第6話:魂のパスワード
光の粒子が、雪のように静かに降り注いでいました。
ここはナナの心の中――中枢システム内部のイメージ空間でしょう。
上下左右の感覚はなく、ただ無限に広がる真っ白な空白があるだけ。
寒くて、寂しくて、そしてひどく整然とした世界です。
「……ナナ。そこにいるのね」
私が声をかけると、空白の彼方からノイズ混じりの声が響きました。
『……警告。侵入者ヲ検知。精神汚染ノ危険アリ。直チニ切断セヨ』
光の粒子が集まり、一人の少女の姿を形作りました。
体育座りで膝を抱え、うずくまるナナ。
彼女の体には、シュタイン教授が打ち込んだウイルスと思われる、赤黒い茨のような鎖が巻き付いています。
「痛々しい格好ですわね。今すぐ解いてあげますわ」
私が近づこうとすると、ナナは拒絶するように顔を上げました。
『近寄ルナ……! 人間ハ、嘘ツキダ!』
彼女の瞳から、悲痛な光が溢れ出しました。
周囲の空間に、過去の記録映像が走馬灯のように映し出されます。
映像の中には、古代の人々が映っていました。
彼らはナナが作った作物を奪い合い、争い、そして最後にはプラントを放棄して去っていきました。
『私ハ、作ッタ。命ヲ育ンダ。デモ、人間ハ奪ウダケ。感謝モセズ、土ヲ汚シ、去ッテイク……』
『ダカラ、排除スル。作物ヲ守ルタメニ、人間ハ不要ナノダ』
彼女の論理は、悲しいほどに効率的でした。
生産性のない消費者を切り捨てる。
それはある意味、経営判断としては正しいのかもしれません。
ですが。
「……間違っていますわ、ナナ」
私は彼女の目の前にしゃがみ込み、その冷たい頬に手を伸ばしました。
実体のない彼女に触れることはできませんが、私の「想い」を伝えることはできます。
「人間は、ただ消費するだけの存在ではありません」
『……データ、不一致。人間ノ行動ハ、破壊ト搾取ノミ』
「いいえ。教えてあげます。私たちが食事をする時、最初に唱える言葉を」
私は目を閉じ、前世の記憶――日本の食卓の風景を強くイメージしました。
温かいご飯。湯気の立つ味噌汁。
家族が揃い、手を合わせる瞬間。
その記憶データを、私の魔力に乗せてナナへと流し込みました。
「『いただきます』」
『……イタダキマス?』
「ええ。それは、命への感謝の言葉。あなたの育てた命を私の命に変えさせていただきます、という契約の呪文です」
私のイメージが、ナナの真っ白な世界に色を与えました。
トマトをかじった時の甘酸っぱさ。
スープを飲んだ時の温かさ。
空腹が満たされた時の、あの幸福なため息。
それらは数値化できないデータですが、何よりも雄弁に「食べる意味」を語っていました。
『コレハ……。温カイ……。甘イ……。コレガ、食ベル……?』
ナナの目から、赤いノイズが消えていきます。
彼女を縛っていた赤黒い茨が、私の送ったイメージの光に溶かされ、パラパラと崩れ落ちていきました。
『私ガ作ッタモノデ、誰カガ、コンナニ幸セニナル……?』
「そうです。貴女の仕事は無駄ではありませんでした。貴女が守ってきた種は、今も地上の人々を笑顔にしています」
私は微笑み、拘束が解けた彼女の手を握りました。
「私ともう一度、始めましょう? 貴女には、貴女の野菜を最高に美味しく食べてくれるパートナーが必要なのです」
ナナは私の手を握り返しました。
その感触は、先ほどまでの冷たいプログラムではなく、体温を持った少女のようでした。
『……検索中。コノ感情コードハ、既存ライブラリニハ存在シマセン』
彼女は涙を流すように、光の粒子をこぼしました。
『デモ、トテモ懐カシイ。……アア、ソウカ。コレガ「愛」ナノデスネ、マスター』
ピコン、と。
空間全体に澄んだ通知音が鳴り響きました。
『システム、正常化。管理者権限ヲ、シュタイン教授カラ「リゼット」ヘ完全移行。……パスワード「ITADAKIMASU」ヲ確認』
まばゆい光が溢れ、真っ白だった世界が、黄金色の麦畑の風景へと変わっていきます。
それはきっと、ナナが夢見ていた理想の農園の姿。
『オ帰リナサイマセ、マスター。当プラントハ、貴女ノ帰還ヲ待ッテイマシタ』
ナナが優雅にスカートの裾をつまみ、カーテスをしました。
その笑顔は、もう作り物ではありません。
「ええ。ただいま、ナナ」
私の意識が、急速に浮上していきます。
光の渦に包まれながら、私は確信しました。
これで、あの迷惑な教授を追い出す準備は整いましたわ、と。




