話したいこと
「聞こえの検査は正常の範囲……というか、この年齢にしては聴こえすぎてるくらいだけれど、自分の感覚としてはどう?」
病院での診察に、私は耳が詰まった感じがなくなってきたこと、そして昨日ピアノを弾いてみたことを話す。
「よかった。検査の数値だけでなく、自覚症状としても順調に回復してるようだね。
じゃあまた1週間後に来院してもらおうかな。薬はまだしばらく続けるよ。
ピアノは辛くなければに弾き始めてもいいけれど、楽しいからって長時間弾くのはまだ我慢してね。絶対に無理はしないように」
私がピアノを弾きたくてウズウズしているのが碧くんにはお見通しだったらしい。
「1週間もピアノを触らなかったし……そんなこと、初めてで……」
いたずらが見つかった子どものように、モゴモゴと言い訳をする私を見て、碧くんは声を立てて笑った。
「ははっ。怒ったわけじゃないから。気にしなくて大丈夫だよ。
でも、それだけいつもピアノを弾いていたんだね。全快したら、久しぶりに聴きたいな」
「あ……」
何と返事をしたらよいのかと言い淀んでいた私を見て、碧くんはふっと目を細める。
「あのね、彩李ちゃん。
僕、彩李ちゃんと話したいことがあるんだ。
いや……話したいというより謝りたいことなんだけれどね。
でも、診察の時に話すことじゃないから、彩李ちゃんさえよかったら、今度時間作ってもらえると嬉しいんだけれど……」
「え……?」
「すぐじゃなくていいんだ。
調子が完全に戻ってからでいいし、もちろん嫌だったら無理にとは言わない。
断っても僕が担当医なのが変わることはないし……って、ちょっとまって。
担当医が僕じゃ嫌だったりする?
それなら、他の先生紹介するから……」
私の返事を待つことなく、碧くんは矢継ぎ早に言葉を重ねていたが、最後はしゅんと項垂れている。
こんな顔するのね……高校生の時からは想像もできない姿に、少し可愛いと思ってしまう。
「これまで通り、先生は碧くんでお願いしたいのだけれど……」
そう言って、私は持っていた名刺の裏に個人の連絡先を書き入れて碧くんに渡した。
私に向かって「ありがとう」と言った碧の笑顔が眩しかった。
診察室の扉を開いてくれている看護師さんも、とびきりの笑顔を向けてくれている。
謝るのは私なのに……
釈然としない思いが巻いていたが、ここは病院の診察室。
碧くんと会う日までに、どう話をするべきか考えをまとめておかなくては……。
そう考えながら診察室を後にした私は、看護師さんが満面の笑みと共に、扉を支える反対側の手を力強く握りしめていたことに気づいていなかった。
☆…♩♪♩. ♩♪|♪♪♪♩. …☆
「み~ど~り~!」
医局で満面の笑みの咲田に迎えられる。
「今日、飲みに行く?
会った後、飲みに行く?
両方とも行く?」
「僕が行きたい時に行く」
「はぁ~。相変わらず冷たい奴だね~。
俺、デートにいい場所知ってんだけどな~
女の子が、とっっっても好きそうな場所なんだけどな~」
「………今日、行く」
「よしよし。素直になれよ~」
☆…♩♪♩. ♩♪|♪♪♪♩. …☆
碧くんと会うことになった私を、母はにこやかに送り出してくれた。
「いってらっしゃい!
矢那井先生、今日は彩李をよろしくお願いしますね」
病気が発症してから、過保護すぎるくらいに行動の制限をしていた母なのに、今日は笑顔で見送ってくれている。
碧くんと一緒だから、万が一体調が悪くなっても大丈夫だと思っているのだろう。
それに……
昨夜、私は母に高校生の時の出来事を話した。
母は「ただの同級生にしては、彩李の様子がおかしかったから、何かあるとは思っていたのだけど、そういうことだったのね」と言った後、「まあ、それもきっかけだし、縁あって再会したんだもの。過去は過去として、明日はきれいさっぱり洗い流していらっしゃい」と背中をトントンと叩いて励ましてくれたのだった。
母は、小さいころからいつも私の心を軽くしてくれる。
嫌なことを言われたり、苛められて落ち込んでいる私に、いつも寄り添ってくれた。一緒になって悲しんだり怒ったりしてくれて……そして必ず最後には気持ちが前向きになる言葉をかけててくれたのだった。
元来、前向きな性格である母の口癖は「なるようになるわ!」
言い換えれば「なるようにしかならないわ。だから、最善を尽くしなさい」ということ。
今回も母に勇気をもらい、私は私に出来ることをしようと思えたのだった。
助手席のドアを開けてくれた碧くんに「ありがとう」と言って車に乗り込む。
「同僚に景色の良いところを教えてもらったんだ。
彩李ちゃん、せっかくの休暇だったのに、病気でどこにも行けなかったでしょ。
だから、今日は気分転換も兼ねようと思ってね」
そう言うと、碧くんは郊外へと向かって車を走らせた。
運転する碧くんをそっと盗み見る。
あれからもう10年以上たってお互い社会人なのだから、車を運転しているのだって当たり前。
そう思うのに、穏やかな顔で車を運転している横顔を見ていると、これから話すことへの緊張のためかトクトクと脈が早くなっているように感じる。
車の中では、碧くんが昨日や今朝の状態を尋ねたり、薬のことを話したり。
おととい通院したばかりだったが、休暇を終え仕事を始めた私のことが主治医として気になっているようだった。いつもと変わらない会話に助けられて、気まずくなることもなく目的地へとたどり着いた。
車から降りて丘陵の上に建つレストランまで少し歩くと、目の前に一面の菜の花畑が広がった。小高い丘の上から斜面に沿って流れるように咲いている。
菜の花の周りには桜の木も数本植えてある。ちょうど5分咲きほどだろうか。
柔らかな黄色に淡いピンク色が青い空に映えていて、思わず立ちつくす。
「素敵!」
「うん、綺麗だね。食事の前に少し歩く?」
「いいの?」
「予約の時間まで、まだしばらくあるから大丈夫だよ」
目の前に広がる景観に自然と顔もほころぶ。
菜の花畑の中は散策道が作ってあり、中を歩けるようになっていた。
風に揺れる花々の中を進んでいくと、東屋が見えた。
少し小高くなった東屋のベンチに座る。
ふうっと息を吐いて視線を前に向けると、遠くには海も見える。
「きれい…」
「うん。きれいだ…」
風に揺れる菜の花と桜、青い空と海はどこまでも青く輝いていて……東屋から見える景色はどこまでも穏やかで美しかった。
緊張して硬くなっていた身体も心も、この景色の中でほぐれてきたのが感じられる。
今なら話せる。
私は心を決め、大きく深呼吸して碧くんに目線を向けた。
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