自覚そして葛藤
音楽室がある校舎に近づくと、ピアノの音が聴こえてくる。
窓が開いていたこともあって、思っていたよりもよく聴こえてきた。
僕は校舎の壁に佇み、耳を澄ませ……僕は流れてくる音色に心奪われた。
彼女が奏でるピアノは、1音1音が本当に美しかった。
音の粒が重なって多彩な音色を奏で、まるで絵画のように情景が目の前に広がるようだった。
義務感だけで弾いていた僕の演奏と全く違う。
同級生がこんな演奏をするなんて衝撃的だった。
もっと聴いていたい……
それから僕は時間を見つけては、部活帰りに音楽室のある校舎の下で彼女の弾くピアノを聴いてから帰るようになったのだった。
家でも進んでピアノを弾くようになった僕に、母は「もういつ辞めてもいいわよ」なんて言い出した。
ようやく楽しく弾けるようになったのに、それは無いだろうと思ったが「ピアノを楽しいと思えるようになったみたいだから」と。
傍から見れば、僕が彼女のことに夢中になっていたのは一目瞭然だったが、特定の誰かに思い入れなどを感じたことがなかった僕は、この頃になっても自分が誰かを強く思っているなんて、これっぽっちも気づいていなかった。
只々、彼女の弾くピアノを聴きたかった。
飽きもせず彼女の弾くピアノをこっそりと聴いているということが、どれほど彼女に執着しているのかを物語っているのだが、僕が自覚するのはまだ先のことだった。
そんなことを2年近くも続けていたある日、部活が終わっていつものように音楽室のある校舎の方へ向かうと、いつも僕がいるはずの場所に優輝が立っていた。
「碧、おまえ…ずっと聴いていただろう。彩李のピアノ」
「……」
いつもの明るい雰囲気は影を潜め、苦虫を嚙み潰したかのような顔で話し出されて、僕は動揺を隠せなかった。こっそりと聴いていたことに対しては罪悪感があった。
「彩李には話していない。碧、おまえピアノ弾けるんだって?
彩李は知らないよな」
「……ああ」
「……いつから好きなんだ?」
「……え?」
苦しそうな顔で「いつから?」と尋ねられ驚いた。
僕が彩李ちゃんのことを好き?
何を言っているんだろう?と思ったが、「好き」と言う言葉に妙に納得している自分がいることに気がついた。
ああ、そうか。
僕は彩李ちゃんのことが好きだったんだ。
自分の中にある感情がようやく腑に落ちた瞬間だった。
彼女のから目が離せなかったこと。
ふたりを見ていて感じた心のザラつき。
そして、彼女のピアノを聴いて感じた心の高揚。
時間を見つけては彼女のピアノを聴きに来ていたこと。
全て彼女のことを特別に思っていたからだと気づいてしまえば、どうして今まで気づかずにいたのかと不思議になるほどだった。
たった今、目の前に降ってきたばかりの感情は、柔らかい光に包まれたような暖かさを持ちつつも、どこか切なくて……。
自覚したばかりの自分の気持ちを、自分だけで大切に味わいたいと思ったが、目の前には答えを待っている優輝がいる。
彼を無下に扱うことはできなかった。
僕は沈黙と言う名の時の下、しばらく自分の気持ちを整理する。覚悟を決めて大きく息をつくと優輝を正面から見つめた。
「僕は、ようやく自分の気持ちに向き合ったばかりだから、優輝に上手く伝えることができるかわからないんだけれど………
高校に合格してクラス分けテストがあった日、優輝と彩李ちゃんを見たんだ。
凛とした雰囲気をまとっているのに、優輝を見て花が開いたように笑った彩李ちゃんから目を離せなった。
思いがけず1年生で一緒のクラスになって。
ある時、彩李ちゃんがピアノを弾くことを聞いて、どんな演奏か興味を持ってここに来てみたんだ。
彼女の弾くピアノの聴いた時、いろんな情景が頭の中に思い浮かんで驚いた。
こんなに離れていても、彼女の持つ音色の多彩さが伝わってきて、ずっと彩李ちゃんのピアノを聴いていたいなって思った。
僕にとってのピアノは親に無理やり習わさせられていたものだったけれど、彩李ちゃんの演奏を聴いて、初めてピアノっていいなって、ピアノを弾くのが楽しいなって思えたんだ。
僕はこれが恋なのかは正直わからない。
これまで特定の誰かに執着したことがなかったから……
今、自分でもわからない気持ちに振り回されているところなんだ……」
恋なのかわからないと口にしたが、自分の思いと行動をつなげたら、間違いなく彼女に恋しているのだと思う。
今まで気づかずにいただけで。
ただ僕が自覚していなかったとしても、その行動が優輝を傷つけてしまったのは事実だった。
「ごめん、優輝……」
自分の気持ちに気づいてしまった以上、優輝との関係は今までとは変わってしまうだろう。
それでも優輝にも自分の気持ちにも誠実でありたいと思った。
「碧、気づいてなかったのか…」
僕の言葉を聞いた優輝は呆然と呟いた後、口をつぐむ。
束の間の沈黙の後、一瞬天を見上げた優輝は深く深呼吸すると、僕を見て話し始めた。
「俺は彩李を、そして彩李の夢を大切に思っている。
中学校で会った時、どこか人と距離をとっていた彩李が俺には心を開いてくれるようになった。前向きな姿に変わっていく様子を見て、これからも傍に居たいと思ったんだ。
でも………彩李と俺は付き合っているけれど、彩李が俺に向ける気持ちは友達の延長線でしかないよ。
彩李自身は気づいていないけれど、俺に対する恋愛感情はない。
彩李は人間関係を築くのが苦手だったから、きっと未だに好きという感情をよく解っていないんだと思う。
俺といることは嬉しいと言う。
俺は彩李といると嬉しいとか幸せだという感情と同じくらい……いや、それ以上に嫉妬や不安で苦しくなる。自分が嫌になるほどに。
それでも俺が彩李の一番近くに居たかった。
だから、俺が誰よりも近くに居れるように他の人に対して牽制してたんだ。
碧の気持ちには、碧が自覚する前から気づいてたよ。
だから俺は………」
優輝の顔が悲しそうに歪んで、視線を外す。
「彩李は俺のものじゃない。彩李は彩李自身のものなのに…な」
今の優輝は、いつもの様子からは想像できないほど余裕のない姿だった。
誰が見ても仲の良いふたりだったけれど、近くにいるからこそ気づいてしまう思いに苦しんでいることが痛いほど伝わってきた。
「僕は…」
「俺、譲る気はないけど、邪魔する気もないから……」
再び目を合わせた優輝は僕の言葉を遮るように言うと、その場を去って行った。
彼はどんな思いで今日ここに来たのだろう。
自分の気持ちを真っ直ぐに伝えながらも、不安や弱さもさらけ出して……優輝がどれだけ彩李ちゃんのことを思っているのかが嫌というほど伝わってきた。
校舎の入口へと向かう優輝の背中を見ながら思う。
僕の彩李ちゃんへの思いは、優輝の思いに敵うのだろうか……と。
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