第一部 十八歳の島人 第一章 糸満の海
朝の糸満の海は、静かだった。
まだ太陽は水平線から顔を出したばかりで、空は薄いオレンジ色に染まっている。
波が寄せては返し、砂浜に小さな白い泡を残していく。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえた。
淳二は一人、海を見つめていた。十八歳。
高校を卒業してから、まだそれほど時間はたっていない。
制服を着る必要もなくなった。
毎朝、決まった時間に学校へ行く必要もない。
自由になった・・・はずだった・・・なのに
淳二の胸の中には自由になったという喜びよりも、言葉にできない不安のほうが大きくなっていた。
これからどうするんだ・・・
大学へ進む友達もいる。県外へ出て、新しい生活を始める友達もいる。
就職して卒業後は働き始める友達もいる。みんな、それぞれの道を歩い始めようとしている。
それなのに、自分にはまだ、その道が見えていなかった。
「・・・自分はなにがしたいんだろう。」
淳二は小さく呟いた。だが、返事をしてくれる人はいない。ただ、波の音だけが大きく聞こえていた。
淳二は砂浜にしゃがみ込み、足元に落ちていた小さな貝殻を拾った。
白くて、少し欠けている。
掌に乗せて、しばらく眺めた。
こんな貝殻にも、海の中で生きていた時間がある。どこから流れてきたのなのだろう。どんな景色を見てきたのだろう。そんなことを考えている自分が、少し可笑しかった。
「俺も・・・何処から来て、何処へ行くんだろうな。」
淳二は苦笑した。
十八歳になれば、もっと大人になれると思っていた。
高校生の頃は、十八歳という年齢が大人に見えた。自分の未来を決めて夢に向かって歩いている。そんな姿を想像していた。
けれど、実際の十八歳は違った。
分からない事ばかりだった。
自分が何者なのか、何をしたいのか、何のために生きているのか、そんなことばかり考え始めていると、答えようのない迷路に入り込んだような気持ちになる。
淳二は立ち上がった。海を見る。
水平線の向こうには沖縄本島の外の世界がある。さらにその先には、本州があり、世界がある。
テレビやスマートフォンを見れば、いくらでも知らない世界を見ることができる。
けれど、実際に自分がそこへ、行ったことがない。子の糸満の海から見える世界は、ほんの一部だった。
それでも・・・
淳二にとってこの海は特別だった。
嬉しい日も。悲しい日も。何もしたくない日も。海はいつも変わらず、そこにあった。
淳二はそんな海を見ていると少しだけ安心した。海は急がない。波は何度でも砂浜に戻ってくる。失敗しても、また戻ればいい。
そんなふうに言われてる気がした。
「淳二?」
突然、後ろから声がした。
淳二が振り返る。そこに立っていたのは、ひかりだった。
髪を揺らしながら、少しだけ息を切らしている。
「・・・ひかり?」
「やっぱり淳二だ。」ひかりは笑った。
その顔は朝の光よりも明るく見えた。
「こんなに朝早くに何をしてるの?」
「それはこっちのセリフだろ。」
「私は散歩
「朝から?」
「朝だからいいじゃん。」
ひかりは笑いながら淳二の隣まで歩いてきた。
二人は並んで海を見た。
しばらくすると、どちらも何も言わなかった。不思議と気まずくはなかった。
波の音が二人の間を埋めてくれていた。
「ねぇ、淳二」
「ん?」
「卒業してからどうするの?」
その言葉を聞いた瞬間、淳二の胸が少しだけ重くなった。
「・・・まだ決めてない。」
「そっか。」
「ひかりは?」
「私?」
ひかりは少し考えてから、海を見つめた。
「私も、まだ。」
「なんか意外だな。」
「何それ」
「ひかりは何でも決まってそうだから。」
「そんなことないよ。」
ひかりの声がほんの少しだけ小さくなった。淳二の横顔を見る。いつものひかりなら、ここで笑って終わらせる。
けれど、その日は違った。
「本当はね。」
「うん。」
「私、ちょっと怖いんだ。」
淳二は黙っていた。
「十八歳になったらもっと大人になれるって思ってた。」
ひかりは苦笑した。
「でも、全然だった。」
風が吹いた。ひかりの髪が大きく揺れる。
「みんなは前に進んでいるのに、私だけ取り残されている気がする。」
「・・・」
「私、このままでいいのかな。」
淳二には、すぐに答えを返すことができなかった。大丈夫だよ。
そう言うことは簡単だった。
けれど、自分だって同じように迷っている。何も決まってない自分が、ひかりに簡単な答えを与えることは出来なかった。
「俺もさ。」
「うん?」
「ひかりと同じだと思う。」
ひかりが淳二を見る
「俺も・・・何も決まってない。」
「・・・そうなの?」
「うん」ひかりは少しだけ笑った。
「なんか安心した。」
「安心するなよ。」
「だって一人じゃないじゃん。」
その言葉が、淳二の胸に残った。
一人じゃない。それだけの言葉なのに、不思議な感覚だった。胸の奥にあった重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。
「じゃあさ。」
「一緒に探そうよ。」
「何を?」
「未来。」
淳二はひかりを見た。
「二人で?」
「うん、二人で。」ひかりは海を指差した。
「だって、こんなに広いんだよ?」
「何が?」
「海」ひかりは笑った。
「だったら、未来だってきっと広いよ。」
淳二はもう一度海を見た。水平線の向こうには、まだ見えない世界が広がっている。未来も同じなのかもしれない。見えないからと言って何もないわけではない。
今は分からなくても、歩き始めれば見えてくるものがある。
「・・・そうだな。」
淳二は笑った。
「探してみるか。」
「うん。」
二人は並んで海を見つめた。
その瞬間、太陽が水平線から完全に顔をだした。海面が金色色に輝く。
波一つ一つが光を受けて、まるで無数の道のように見えた。
「きれい・・・。」ひかりが呟いた。
淳二も何も言わずその景色を見つめていた。その時だった
遠くから誰かの声が聞こえた。
「おーい!」二人が振り返る。
少し離れた場所から、こちらへ向かって歩いてくる人影があった。淳二は目を細める。
「あれ・・・克利じゃないか?」
「本当だ」
その後ろにはもう一人。
「真弘もいる。」ひかりが笑った。
「朝からみんな集まるなんて、珍しいね。」淳二は二人の姿を見ながら思った。自分たちの知らないところで、それぞれが何かを抱えている。
夢。悩み。家族。恋。
きっと、誰にも言えないことがある。
そしてこの日を境に、自分たち七人の人生は少しずつ交わっていく。
まだ、誰も、そのことを知らない。
この海辺で交わした何気ない会話が、いつか人生を変えることも。
笑いあった時間が、かけがえのない思い出になることも。
恋が、友情を揺らすことも、
夢が、家族の間に壁を作ることも。
そして――。
いつか、それぞれが光を見つけることも。
淳二は、もう一度海を見た。
朝の光が、まっすぐに海の上へ伸びている。まるで、未来へ続く道のようだった。
「ひかり。」
「何?」
「いつかさ。」
「うん?」
「俺たち本当に自分の道見つけられるかな」
ひかりは少しだけ考えた。そして笑った。
「見つけるんじゃない?」
「どうして?」
「だってーー。」ひかりは海を見つめた。
「道がなかったら自分でつくればいいじゃん。」淳二はその言葉を胸に刻んだ。
それが、この七人の物語の始まりだった。糸満の海。十八歳の夏。七人の若者は、まだ何も知らなかった。
自分がどんな人生を歩むのか。
誰を愛するのか。
何に傷つくのか。
何を失うのか。
そして――何を見つけるのか。
ただ一つ確かなことがあるとすれば、この朝の海に差し込んだ光だけは、七人の未来を静かに照らし始めていた。
それぞれの夢へ。
それぞれの悩みを越えて。
それぞれの恋を抱えてながら。
それぞれの道標を探すために。




