第三章 ひかりの笑顔
高校三年生になって、まだ数日しか経っていない。
それなのに、六人だった仲間の輪には、もう一人の少女が自然に溶け込んでいた。
高橋光希。
東京から転校してきた才女。
最初こそ少し緊張していた光希だったが、美海やひかりと話すうちに、少しずつ笑顔を見せるようになっていた。
「光希って、本当に東京から来たんだよね?」
美海が聞いた。
「うん。でも、東京にいた期間より、転勤でいろんなところに住んでたから、東京が故郷って感じでもないかな。」
「じゃあ、沖縄もすぐ慣れるよ。」
ひかりが笑った。
「そうだね。みんながいるから、思ってたより早く慣れそう。」
光希がそう言うと、ひかりも嬉しそうに笑った。
「じゃあ、もう仲間だね」
「ありがとう。」
その会話を少し離れたところで聞いていた颯斗も笑っていた。
「本当に馴染むの早いな。」
「颯斗が言う?」
克利が笑う。
「最初から普通に話しかけてたじゃん。」
「別に普通だろ」
「はいはい。」
真弘が笑った。
そんな何気ない時間が、七人の日常になっていった。
学校が終われば一緒に帰り、時間があれば海へ行く。
くだらない話をして、笑って、時には将来の話をする。
けれど、七人の心の中には、それぞれ誰にも言えないものが少しずつ生まれ始めていた。
その一つが、ひかりだった。
放課後。
七人で帰る途中、光希が足を止めた。
「ねえ、颯斗。」
「ん?」
「私、知らなかった、この辺って、夕方になるとすごく綺麗だね。」
「そうだな。俺も好きだよ、この時間。」
「私も。」
二人は並んで夕日を眺めた。
その姿を、少し後ろからひかりが見ていた。
「いいね、二人とも。」
ひかりは笑った。
「光希、沖縄生活楽しめそうだね」
「うん。」
光希は嬉しそうに笑う。
「颯斗くんって、優しいよね」
「そうだよ。」
ひかりは笑顔で答えた。
「家族思いだしね。」
「ひかりは、颯斗のこと詳しいね」
光希が何気なく言った。
「え?」
一瞬だけ、ひかりの笑顔が止まった。
「昔から一緒だから。」
「そっか。」
光希はそれ以上聞かなかった。
しかし、ひかりの胸には小さな痛みが残った。
自分でも、その痛みの正体を分かっていた。
――私は、淳二が好き。
でも、それを言葉にすることはできない。
言ってしまえば、今までの関係が変わってしまう。
だから笑う。
何もないように。
いつものように。
その日の夜。
ひかりが家に帰ると、母親が台所に立っていた。
「おかえり、ひかり。」
「ただいま」
「今日は遅かったね。」
「みんなと話してた。」
「そう。」
母親は振り返って笑った。
「高校生活最後の一年だもんね。いっぱい思い出作りなさい。」
「うん。」
ひかりも笑った。
「楽しいよ。」
母親は娘の顔を見つめる。
「……本当に?」
「え?」
「いや、何でもない。」
母親は再び料理に目を戻した。
「ご飯できてるよ。」
「ありがとう。」
ひかりは食卓についた。
しばらくすると、家族との何気ない会話が始まる。
学校のこと。
友達のこと。
転校してきた光希のこと。
そして、将来のこと。
「ひかりは卒業したらどうするの?」
母親が聞いた。
「まだ、ちゃんとは決めてない。」
「やりたいことは?」
「・・・あるよ。」
ひかりは少し考えた。
「子どもに関わる仕事、してみたい」
母親は嬉しそうに笑った。
「ひかりらしいね。」
「そうかな。」
「うん。昔から人の面倒な事を見るの好きだったでしょう。」
ひかりは笑った。
「そうだったっけ。」
「そうよ。」
家族の温かい会話。
ひかりにとって、そこは安心できる場所だった。
だからこそ、言えないこともあった。
母親に心配をかけたくない。
家族に余計な心配をさせたくない。
だから、ひかりはまた笑った。
夜。
自分の部屋に戻ったひかりは、机の引き出しから一枚の写真を取り出した。
まだ幼かった頃の写真。
そこには、淳二たちと一緒に写っている自分がいた。
写真の中の自分は、今と同じように笑っている。
ひかりは写真の中の淳二を見つめた。
「……淳二。」
小さく名前を呼ぶ。
そして、写真を胸に抱いた。
「私・・・どうしたらいいのかな。」
答えてくれる人はいない。
ひかりは目を閉じた。
「好きって言ったら・・・今までみたいに一緒にいられなくなるのかな。」
一滴の涙が頬を伝った。
それでも、鏡を見ると、ひかりは笑った。
いつもの笑顔。
誰にも見せない、本当の自分を隠すための笑顔だった。
翌日の放課後。
七人は糸満漁港へ向かった。
夕方の海。
空は少しずつ赤く染まり始めていた。
その場所には、今日も一人の老人がいた。
七十二歳の老人。
名前は、蒲生良介。
毎日のように、決まった時間にここへやって来る。
「こんにちは。」
ひかりが声をかける。
「ああ。」
蒲生は短く答えた。
「また来たのか。」
「はい。」
「海が好きなのか?」
「好きです。」
ひかりは笑った。
蒲生はひかりの顔を見る。
しばらく何も言わない。
そして、ぽつりと呟いた。
「・・・笑ってるけどな。」
「え?」
「いや・・・。」
蒲生は海へ視線を戻した。
「年寄りの独り言だ。」
「何ですか、それ」
ひかりは笑った。
蒲生はそれ以上何も言わなかった。
ただ、ひかりを見つめる目には、何かを見透かしているような静かな優しさがあった。
そのとき――。
「蒲生さん。」
淳二が声をかけた。
「ん?」
「ここ、毎日来てるんですか?」
「ああ。」
「何を見てるんですか?」
蒲生は海を見た。
「昔から、この海を見てきた。」
「昔から?」
「長い、長い昔からだ。」
淳二は少し不思議そうな顔をした。
その瞬間。
「・・・淳二。」
蒲生の口から、突然その名前が出た。
淳二が振り返る。
「え?」
蒲生自身も、なぜその名前を口にしたのか分からないようだった。
「・・・いや。」
「今、俺の名前・・・」
「聞き間違いだ。」
蒲生はそう言って海へ向き直った。
しかし、その表情は明らかに変わっていた。
何かを思い出しかけている。
だが、その記憶はまだ深いところに眠っていた。
帰り道。
ひかりと淳二が二人になった。
「ひかり。」
「ん?」
「最近、無理してないか?」
ひかりの足が止まった。
「え?」
「なんとなく。」
「何それ。」
ひかりは笑った。
「私、いつもこんな感じじゃん。」
「そうだけど・・・」
淳二は言葉を続けられなかった。
ひかりは笑った。
「大丈夫だよ。」
「本当に?」
「うん。」
その笑顔を見て、淳二はそれ以上聞かなかった。
ひかりも何も言わなかった。
二人の間を、夕方の風が通り抜けていく。
一方、その頃。
光希と颯斗は、少し離れた場所を歩いていた。
「颯斗くん。」
「何?」
「沖縄って、いいところだね。」
「そう思う?」
「うん」
光希は夕日を見ながら笑った。
「私、ここに来て良かったかもしれない。」
颯斗は何も言わず、光希を見た。
その横顔に、少しだけ心が動く。
まだ、それが恋なのかは分からない。
光希も、自分の気持ちが恋なのかどうか、まだ分からない。
ただ、一緒にいると安心する。
その感情だけが、少しずつ大きくなっていた。
夜。
糸満漁港。
誰もいなくなった海を、蒲生良介は一人で見つめていた。
「……淳二。」
もう一度、その名前を呟く。
そして、目を閉じる。
一瞬だけ、五十年前の光景が頭をよぎった。
若かった自分。
海。
舟。
そして――。
「・・・あの事件から、もう五十年か。」
蒲生は静かに目を開けた。
まだ、誰にも話すつもりはなかった。
自分がなぜ糸満に来たのか。
なぜこの海から離れられないのか。
そして、なぜ淳二という名前に反応したのか。
それは、まだ誰も知らない。
ただ、蒲生には分かっていた。
あの七人の若者たちは、これから人生の大きな選択をする。
そして、自分もまた、その人生に関わることになる。
蒲生は夕暮れの海を見つめながら、静かに呟いた。
「……若いってのは、いいな。」
海は何も答えなかった。
ただ静かに、波の音だけを響かせていた。
十八歳の春。
七人の物語は、少しずつ動き始めていた。




