08. 婚約者と待っていた言葉
目が覚めた翌日早々の訪いとは、此処が王都のタウンハウスで互いの家がそれなりの近さであったとしても、中々の情報伝達速度である。
できればもう少し頭と心を整理し、少しでも手掛かりを見つけてから挑みたかったと思うものの、前回言われた「四日後」を高熱ですっぽかした身としては、強く抵抗できはしない。
せいぜいできるのは、病み上がりだから短時間と医師から言われている、と侍女を通して伝える程度だ。
聞けば早速授業を受けその後も午睡もせずに読書に勤しんでいたどの口が言うのだと、半目でこちらを見るテオフィルが浮かぶ気がする。
メイドに髪を梳かれているリエットの浮かぬ顔に気付かぬ様子で、侍女は自分のことのように嬉しそうに告げた。
「お嬢様が寝込まれている間、コルベールさまも心配されておられました。お嬢様の御様子をみれば、きっとお喜びになりますわ」
「心配?」
体調不良等で当人が予定をこなせない場合、予定の相手が友人であれば母や侍女が、婚約者であれば父やその後継者が手紙で謝罪するのが通例だ。今回もテオフィルが筆を執ったと聞いている。
リエットは特に知らされていないが、心配している旨返事を受け取っていたのだろうか。
聞けば侍女は首を横に振る。
「いいえ、コルベール様からのお返事の内容は私共も伺っておりません。ですが、元のお約束の日にお嬢様のお見舞いに来られましたので」
「え?」
曰く、心配そうに滾々と眠るリエットを眺めていたのだと言う。全く知らぬ話だった。とはいえ、これまでのフェリクを思えば別段違和感の無い振る舞いではある。
リエットの体調不良によって慌ただしさが続く現在、第一に報告すべき内容として挙がってこないことも頷けた。
寝顔を恋しい人に見られた恥ずかしさを覚えていると、髪を梳き終わったメイドにガウンをかけられる。手鏡を差し出しながら、侍女は思い出したように言った。
「そういえば――――――」
***
ノックの音に返事を返せば、砂糖菓子を入れた美しい小箱を手に、フェリクが供を連れて入って来た。おや、と思う。
侍従は控えの間で待たせるのが通例で、こうして同行させるのは珍しい。フェリクは目を開けているリエットを見て、ひどく安心したとばかり目元を緩めた。
「やあ、リエット、体調はどうだい」
「お陰様で、少しの間起き上がることはできるようになりましたわ、見苦しい姿で申し訳ありません」
「そんなことは気にしないで。ああ、体を起こさなくて…カーテシーなんて大丈夫だから、そのまま楽な姿勢でいておくれ」
ベッドから降りようとした身を引き留めたフェリクは、クッションを差し込みリエットの体を安定させた。
長らくの婚約者であるから、別段問題のある行動とまでは言えないが、本来は侍女の領分である。フェリクの後方で彼女が曖昧な表情を浮かべていた。
「先日は約束を守れず……そちらについても申し訳ありません」
「そんなことは全然良いよ。リエットが無事目を覚ましたのだから、これ以上のことは無いさ」
微笑みながら、フェリクはドア付近にいる彼の侍従に一瞬目をやると、再びこちらに向き直った。
侍従は微かな音だけを残し、リエットの視界の隅から退出していく。
「テオは授業中?」
「はい、もうじき終わりの時間ですから、こちらに来ると思いますわ。フェリクさまの事を慕っていますから」
言い終わる前に、再びコンコン、とノックの音が聞こえた。噂をすれば、というやつかもしれない。
「なら、テオが来る前に話そうかな」
「え?」
てっきりテオフィルの来訪だとばかり思い目をやれば、果たして侍女が開いた戸の先には、先ほど去ったばかりの、フェリクの侍従の姿があった。しかし先ほどとは明らかに違う。一抱えもあるほどの、薔薇の花束を持っていたからだ。
侍従はフェリクのすぐ後ろに控えた。婚約者は、病み上がりの婚約者の両手を掬い取って柔く握る。
嬉しい筈のそれに、ひどく嫌な予感がした。
「ねえ、リエット。約束があった日、私は予定通りヴェルディエのタウンハウス――この屋敷を訪れたんだ。そしてまさに此処、リエットの部屋に案内された。苦しそうに瞳を閉じた君を見て、もしかしてとんでもない間違いをしてきたんじゃないかと思った」
温かな手に包まれた指先が、けれど急速に冷え込んでいくようだった。
「殿下の婚姻は貴重な外交のカードであると同時に、国内政治の一手にもなりうる。殿下の後ろ盾という意味も持つだろう。だから殊更慎重なのは納得していたし、殿下を差し置いて同い年で側近の私が先に妻を迎えるわけにいかないと思っていた」
今すぐ手を振り払って、婚約者の口を覆ってしまいたかった。
「でも、君の苦しみをすぐに知れる立場であることが、つらい時にずっとそばに居られることの方が、ずっと大事なんじゃないかって。幸い、殿下も間もなく隣国の王女との婚姻が整うだろう。だから、」
止めて、と喉元まで叫び声が込み上げた。
「だから――愛するリエット。待たせてごめん。どうか、私と、結婚してくれないだろうか」
まだ夕方には早い、こうこうと日が照る時分だ。
けれどまるで雷で「前世」の町中が停電したように、リエットは世界が真っ暗になった錯覚に陥った。
一度手を離したフェリクは侍従から受け取った花束を、リエットの手に握らせてくる。視界が埋まるほどの真紅の薔薇は瑞々しい香りを振り撒いて咲き誇っていた。とても美しいそれは、けれどほとんどリエットの意識に入らない。
――嗚呼、早く、何か言わなければ―――――。
「……フェリクさま、ありがとうございます。とても嬉しいですわ」
何とか、いつもの笑みの形を作れたと思う。けれど敢えてリエットはそこで目を伏せ、フェリクの視線から逃れた。
「じゃあ……」
「ですが、お願いいたします。どうかそのお話は、私の体が治ってから、また聞かせてください」
貴族令嬢の最大の役目は、嫁ぎ先の跡継ぎを産むことだ。つまりは教養や家政を取り仕切る手腕も大事ながら、健康が最も重視される。
逆に言えば、いつまでも床払いが出来ないような娘では、長年の婚約すら解消される可能性があるということだ。
「、たとえ君が起き上がれなくなったとて、私は――」
「いいえ、由緒あるコルベール公爵家の女主人がそのようではいけませんわ」
言外に、己に妻としての資質が無いかもしれないと匂わせれば、断られると思いもしなかったのだろう。それこそ雷に打たれたような衝撃を表した後、フェリクはひどく打ちひしがれた表情を浮かべた。
常に穏やかな彼が分かりやすく落ち込むことは珍しい。その姿に胸が痛むのは罪悪感か、それとも。
「せめて……約束をくれないか、完治したら、私の求婚を受けてくれると」
「……できるだけ早く元気になれるよう、頑張りますわ」
「リエット……!」
フェリクが言いつのろうとしたそれを、再びのノックの音が遮る。
何も知らない顔で入って来た義弟に、リエットは救われた気分になった。義弟は室内の空気がおかしいことに気が付いたのだろう、半目でリエットを見下ろすと、何とか話を切り替え盛り上げようと奮闘してくれたのだった。
***
「義姉上……本当によかったの?」
フェリクは憔悴した様子で帰って行った。薔薇を活けるために侍女が退席したタイミングで、テオフィルが気まずそうに義姉へと切り出す。
――リエットの考えることは分かる、王太子とフェリクの考えを知らぬままに結婚を受け入れることはできないと、体調を理由に引き延ばしたのだと。それでもリエットは、婚約者を深く愛していたのではないかと。
リエットはそれには答えぬままに、ぽつりと言った。
「――私が寝込んでいる間に、フェリクさまとお約束していた日があったの。だからあの方、お見舞いに来てくれたそうよ」
「うん?」
テオフィルは、約束があったことは勿論知っていた。自身が断りの手紙を書いたからだ。そして、フェリクが見舞いだけでも、とやって来たことも当然知っている。
リエットは、気が抜けたように笑っていた。
「苦しそうに唸っている私をしばらく見ていたのですって。恥ずかしいったら」
「義姉上?」
何の話を、と訝し気に聞いていたテオフィルははっとした。
「侍女たちにおかしいことは無かったかって聞いたらね、私、奇妙な寝言を言ったらしいの――『そのスクリプト、チャットで送って!』ですって。おかしいわよね」
スクリプトも、チャットも、この世界には無いものだ。
「フェリクさまは――私が『前世』を思い出したことに気付いて、慌ててプロポーズしてきたのだわ」
「義姉上…」
フェリクが望んだ相手はリエットではない、きっと、「リサ」――――「前世」だった。
視界が、揺れる。
応えたかった。応えられなかった。
ずっと待っていた言葉だった。でも今だけは聞きたくなかった。
ほんの数日前に言ってくれたなら、何の衒いも無く彼の胸に飛び込むことができたのに。
体調不良を知り訪問を諦めてくれていたのなら、彼の愛に期待することができていたかもしれないのに。
彼の必死さも、諦めきれない愚かな恋心も、何もかもがただ、悲しかった。




