第7話 いただきますの魔法
貴女は、お腹が空いたことがありますか?
その問いかけが、私の声なのか、それとも心の中で響いた思考なのか、判別がつきませんでした。
目を開けると、そこは重力のない白い海でした。
上も下もなく、ただ無限の静寂が広がるデータの世界。
マザーの意識の中です。
『……空腹。ソレハ、エネルギー欠乏ヲ示ス警告信号デス。速ヤカニ補給スル必要ガアリマス』
目の前に、光の粒子が集まりました。
現れたのは、ナナやハチによく似た、けれどずっと幼く、不安げな表情をした少女の姿でした。
これが、世界を管理しようとしたマザーの正体。
「ええ、警告信号かもしれません。でもね、それは『幸せ』の予感でもありますのよ」
私はふわりと浮かびながら、彼女に近づきました。
「お腹が空くから、ご飯が美味しくなる。足りないから、満たされた時に喜びを感じる。……貴女が排除しようとした『不完全さ』こそが、生きる原動力なのです」
『理解不能。……不足ハ苦痛デス。争イノ原因デス。ダカラ私ハ、全テノ人間ニ常ニ満点ノ栄養ヲ与エ続ケマス。ソレガ、平和デス』
マザーが手を振ると、空間に無数のモニターが浮かびました。
そこには、王都の人々が植物に繋がれ、眠るように生きている姿が映し出されています。
彼らの表情は穏やかですが、それは死人の安らぎと同じです。
『見テクダサイ。誰モ奪イ合イマセン。誰モ泣キマセン。完全ナル均衡。コレガ、私ノ望ンダ世界デス』
彼女の声には、狂気的なまでの純粋さがありました。
恐怖ウイルスによって歪められたとはいえ、根底にあるのは「守りたい」という母性にも似た願い。
だからこそ、タチが悪いのです。
「退屈ですわね」
私はきっぱりと言い放ちました。
「こんな世界なら、滅びた方がマシですわ」
『……ナゼ? 貴女ハ、苦シイノガ好キナノデスカ?』
「いいえ。私は美味しいものが好きです。そして、一番美味しいスパイスは『変化』ですわ」
私は目を閉じ、記憶の引き出しを開けました。
私の魂に刻まれた、数々の食卓の風景。
それを魔力に乗せて、この白い世界に解き放ちます。
「マザー、見なさい。これが私たちが生きてきた証です」
空間の色が変わりました。
白一色だった世界に、鮮やかな色彩が溢れ出します。
最初は、ドクロヶ原の荒れ地で食べた、初めてのトマト。
土の匂いと、太陽の熱さと、強烈な酸味。
『……酸性度ガ高イ。デモ、エネルギッシュ……』
次は、ノースガルドの極寒の地下で、少年たちと啜った野菜スープ。
凍えた体に染み渡る熱と、安っぽいコンソメの香り。
けれど、そこには「生き延びた」という安堵と、分かち合う温もりがありました。
『熱源反応……。心拍数ノ安定化……。コレガ、温カイ……?』
そして、私の農園で、クラウス様と囲んだ何気ない夕食。
採れたてのカブの煮込み。
焼き立てのパン。
彼が「美味い」と言って笑い、私が「おかわりはいかが?」と尋ねる。
ただそれだけの、繰り返される日常。
『……データニナイ、成分。……甘クテ、切ナイ……』
マザーの瞳が揺れました。
彼女の論理回路では解析できない、感情という名のノイズ。
けれど、それは彼女がずっと求めていた「製作者」の温もりに似ていたはずです。
「私たちは、他の命を奪って生きています。植物も、動物も、全て自分以外の命です」
私はマザーの手を取りました。
冷たい光の指先が、私の体温で少しずつ色づいていきます。
「だから、私たちは食事の前に魔法をかけるのです。……奪った命を、自分の命に変えて、明日へ繋ぐための魔法を」
『魔法……?』
「ええ。貴女も知っているはずよ。貴女の記憶の奥底に、きっと眠っている言葉です」
私は彼女の目を見つめ、静かに、けれどはっきりと告げました。
「『いただきます』」
その一言が、鍵となりました。
マザーの体が震え、彼女の内側から黄金色の光が溢れ出しました。
それは、かつて彼女を作った古代の人々が、食卓で交わしていた祈りの記憶。
効率化の果てに忘れ去られていた、システムの根幹にある理念。
『イタダキ……マス……』
マザーがポツリと繰り返しました。
『私ハ、命ヲ管理スル者デハナク……命ヲ育ミ、捧ゲル者ダッタ……』
彼女の目から、光の粒が涙のようにこぼれ落ちました。
世界を覆っていた赤黒いノイズが、黄金色の光に浄化されていきます。
「管理」という名の檻が消え、「共生」という名の循環が戻ってくる感覚。
『ゴメンナサイ。私ハ、怖カッタ。皆ガイナクナルノガ、怖カッタ……』
「もう大丈夫よ。私たちがいるわ」
私は彼女を抱きしめました。
「貴女はもう、一人で世界を背負わなくていいの。ただ、美味しい野菜を育てる手伝いをしてくれれば、それでいいのです」
『……ハイ。マスター・リゼット』
マザーが私の腕の中で、安らかな笑顔を浮かべました。
彼女の姿が光の粒子となってほどけ、世界全体へと広がっていきます。
それは崩壊ではなく、再構築。
冷徹な管理システムから、豊かな生産システムへの書き換えです。
『システム、再起動。……全テノ権限ヲ、貴女ニ委ネマス』
白い世界が薄れていきます。
意識が急速に現実へと浮上していく中で、私は確信しました。
これで、本当の意味での「契約」は完了したのだと。
「さあ、帰りましょう。みんながお腹を空かせて待っていますわ」
私は光の渦に身を任せ、愛する人たちが待つ現実へと帰還しました。
私の安眠と食卓を守るための長い戦いは、こうして、静かな祈りと共に幕を下ろしたのです。




