と答えた碧くんだったが、次の瞬間とんでもない言葉を投げかけた。
「高校生の時の高嶺の花って雰囲気もよかったけれど、今は今で親しみやすくていいね」
「…!?」
思わず言葉に詰まる。
高嶺の花って……高校生の頃? 社交辞令かしら?
ドイツでは色んな国の人が居て、さらりと社交辞令で心地よい言葉を言われることもあった。
彼らにとっては挨拶のようなものだったから、免疫があったつもりだけれど……
日本語で日本人から言われると、どうしても照れてしまうのは仕方がない。
碧くんも、こんなことさらりと言う人なのかしら?
10年以上も接点もなければ、彼の人となりを知るほど高校生の時に話した記憶もない私が解るはずもなく……。
ドイツに居た時みたいに私もさらりと「ありがとう」と言えばいいだけなのに、碧くんの顔が眩しく感じられて、私は何も返せないままうつむいてしまった。
「ねえ彩李ちゃん……
今日みたいに、また会ってもらえないかな」
「………」
返事に戸惑っているうちに言葉が重ねられて、また返答に困ってしまう。
碧くんは私の返事を待つことなく、話を続けた。
「今日、彩李ちゃんと話してとっても楽しかったんだ。
家族以外でこんなにピアノや音楽の話できたのも久しぶりでさ。また話したいなと思うんだけど、来院してきてもらった時は時間もないし、こんな話をするわけにはいかないし」
ああ、と私は納得した。
彼の本心がどこにあるのか判らなくてドキドキしてしまったけれど、確かに病院ではゆっくりと話すこともできない。
それに…楽しかったのは私も同じだったから……。
「彩李ちゃんに特別な人が居て、他の男と会うわけにはいかないっていうのなら無理は言わないから。僕は今日、昔のことを謝れたことで充分なんだよ」
その言葉はきっと本心なんだろう。
顔を上げて碧くんを見ると、彼は満足そうに微笑んで私を見ていた。
「残念ながら……
ドイツに居た時も帰国してからもピアノのことばかりだったから。
碧くんは、私と会っても大丈夫なの?」
「もちろん」
上ずりそうになる声を抑えながら答えると、碧くんは私の瞳をとらえたまま短く言い切った。目を逸らそうにも、まるで捕らえられたかのように動かすことができない。
「じゃあ、また会ってもらえる?」
「…ええ」
「ありがとう」
嬉しそうに言った碧くんの笑顔がひときわ眩しく輝いて、心臓がドクンひときわ大きく波打った。
この作品を見つけて読んでいただき、ありがとうございます。
ようやく小さな1歩を進めた彩李と碧です
興味惹かれる作品でしたら、評価いただけると嬉しいです。




