レオンことレオンハルト
初めての入院を経験した私は、翌日病院から帰って来ると、今回のドイツ行きで会う予定だったレオンにメッセージを送った。
レオン、ことレオンハルトは、私のドイツに留学した際に同じ学校に在籍していた4歳年下のドイツ人だ。彼はこれまでもコンクールで入賞を重ねていたが、昨年は国際コンクールで優勝していて、今注目されているヴァイオリニストのひとりとなっている。
彼は今年の夏、都内で開催されるのサマーミュージックフェスティバルに、オーケストラのソリストとして招かれている。
フェスティバル終了後は、子どもたちの夏休みに開催される弦楽器セミナーの講師として、個人レッスンやアンサンブル指導の依頼が来ているらしい。
そして、せっかく日本に来るのだからと彼は数箇所でのソロリサイタルのスケジュールを組んでいて、ピアニストとして私が同行することになっていた。
レオンと出会ったのはドイツの大学に通い始めてしばらく経った頃だった。
私が練習室でピアノを弾いていた時に、いきなりドアをノックして入ってきて、早口なドイツ語で一方的に自己紹介し、伴奏を依頼してきたのだ。
突然、見知らぬ男の人から話しかけられた驚きは恐怖に近いものだった。
まだ慣れない早口のドイツ語を頭の中で反芻して、ようやく理解した私が返事するよりも早く「嫌って言わないから、いいんだよね。これからよろしくね!」と輝くような笑顔で押しきられた衝撃は忘れられない。
入学したての彼は、伴奏者のパートナーを探すために、ここ数日練習室に通ってピアノを弾く生徒の練習を聴いて誰が良いかと吟味していたらしい。怖いと思っていたが、「君と一緒に演奏したらもっと世界が広がりそうだから」と言われたことは嬉しくて、勇気を出して引き受けることにした。
最初の頃こそ不安はあったけれど、お互いにより良いものを創り上げたいという思いは一緒で、すぐに不安は無くなった。時々曲の解釈などの違いで議論することもあったけれど、むしろそれは新しい発見も伴う楽しいものだったから。
私が仕事とするコレペティトアは、大きく分けると歌手を相手としたもの、弦楽器や管楽器や打楽器などの器楽を相手としたもの、バレエダンサーを相手としたものの3つに分けられる。
私が在籍していた大学では、どのコレベティトアにも共通して必要な実技や理論を学んだ後、どれを専門とするかを選択することになっていた。
高校生の時に合唱部の伴奏をしていたこともあって、日本を出る時は歌手を相手のコレペティトアにも魅かれていたのだが、結局レオンとの出会いが私を器楽コレペティトアへと進ませることになったのだった。
今回、久しぶりとなる彼との演奏をとても楽しみにしていて、ドイツに行った時にも合わせる約束をしていたのだが……
“アイリー大丈夫?
今すぐに僕が日本に行きたい!
でもスケジュールが詰まっていて日本に行くだけの日数が無いんだ。
ごめんね、アイリ―。
伴奏については、何も心配していない。
アイリ―とだったら、いつも素敵な音楽を創れるから僕は何の不安もない。
大丈夫だよ。
それよりも、早くアイリ―と会いたい!
日本で会える日を楽しみに僕も頑張るよ。
好きだよ、アイリ―“
相変わらず突っ走り気味のレオンからのメールに苦笑しつつ、変わっていない彼の様子にホッとする。
レオンは私のことをアイリ―と呼ぶ。
日本語では最後を伸ばさないのだが、ドイツではアイリ―という名前を女の子に付けることもあるようで、レオンにとってはそちらの方が馴染みやすかったようだ。
名前を教えるとアイリ―と呼ぶようになった。
“私も久しぶりに一緒に演奏できるのを楽しみにしている“ と返信し、今後もメールで打合せすることにしたのだった。
☆…♩♪♩. ♩♪|♪♪♪♩. …☆
それにしても……と、私は淹れたばかりのレモンティーを手にソファに座っている。
これまで自由になる時間はほぼピアノを弾いていたから、ピアノを弾かないとなると何をしてよいのか判らない。
なにせ、ソファよりもピアノ椅子に座っている時間の方が断然長かったのだ。
この1週間、ソファに座る時間が長くなればなるほど、罪悪感を感じてくつろげない自分を笑う。
そろそろ、ピアノ弾いてみても大丈夫だろうか……
明日はまた病院に行く日だ。
1週間あの不味い薬を飲み続けていたせいか、耳が詰まった感じも気にならなくなっている。
両親と話しても、テレビから流れてくる音声を聞いても違和感はない。
明日の診察前に、ピアノを弾いた時の自分の耳の状態を把握しておきたいと母に伝えると「少しの時間だけね」と、しぶしぶ了承してくれた。
1週間ぶりにピアノの蓋を開ける。
鍵盤が指に吸い付くような感覚が久しぶりで嬉しい。
鍵盤に触っただけでドキドキするなんて……
逸る心を抑えながら、半音階で再低音から最高音まで音を鳴らす。
「完全に元に戻ったというわけじゃないけど、気持ち悪くはない…かな」
目を閉じて耳の感覚を研ぎ澄ます。
耳の状態を探りながらではあったけれど、1週間ぶりに弾いたピアノの音色は心地よくて、やっぱり私はピアノを弾くのが好きなんだと思った。
もっと弾いていたかったけれど「そろそろ終わりよ」と母が声をかけに来た。
名残惜しかったが、無理は禁物と言い聞かせて蓋を閉めたのだった。
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