【審査③:死に戻り】タイムレス・ゲームーあなたには初めての私ー
本作はフィクションです。
日本法は内部査定の物差しです。
肩の力を抜いてお楽しみください。
「先輩、遊びに来ました!」
審査室の扉が勢いよく開いた。
テミスが端末から顔を上げると、いつものように明るい顔をしたリリアが立っていた。今日は書類も抱えていなければ、転生者を送り出した直後でもないらしい。
「職場に遊びに来たって宣言する新人、初めて見た」
「今日は私の担当、入ってませんから。それに、先輩のところなら何か勉強になるかなって」
「後半を先に言いなよ」
そう返しながらも、テミスは追い返す様子を見せなかった。
リリアは慣れた様子で机の前まで歩いてきたが、そこでようやく、テミスが先ほどから同じ画面を何度も確認していることに気づいた。
「何かあったんですか?」
「今日、審査が一件入ってるんだけどさ」
テミスは端末に表示された予定表を見せた。
「担当の子が来ないのよ」
「遅刻ですか?」
「開始時刻はもう過ぎてる。連絡もなし」
「それは駄目ですね」
「あなたが言うと、ちょっと引っかかるんだけど」
「なんでですか!」
リリアは不満そうに頬を膨らませたが、すぐに予定表へ視線を戻した。
「担当の方がいなくても、審査はできるんですか?」
「記録自体は届いてるからね。確認だけならできるよ。ただ、分からないことが出ても本人には聞けないけど」
「じゃあ、私も見ていていいですか?」
「別にいいけど、あなたの案件じゃないよ?」
「分かってます。勉強です!」
妙に誇らしげな顔をする新人に、テミスは少しだけ笑った。
「まあ、好きにして」
「はい!」
リリアが隣の椅子を引き寄せる。
テミスは届いていた審査記録を開いた。正面のモニターにも光が入り、暗い画面の中央に、雨の中で立ち尽くす少女の姿が浮かび上がる。
映像を一度確認してから、テミスは画面へ指を伸ばした。
「じゃ、始めようか」
頬を、冷たい雨がなでた。
目を開けたとき、私は見知らぬ通りの真ん中に立っていた。
足元には雨を吸った黒い石畳が続き、両側には煉瓦造りの建物が肩を寄せるように並んでいる。壁を這う太い金属管から白い蒸気が漏れ、頭上では歯車の組み込まれた時計塔が、雨音に混じって低く軋んでいた。
さっきまで学校からの帰り道を歩いていたはずなのに、制服も鞄も、ポケットに入れた家の鍵さえそのままで、街だけがまるごと知らないものに変わっている。
「……何、ここ」
傘を差した人々は、濡れた制服姿の私を気に留めることもなく通り過ぎていった。何人かに声をかけても怪訝そうな顔をされるばかりで、言葉が通じているのかすら分からない。
歩き続けるうち、濡れた靴から冷たさが這い上がり、とうとう指先の感覚まで薄れてきた。
そのころになって、不意に頭上から雨音が消えた。
「……大丈夫?」
顔を上げると、私より少し年上に見える青年が傘を差し出していた。
灰色の外套の下からのぞく服は、この街の人たちと同じ古めかしいものだった。それなのに、彼の言葉だけは不思議なくらい自然に聞き取れた。
「言葉、分かる?」
「……はい」
やっと返事をすると、青年はほっとしたように笑った。
「よかった。こんな雨の中にいたら風邪をひくよ。俺はユアン。君は?」
名前を答えると、彼は近くに雨をしのげる場所があると言って歩き出した。
私は誘われるまま傘の下へ入り、それだけで少し泣きそうになった。
この街で初めて、私を見つけてくれた人だった。
だから、細い路地へ入っても疑わなかった。ユアンが足を止めて振り返ったときにも、何かを警戒する理由などなかった。
「ごめん」
何を謝られたのか分からなかった。
腹の奥へ、焼けた鉄を押し込まれたような熱が走るまでは。
痛みは少し遅れてやってきた。息ができなくなり、力の抜けた膝が石畳へぶつかる。そこでようやく、ユアンの手に握られたナイフと、制服の腹に広がっていく赤い染みが見えた。
雨が再び頬へ落ちてくる。
腹の奥だけが焼けるように熱いのに、頬も指先も、地面についた手のひらもひどく冷たかった。
最後に見えたのは、苦しそうに顔を歪めたユアンだった。
◇ ◇ ◇
気がつくと、私は同じ通りに立っていた。
頬には、また冷たい雨が降っている。
時計塔の針は、午前零時を指していた。
夢だと思うしかなかった。それでも、少し待てば頭上から雨音が消え、まったく同じ声が降ってきた。
「……大丈夫?」
ユアンは私を知らない顔で、同じ傘を差し出している。
何も言えないまま二度目の夜をなぞり、私は再び同じ路地で刺された。一度目と違ったのは、ナイフが身体へ入ってくる瞬間を知っていたことだった。
それだけで、痛みは前より怖かった。
―――三度目は、ユアンの姿を見た瞬間に逃げた。
通りに停まっていた馬車へ飛び乗り、御者を押しのけて見よう見まねで手綱を引く。馬車は勢いよく走り出したが、これなら逃げられると思った直後、濡れた交差点で車輪が滑った。
身体が宙へ投げ出され、背中から石畳へ叩きつけられる。腹を刺されたときとは違い、今度は身体の内側まで砕けていくような痛みだった。
―――次の夜は、逃げなかった。
午前零時を少し過ぎたころ、私はユアンが現れる路地の角で待った。手には、少し前に拾っておいたナイフを握っている。
やがて、灰色の外套が見えた。
まだ私を見つけてもいない。傘も差し出していない。
それでも私は走り、気づいて振り返ったユアンの腹へ、そのままナイフを突き立てた。
「……え?」
力の抜けた身体を抱えるようにして、ユアンが石畳へ座り込む。
その目に浮かんでいたのは、怒りでも憎しみでもなかった。
本当に、何が起きたのか分からない顔だった。
それを見た途端、血に濡れた自分の手から目を離せなくなった。
この夜のユアンは、まだ私を殺していない。
前の夜で私を二度殺したことも、今ここで刺された理由も、この人は何も知らない。
やがて、午前四時の鐘が聞こえた。
◇ ◇ ◇
次の夜は、殺す前に理由を聞くことにした。
路地裏に捨てられていた薄い鉄板を制服の下へ仕込み、最初の夜と同じようにユアンの傘へ入る。
細い路地で、彼が足を止めた。
「ごめん」
腹へナイフが突き出され、鉄板を叩く甲高い音が響いた。
ユアンが目を見開いた隙に手首をつかみ、ナイフを奪う。そのまま壁際まで追い込み、今度は私が刃先を向けた。
「動かないで。どうして私を殺すの」
ユアンは答えなかった。
もう一度尋ねると、やがて諦めたように目を伏せた。
「妹がいる」
彼の妹は、ある組織に捕らえられていた。
助けたければ、夜明けまでに異世界から来た人間を一人殺せ。そう命じられているのだという。
「……それが、私?」
「今夜来るって聞かされてた」
胸の奥が冷えたのは、雨のせいではなかった。
ユアンは私を憎んでいたわけではない。私のことなど何も知らないまま、妹を助けるためだけに私を殺していた。
―――そこから先は、数えるのをやめた。
妹が捕らえられている場所を先回りして探し、治安隊へ組織の情報を流した。真実を信じてもらえず、爆発物があると嘘をついて踏み込ませたこともある。
その夜は、組織が動きを察知して妹を別の場所へ移した。
ユアンを先に止めればいいと思い、背後から殴って気絶させた夜には妹が死んだ。組織へ忍び込んでも、妹だけを連れ出そうとしても、ユアンへすべてを話して協力を求めても、どこかで別の歯車が狂った。
私が助かればユアンが死に、ユアンを助ければ妹が死ぬ。二人を助けようとすれば、今度は何も知らない誰かが巻き込まれた。
何かを変えるたびに、別の何かが壊れた。
そして午前四時になるたび、私は冷たい雨の中へ戻された。
何度目だったのかは、もう覚えていない。
私は家と家の間にある狭い隙間へ入り込み、濡れた壁にもたれていた。
もう誰にも会いたくなかった。ユアンにも、妹にも、組織にも。
雨に濡れ続けた身体は冷えきっていた。腹を刺された痛みも、石畳へ叩きつけられた痛みも、本当はもう身体に残っていないはずなのに、目を閉じるたび鮮明に蘇ってくる。
――――どうして。私が何をしたの?
どうしようもない声が、涙と一緒にこぼれた。
帰りたい。もう何もしたくない。
遠くで鐘が鳴った。
一度、二度、三度、そして四度。
頬を、冷たい雨がなでた。
◇ ◇ ◇
私はまた、午前零時の通りに立っていた。
死ななくても戻る。逃げても、誰とも関わらなくても、この夜からは出られない。
それなら、四時間の中で終わらせるしかない。
誰か一人を切り捨てる方法は、もう何度も試した。そのたびに別の誰かが壊れたのだから、今度は逆のことをするしかなかった。
ユアンを殺さず、妹も見捨てない。嘘で誰かを危険な場所へ向かわせることもせず、私自身も死なない。
――――この四時間の中にいる全員が、朝を迎える方法を探す。
そこからも失敗は続いた。
話す順番を変え、助けを求める相手を変えた。組織の見張りが交代する時刻も、妹が移送される道も、治安隊が動くために何が必要なのかも、一つずつ覚えていった。
一人ではできないことを、誰かに頼むことも覚えた。
それでも何度も午前零時へ戻されたが、もう誰かを犠牲にして近道をしようとは思わなかった。
そして最後の夜だけは、ユアンに会わなかった。
彼が私を探し始めるより先にその場所を離れ、これまでの夜で覚えた組織の出入りや妹の移送時刻、隠れ家の場所を治安隊へ伝えた。
嘘はつかなかった。
何度も繰り返した夜の中で、彼らが実際に動くために必要な情報も知っていた。
あとは、自分にできることを一つずつ終わらせた。
やがて、時計塔が四度鳴った。
私は目を閉じ、次に来るはずの冷たい雨を待つ。
けれど、何も落ちてこなかった。
恐る恐る目を開けると、黒かった空の端がわずかに白み始めている。
ユアンも妹もいる。遠くでは治安隊が組織の人間たちを連れていき、誰も倒れていなかった。私も、生きている。
雨は、いつの間にか止もうとしていた。
しばらくして、通りの向こうからユアンが歩いてきた。
私を見つけると、少し不思議そうに首を傾げる。
当然だ。
この夜のユアンは私を刺していない。私に事情を話したこともなければ、私から名前を呼ばれたことさえない。
彼にとって私は、朝の通りに立っている見知らぬ少女でしかなかった。
ユアンは少し迷ったあと、私の前で足を止めた。
「雨に濡れてるけど、大丈夫?」
何度も聞いた声だった。
怖いと思ったことも、憎みかけたことも、それでも助けたいと思ったこともある。
けれど、朝の光の中でその声を聞くのは初めてだった。
私は少しだけ迷って、それから笑った。
「……初めまして」
モニターから朝の街並みが消え、審査室に静けさが戻った。
「よかったですぅ……!」
隣では、リリアがハンカチを握りしめたまま泣いている。
「最後はちゃんとみんな生きてて……! あの『初めまして』はずるいですよぉ……」
しばらく余韻に浸っていたリリアだったが、隣から何の反応も返ってこないことに気づき、テミスへ視線を向けた。
「……先輩?」
テミスは泣いていなかった。
むしろ、ひどく嫌そうな顔で消えたモニターを見つめている。
「これ、審査するの?」
「するんじゃないんですか?」
「するんだけどさぁ……」
テミスは大きく息を吐き、映像を巻き戻した。
他人の馬車を奪った場面、虚偽の情報で治安隊を動かした場面、そしてユアンがまだ何もしていないうちに腹を刺した場面が、順番に映し出される。
「こういうの、普通に審査対象なんだよね」
リリアの目元から、さっきまでの涙が少し引いた。
「……結構やってますね」
「でしょ?」
「でも、最後の世界では全部やってませんよね?」
「そこなのよ」
テミスは一度目と、少女が先にユアンを刺した夜の記録を並べた。
「一回目では、この子は実際にユアンに殺されてる。二回目も同じ。でも、その記憶を持って戻った次の世界で先に刺したユアンは、まだ何もしてない」
片方には少女を刺すユアン。
もう片方には、理由も分からないまま少女に刺されるユアンが映っている。
「前の世界で受けた被害を、次の世界の相手にどこまで持ち込めるのか。逆に、この子自身が消えた世界でやったことを、次の世界の本人へ引き継がせていいのか」
リリアも、二つの記録を見比べたまま黙っていた。
テミスはさらに、最後の朝まで映像を進める。
「最終世界だけを見るなら、問題になった行為のほとんどは起きてない。でも、それまでの世界を全部無視したら、この子がどうやってここまで辿り着いたのか説明できない」
リリアは少し考えてから尋ねた。
「じゃあ、世界線ごとに分けて審査するとか?」
テミスの視線が、一周目、二周目と並ぶ記録を順番に追った。
「……それなら」
世界ごとに切り分けようとして、今度は少女本人の記録に目が留まる。
「駄目だ」
「え?」
「世界ごとに完全に別なら、次の世界にいるこの子は誰なの?」
リリアは答えられなかった。
「記憶は続いてるし、それまでの経験を使って次の行動を選んでる。本人も、ずっと自分を同じ人間だと思ってる」
「……はい」
「だったら同じ人として扱うのか。でも、そうすると消えた世界でやったことも、受けた被害も全部つながってくる」
テミスの視線が、いくつもの世界線の記録を行き来する。
「そもそも、世界そのものが巻き戻ってるのか、分岐してるのか、それとも上書きされてるのかも分からない。そこが決まらないまま、どの世界の何を基準に審査しろっていうのよ」
画面には、現在には存在しない夜の記録だけが残っていた。
しばらく見つめたあと、テミスは深く息を吐いた。
「あーっ、もう無理!」
「せ、先輩?」
「駄目。今ある資料じゃ判断できない」
「じゃあ、セーフですか?」
「違う」
「アウト?」
「それも違う」
テミスは端末へ指を走らせた。
「これ、無理!」
「先輩でも分からないこと、あるんですね」
「あるよ。審査官を何だと思ってるの」
そう言って記録を閉じかけたところで、画面の端に並ぶ能力情報へテミスの目が留まった。
「……いや、待って。この子、死に戻りについて説明受けてる?」
「え?」
今度は能力付与時の記録を開く。
発動条件、復帰時刻、記憶の保持、解除条件。能力そのものの仕様は並んでいるのに、説明記録だけが空欄だった。
「初回説明は?」
「ありません」
「能力の説明書は?」
「ないですね」
「死んだら午前零時へ戻ることも、午前四時になったら強制的に戻されることも?」
「記録なしです」
テミスの視線が、説明記録の空欄からリリアへ移った。
「じゃあ、この子、自分で何度も死んだり失敗したりしながら、能力の仕様を調べたの?」
「……みたいですね」
次の瞬間、机を叩く音が審査室に響いた。
「何やってんの担当!」
「わ、私じゃないですよ!」
「知ってる!」
テミスはそのまま担当者欄を開いた。
【担当女神】
タイムレス
その名前を確認したテミスは、審査結果へ新しい項目を追加した。
【審査結果】
消滅した世界線における行為
――審査不能
能力付与時の説明
――手続上の瑕疵
担当女神タイムレス
――出頭命令
本人
――不服申立て案内送付
リリアは表示された結果をしばらく眺めたあと、朝の街並みが消えたモニターへ視線を向けた。
「……先輩」
「ん?」
「あの子は、どうなるんですか?」
テミスは端末を閉じた。
「少なくとも、今のところ取り消す理由なんてないよ」
リリアの目元から、ようやく緊張が抜けた。
「よかった……」
「で」
テミスは別の書類を引き寄せた。
「タイムレスには出頭命令」
「あはは……先輩。目が怖いです」
「絶対に逃がさない」
―― Case Pending.
第3回は、死に戻りでした。
今回は、消えてしまった世界線で起きたことをどう扱うのか。そして、死に戻りという能力そのものとは別に、付与する側の説明は十分だったのか、というお話でした。
本編ではテンポを優先して、法律の話はかなり省略しています。
今回の審査をもう少し詳しく見たい方向けに、
『女神テミスの異世界補講室――その判定、もう少し詳しく説明します――』
で【補講③】を公開しています。
そちらでは、死に戻りと消えた世界線をどう考えるのか、そしてなぜ今回は「審査不能」になったのかについて、もう少し細かく扱っています。




