03. 五日後の目覚め
――リサ。
熱で朦朧とする頭に、ふたたび膨大な何かが流れ込んでくる。
――ガタン、ゴトン。
――カタカタ、カチリ。
――ジリリリリ。
電車の音。キーボードとマウスの音。アラームの音。
車に、テレビに、ゲームに、電話。
鳴りやまない音、忙しなく変わり続ける風景。
――このコードが――――で―――――バグ密度が――――テストケースを――――――
――今日のミーティングで―――そこのコンセンサスは――――
――分かりました、もうすぐ家に着くので再度確認しま――――――
ドアの開閉音、そして。
真っ白な、光。
***
目を開けると、ぼんやりとした世界に青色の姿が映った。
「お嬢様!」
その声で、青色が侍女のドレスだと分かる。彼女はリエットの体を起こし水を飲ませるとすぐさまメイドを呼び指示を伝えた。
視界がすっかり明瞭になるころ、父と義弟が貴族らしい振る舞いを脱ぎ捨て、転がるように部屋に飛び込んできたものだから、リエットは思わず笑ってしまった。
随分と長い間寝ていたのだろう。掠れ引き攣ったような声が漏れた。
「リエット、体調は大丈夫か、すぐ医者も来るから」
「義姉上、あれから三日間も殆ど寝たままだったんだ」
「だいじょうぶよ、しんぱいかけてごめんなさい」
水をもう一杯所望し、何とか潤わせた喉で短い言葉だけを返す。
その後訪れた医者の話を合わせるに、どうやらフェリクが訪問した夜から高熱を出し、今は五日後の昼間だという。途中目を覚ました際にテオフィルと何やら言葉を交わした気がするが、それが発熱二日後で、そこから更に三日経っているのだそうだ。
――喉が枯れるわけだわ。
ろくな食事を取れておらず、ひたすら寝ていたので消耗が激しいものの、熱も下がっていることから、以降は快方に向かうだろうとのことだ。
医者は薬草を煎じたものを処方して、メイドに幾らか看病の指示を伝えると、頭を下げて去っていった。
尚も心配そうにこちらを見つめる父公爵と、何やらもの言いたげな義弟。目が合うとテオフィルはおずおずと口を開いた。
「……義姉上、その、三日前に話していたことを覚えていますか」
「みっかまえ……」
日付の感覚はあいまいなところだ――寧ろ「事情」により遥か昔にすら思える――が、確かにテオフィルと言葉を交わしたし、彼の混乱した様子を見ながら意識を飛ばしていった気もする。
『私、本当に前世の記憶があったみたいなの……』
『は!? どういうことですか、義姉上!? 義姉上――――――――!?』
――ああ、そうだわ。
この「事情」の断片を、朦朧としたまま、テオフィルには伝えてしまっていたのだった。
あんまりな言い逃げである、義弟がひどく気にしているのも当然だった。とはいえ、意識がはっきりとした今、気軽に話せる内容でもないことも分かっている。
小さく咳をして喉を慣らし、リエットは慎重に口を開いた。
「ごめんなさい、まだ少し眠いみたい。もう少し休むから、悪いけれどテオ、夕食後また来てくれる? その時に、私が臥せっている間にどんなことを習ったか教えてもらえると嬉しいわ」
「……!、わかりました」
言外に含めた、父や侍女のいる場では話せないという意図が伝わったのだろう。義弟は大きく頷くと、仕事を放り出してきた父を諫めるようにして引き摺って行った。
ほとんどかかりきりであっただろう侍女にもメイドらに任せ休むよう伝えると、リエットは目を閉じる。
実のところ、眠気は一切無かった。寧ろ一度覚醒してからは、これ以上は無い程に目が冴えていた。
現状を受け入れてしまえば、頭もすっきりとしている。問題は、これからどう振る舞うか、だった。
――「前世」の記憶が蘇った。
一言で言うならば、リエットの現状はそうだ。
寝込んでいる五日間の間に、「リサ」なる人物の、およそ三十年間の記憶が流れ込んできたのだ。突然の、別人の生涯の記憶の発生は、成程リエットが散々冗談めかしていた「前世」のようだった。
しかし、「前世」というとどうにも違和感がある。彼女の世界はリエットの視点で言えば未知で溢れていて、言ってしまえばこの世界よりもよっぽど「未来的」だったからだ。
――人は電車や車、飛行機で、馬車よりも素早く空すら移動し、帳簿の管理はパソコンで、ある程度の計算は自動化されてさえいる。
――人々が常に携帯するスマートフォンは何でも調べられる魔法の箱で、図書館と凄腕の司書を持ち歩いているに等しい。
――あらゆる物事に電気やガスがふんだんに使われ、洗濯も、風呂も、料理も、掃除も、「今」よりもよほど効率化している。
そのうえ、社会の仕組みも、男女の価値観も、宗教も、全てが違っている。
閉じていた眼を開き、室内に視線を巡らせる。
真白な天井、花のレリーフが施されたシャンデリア、高級な木材を組み合わせて作られた書き物机に化粧台。絹のダマスク織が貼られた長椅子。
どうやら「リサ」の知識には偏りがあるらしく、詳細こそ分からないものの、この世界は彼女の生きた「前世」から数百年前の別の地域、つまるところ中世だか近世だか近代だかのヨーロッパとやや似ているようだった。
シャンデリアが火と油ではなくガスでできているから、中世よりはリサの生きた時代に近いのかもしれない。反対にと言うべきか、ガスと同じくリサの時代を力強く支えていた電気は、まだ影も形も無い。
この世界における他の動力源といえば、かつて遠くの小国に魔石なるものがあったと耳にしたことはあったけれど、生産していた王朝自体が滅んでいる。
いずれにしても、あの未知で溢れた「前世」との隔たりは大きいのだろう。
「前世……前世で良いのよね」
リエットは口元に指先を当て、ぽつりとつぶやいた。
公爵令嬢アンリエット=ルイーズ・ド・ヴェルディエではない人生の記憶。
文明の差異――順序性に目をつぶったとしても、どうにもしっくりこない。
「実感が無いのよね……」
それが、正直なリエットの感想だった。
「リサ」の記憶はある。つまりは「旅行が好きだった」「誕生日に友人からもらったストールが嬉しかった」「会社で大きなミスをして怒られたのがつらかった」といったエピソードも記憶している。
けれど彼女の記憶への「実感」はまるでなかった。
たとえるなら、リエットも好むところである――物語を読んだのに似ている。主人公の苦境に感情移入し心を痛めることはあれど、それが「真に自分に起こったこと」として捉えられるかというと別、ということだ。
通常の物語との違いと言えば、日頃手に取るそれよりも圧倒的に量が多いが故か、脳の中で大変な存在感を放っていることくらいだろうか。
リエットとしては、「リサ」と「リエット」は全くの別人であり、何ら連続性も無いと感じている。一方で、何か思いを巡らせれば「リサ」の知識や考えが引き出されるのもまた事実で、まるで自分の頭の中に突然隣人が住み始めたかのような、言うに言えない気持ちの悪さが沸くのだった。
果たして「リサ」は誰なのか。どうして突然、リエットは「前世」を思い出したのか。
そして、
「フェリクさま……」
この件には何ら関係ないはずの、優しい婚約者の姿が思い浮かんで。
リエットは、思わず身を震わせた。




