【審査④:婚約破棄】謀略姫―婚約破棄された令嬢は、微笑んで席を立つ―
本作はフィクションです。
日本法は内部査定の物差しです。
肩の力を抜いてお楽しみください。
「先輩!」
審査室の扉が開くなり、リリアが上機嫌で入ってきた。
テミスは手元の端末から顔を上げる。
「今日も元気だね」
「はい! 今回の方は、大丈夫だと思います!」
「その台詞、何回目?」
「今回は本当にですって!」
リリアはテミスの隣まで来ると、嬉しそうに話し始めた。
「ずっと微笑んでいる、すごく優しそうな方でした。重要事項の説明もちゃんと最後まで聞いてくれましたし、途中で質問もありませんでした。終わったあとも、『よく分かりました』って」
そこまで言ってから、少しだけ首を傾げる。
「ただ、説明している間、書類じゃなくて、ずっと私を見てたんですよね」
「話してるんだから普通じゃない?」
「そうなんですけど……なんとなく気になっちゃって」
自分でも大したことではないと思っているらしく、リリアはすぐに笑った。
「まあ、私の気にしすぎですよね」
「じゃ、見てみようか」
テミスが端末へ触れる。
正面のモニターに光が灯った。
王宮の大広間から、いつの間にか音楽が消えていた。
磨き上げられた大理石の床に燭台の灯りが映り、つい先ほどまで談笑していた貴族たちも、今は広間の中央へ視線を集めている。
「セレスティア・アルヴェイン。私は本日をもって、貴様との婚約を破棄する!」
第一王子の声が、高い天井へ響いた。その隣には、淡い桃色のドレスをまとったリゼットが寄り添っている。
対するセレスティアは、手にしていたグラスを卓上へ戻しただけだった。驚いた様子も怒った様子もなく、薄く微笑んだまま、わずかに首を傾ける。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「まだ白を切るつもりか!」
王子は待っていたとばかりに、彼女の罪を並べ始めた。
リゼットへの嫌がらせ。社交界での悪評。破損した衣装。細工された馬車。それらを理由に、王太子妃にふさわしくないとまで言い切る。
「これらについては、すでに父上にも報告してある。婚約の解消についても、ご理解いただいている」
広間の奥、玉座に座る国王は否定しなかった。王子一人の思いつきではないらしい。
それでも、セレスティアの微笑みは変わらない。
少し離れた位置に控える執事へ一度だけ目を向け、卓上へ置いた指先を静かに動かした。
コツ、コツ。
ほんのわずかに間を置いて、もう一度。
執事は何も言わず、一礼した。
「では殿下。先月十八日、私がリゼット様の馬車へ細工を命じたという件から、お願いいたします」
「ああ。それがどうした」
「その日、私は王都におりません」
国王の前へ、侯爵領で催された式典への出席記録が差し出された。現地の役人たちの署名と、彼女が王都へ戻った日時まで残されている。
「ならば、使用人へ命じたのだろう!」
「その可能性はございますね」
セレスティアは穏やかに頷き、すぐに次の資料が差し出された。
そこから先は早かった。
王子が疑いを口にするたび、必要な記録だけが国王の前へ運ばれていく。証言の日付は合わず、関係者の行動とも食い違い、証拠として提出された手紙には、その日付では使われていない紋章の封蝋が押されていた。
セレスティアは余計な言葉を挟まない。ただ相手の説明を聞き、必要になったところで視線を動かす。
やがて国王が、長く息を吐いた。
「……お前は、これらを事実として余へ報告したな」
「父上、私は――」
王子の声が止まる。
その静けさの中で、セレスティアはゆっくりと立ち上がり、ドレスの裾を整えて国王へ一礼した。
「陛下。婚約の解消については、承知いたしました」
「……何?」
「殿下が望まれない婚姻を、私も無理に続けるつもりはございません。ただ、皆様の前で私が行ったとされた事柄については、殿下ご自身の言葉で訂正をお願いいたします」
王子の表情が固まる。
「また、今回の告発によって私と侯爵家に生じた損害については、正式に賠償を求めます。婚姻準備に伴う費用につきましても、事前の取り決めに従って清算を」
国王は差し出された契約書へ目を通した。
「認めよう」
「父上!」
「黙れ。婚約の解消は認める。しかし、事実でない内容を余へ報告し、衆目の前で侯爵家の令嬢を辱めたことまで見過ごすつもりはない」
告発はこの場で訂正させ、損害については正式な協議に応じる。清算も取り決めどおり行う。
そう告げられると、セレスティアは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
王子は悔しげに唇を噛んだが、隣のリゼットへ目を向けると、わずかに安堵した。
望んでいた婚約の解消だけは手に入った。
――このときの王子は、そう思っていた。
「それでは、失礼いたします」
セレスティアが踵を返しかけた、そのときだった。
大広間の扉が開き、一人の令嬢が姿を現す。その後ろから、さらに二人が続いた。
王子の顔から余裕が消えた。
「……なぜ、お前たちがここに」
「殿下からお招きいただいたものと思っておりましたけれど」
リゼットが不安そうに王子を見上げる。
「殿下……?」
セレスティアは足を止めた。
振り返った彼女の指先には、いつの間にか数通の封書が挟まれている。
「待て」
その声には答えず、セレスティアは指先を開いた。
白い手紙が燭台の光を受けながら、大広間へ舞い上がる。
一枚を拾ったリゼットの瞳が、数行を追ううちに大きく見開かれた。
「……殿下」
「違う。それは――」
「これは、何なんですか!!」
別の令嬢も手紙を拾い上げる。
「私には、卒業後に必ず迎えると……」
「こちらには、現在の婚約は政略上のものにすぎないと書いてありますけれど」
「お前たち、落ち着け!」
問い詰める声が重なり、王子は誰かへ答えようとしては、別の手紙を突きつけられる。
その騒ぎの中で、セレスティアだけが静かだった。
王子にも手紙にも目を向けず、ドレスの裾を軽く整えると、そのまま扉へ歩き出す。
扉の先で一度だけ足を止め、肩越しに広間を振り返った。王子は、リゼットと三人の令嬢に囲まれている。
セレスティアの唇に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「では、皆様。ごきげんよう」
「……っ、かっこいい!」
リリアが身を乗り出した。
「先輩、見ました!? 何も言わずに手紙だけ撒いて、そのまま帰っちゃいましたよ!」
「見てたよ」
興奮の冷めやらぬリリアは、最初から最後まで取り乱さず、最後には王子の方が囲まれていたと一息にまくし立てる。
テミスはセレスティアの後ろ姿を眺めてから、映像を婚約破棄の場面まで戻した。
「最後のはあと。まずこっちからね。マリアのときもそうだったけど、本当に多いなぁ。異世界って、そんなに人前で婚約破棄したくなるの?」
「流行ってるんじゃないですか?」
「嫌な流行だなぁ」
映像を進めると、セレスティアが王子の告発を崩していく。
「……マリアさんのときより、ずいぶん普通ですね」
「なに言ってんの。こっちが本道だよ」
「でも、マリアさんも全部セーフでしたよね?」
「あれはマリアだからできた芸当。攻撃してきた相手だけ止めて、降参したら追わない。関係ない相手には手を出さないし、火事になっても必要なところだけ壊して逃げ道を作る。見た目より相当難しいことやってるからね」
リリアが横から顔を覗き込む。
「先輩、マリアさん好きですよね」
「あの子は好きだね。自分が何してるか分かってるし、止まるところでちゃんと止まるから」
テミスは何でもないことのように答え、画面を王子へ戻した。
「でも、あれを基準にしちゃ駄目。普通は、本人を呼んで事情を確認して、婚約を解消するなら条件も含めて協議する」
「地味ぃ……」
「人の人生に関わる話を、盛り上げようとしないで」
テミスは居並ぶ貴族たちを示した。
「しかもこの王子、これだけ人がいるところで、やってもいない嫌がらせまで事実みたいに並べてる。誰に知られて、その後どんな影響が出たかは、損害を見る事情にもなるんだから」
自分から話を大きくしているのだと分かり、リリアも納得したように頷く。
「だから、公の場で訂正を求めて名誉を回復する。具体的な損害が出ているなら、その分の賠償も求める。ここは問題なし」
【虚偽の告発に対する訂正・損害賠償】
――SAFE
「次。婚約をやめることと、それまでの取り決めをどう片付けるかは別ね」
国王へ差し出された契約書が表示される。
「婚姻準備の費用や、途中で解消した場合の清算方法は先に決めてる。セレスティアも結婚を続けろとは言ってない」
「『やめるなら、約束どおり片付けてください』ですね」
「そういうこと」
【婚約解消に伴う契約上の清算】
――SAFE
二つ並んだSAFEを見て、リリアの顔が明るくなった。
「じゃあ、完璧じゃないですか!」
「綺麗だったね」
リリアが眉を上げるのを横目に、テミスは映像を進めた。
三人の令嬢が現れ、恋文が宙へ舞う。
「……あ」
「やられたこと、そのままやり返してるなぁ」
リリアは画面の中を舞う手紙を見つめ、少し迷ってから声を落とした。
「……でも、すっごくスカッとしました」
「気持ちは分かるよ。ただ、他に相手がいた事実を反論材料にするのと、恋文の中身まで公開するのは別」
誰に何を約束し、婚約者との関係をどう説明していたのか。その内容まで大広間に晒されている。
「反論に必要なところだけ使うならまだしも、恋文そのものをこんな場所で撒いたら話は別。日本法を物差しにするなら、プライバシー侵害を中心に不法行為の問題が出てくるね」
【必要な範囲を超えた私信の公開】
――OUT
リリアは残念そうに結果を見つめたあと、それでも退出は格好よかったと呟いた。
「そこは否定してないよ」
テミスも少しだけ笑い、結果を確定させようとした。
その指が止まる。
「……待って」
映像を巻き戻し、反証資料、契約書、三人の令嬢、恋文を順に見直した。
「リリア。この子、なんでここまで準備できてたの?」
契約書は自分のものだから不自然ではない。それでも王子の告発への反証は揃いすぎており、三人の令嬢はちょうどあの時間に現れ、恋文までセレスティアの手元にある。
リリアも表情を変え、自分の端末を開いた。
二人で記録を辿るが、婚約破棄の日時や告発内容を事前に知らされた形跡はない。女性たちを誰が呼んだのかも、恋文をどう入手したのかも分からなかった。
「……ないですね」
「そうなんだよね」
事件前まで遡っても、記録そのものは残っている。ただ、今回の準備へ直接つながるものだけが拾えない。
テミスはやがて、大広間でセレスティアが指を動かした場面を呼び戻した。
コツ、コツ。
ほんの少し間を置いて、もう一度。
「これ、たぶん符号だね」
「意味は?」
「分からない。対応表も、比較できる記録もないから」
テミスは画面を止めた。
「あの場で初めて考えたとは思いにくい。何が出てくるかをある程度読んで、前から準備してたんじゃないかな。この徹底ぶりだと、王子というより、王家まで相手にするつもりだったようには見える」
「それなら、その辺りも審査を――」
「できない。何をしたのか認定できる材料がないから」
恋文の取得方法も、女性たちを呼んだ人物も、婚約破棄そのものに働きかけたかどうかも分からない。
「怪しいだけで、やったことにするわけにはいかないよ」
【情報収集及び事前工作】
複数の疑義あり。
ただし、取得方法、指示系統及び準備経緯を確認できる資料なし。
推測の域を出ないため――
判定対象外。
「……ほんと徹底してるな、この子」
リリアはしばらく結果を眺めたあと、遠慮がちに自分の査定を尋ねた。
「今回は減点なし」
「よかったぁ……!」
「恋文は本人の判断だし、事前工作は何をしたのかすら認定できない。そこをあなたの減点にはできないよ」
テミスは安堵するリリアを横目で見た。
「まあ、リリアとこの子じゃ、役者が違いすぎるけど」
「それ、私のこと全然褒めてませんよね!?」
「褒めてるのはセレスティアの方だからね」
「もっとひどい!」
【担当女神査定】
減点なし。
リリアは改めてモニターへ目を向けた。
「でも、先輩。この人、どこまで見通してたんでしょう」
「それ、私も聞きたい。婚約破棄されることまで読んでたのか、王子が何を持ち出すかまで予測してたのか……」
テミスは少し眉を寄せた。
「分かんないなぁ」
「先輩、ちょっと悔しそうですね」
「…………私、この子嫌い」
突然の言葉に、リリアの目が丸くなる。
「何考えてるのか分かんないし、絶対なんかやってると思うのに、証拠がない」
「さっき、マリアさんのことは好きだって即答してたのに」
「マリアは何やってるか分かるもん」
「それ、審査と関係あります?」
「ないよ。感想」
テミスは不満そうに端末を閉じた。
そこでリリアが「あ」と声を上げる。
「そういえば、最初に言いましたよね。この人、転生の説明をしてる間、書類じゃなくて私の方をずっと見てたって」
テミスの手が止まった。
説明には最後まで耳を傾け、質問もせず、ただリリア自身を見続けていた。
テミスは閉じた端末へ一度だけ目を落とし、机の端へ押しやった。
「証拠ないから、やめとこ」
光の消えたモニターをしばらく眺め、小さく息を吐く。
「……ほんっと、この子嫌い」
◇ ◇ ◇
侯爵邸のテラスには、夕日の柔らかな光が満ちていた。
白い石柱の向こうには、黄金色の花畑がどこまでも広がっている。
セレスティアはテラスの椅子へ腰掛け、白磁のカップを指先で持ち上げた。
長い髪が風にさらわれ、黒いリボンと細かな飾りがわずかに揺れる。
昨日、王宮で起きた騒ぎなど、最初から何もなかったかのようだった。
セレスティアはゆっくりと紅茶を口に含んだ。
「……いい香りね」
「本日は、東方から届いた茶葉でございます」
「そう」
満足そうに目を細め、カップを静かにソーサーへ戻す。
小さな陶器の音が、風に揺れる花々の音へ溶けていった。
セレスティアはそのまま、沈みゆく夕陽を眺める。
しばらくその景色を眺めたあと、セレスティアはほんの少しだけ口元を緩めた。
王宮で見せていたものと変わらない、穏やかな微笑みだった。
――コツ、コツ。
第4回は、婚約破棄でした。
今回は、やられた側はどこまでやり返していいのか。そして、どう見ても怪しいけれど、何をしたのか認定できない場合をどう扱うのか、というお話でした。
本編ではテンポを優先して、法律の話はかなり省略しています。
今回の審査をもう少し詳しく見たい方向けに、
『女神テミスの異世界補講室――その判定、もう少し詳しく説明します――』
で【補講④】を公開しています。
そちらでは、婚約解消に伴う清算や私信の公開、そしてなぜ事前工作についてはSAFEでもOUTでもなく「判定対象外」になったのかについて、もう少し細かく扱っています。




