01. 完璧な婚約者
「フェリクさまはきっと、私が前世の記憶を思い出すのを待っているのよ」
その日も公爵令嬢アンリエット――リエットは、歌うように義弟に語り掛けた。
物憂げに傾けた花のかんばせに、はらりと蜜のような金糸がかかる。伏せられた睫毛は長く、その下に眠るサファイアを覆い隠している。ほう、と溜息を零す小さな唇に、仄かに色付いた滑らかな頬。
かつて妖精にたとえられた母から余すことなく受け継いだ、儚くも美しい容貌に、けれど義弟テオフィルはうんざりとした顔を返した。
曰く、「義姉の妙な物言いは今に始まったことではないが、それにしたって飽きもする」ということらしい。この話は、既に幾度も繰り返されているからだ。
テオフィルはリエットとも、父たる公爵とも似つかぬ茶髪をさらりと揺らして、行儀悪く東屋の外壁に寄りかかった。中に置かれた椅子の一方に座るリエットを覗き込む青い瞳は、けれど呆れだけでなく、心配をない交ぜたような色を浮かべている。
「義姉上とフェリク様が『前世』も恋人だったって話?」
「そうよ。でもきっと御家同士の仲が悪くて、道ならぬ恋だったのだわ」
フェリクとは、リエットの婚約者の名前だ。
フェリシアン=ジョゼフ・ド・コルベール。リエットの生家、ヴェルディエと並ぶ三大公爵家のひとつ、コルベール公爵家の嫡男であり、現宰相の息子。
王太子の側近として王家からの覚えもめでたい彼は、涼やかな美貌に、明晰な頭脳と、穏やかな性格を持っている。
国王や王太子のような、自ら踏み出して臣下を引き付けるカリスマ性こそ持たないものの、これといって非の打ちどころのない、およそ完璧といって差し支えない青年である。
けれど――――――――――。
「二人は駆け落ちするのだけれど、追手に捕まってしまうの。そうして引き離されるとき、来世できっと結ばれましょうと誓うのよ」
「この前は御家の争いで義姉上がフェリク様を庇って死んでなかった? 今度はどこの御令嬢の勧めた本なのさ。モンレーヴ嬢?」
義姉よりも大袈裟な溜息を吐きながらテオフィルが分かり切った問いを投げるものだから、愁いを浮かべていた瞳を一変させ、リエットはころころと笑い出した。
「ええ? もちろん違うわ。ヴィオレットに恋物語なんて勧めた日には、きっと鼻で笑われてしまうに決まっているもの。セリニー嬢がこうしたお話がお好きなんですって。先日のお茶会でね、ふふ、真夏の太陽のように熱く語ってくださったのよ」
「ふぅん」
太陽令嬢の様子を思い出し、ついでに容疑者にされて不満げな友人、モンレーヴ伯爵令嬢ヴィオレットを想像して、リエットはひとしきり声に出して笑う。
ヴィオレットは現実主義で、物語を読む暇があるなら実用書を手に取る、淑女としてはやや変わり者の部類だ。黙って微笑んでいれば庇護欲をそそる容貌で、けれどその瞳を怒りに燃やしてテオフィルに言葉の毒針を浴びせかける様子が目に浮かんだ。
やがてリエットは常よりも幼く見える――淑女としてははしたないそれを仕舞い込んで、再度上品な笑みを浮かべ直した。瞳には、再び愁いが浮かんでいる。テオフィルもまた小さく息を吐き、その物憂げな横顔を見やった。
女神が綴った文字から世界が出来たという建国神話が故か、この国、レトリアーヌは書物が一大産業であり、民の生活にも深く根差している。
ここ数年は令嬢たちの間で恋物語が流行っており、リエットも他の貴族令嬢に同じく――親友であるヴィオレットは除くが――それをとても好んでいる。はじめは令嬢たちとの交流の一助として嗜んでいるうちに、気付けば本当に好むようになったのだ。
「それでその『来世』が『今』だって?」
テオフィルが胡乱げな表情でリエットを見る。趣味自体に文句は無いようだが、それが講じて、時折こうして、恋物語になぞらえた冗談を言うようになったことが気に入らないらしい。
公爵令嬢としての立場は理解している。故にテオフィルやヴィオレットといった、気心の知れた人の前でしか、この冗談――義弟に言わせるところの「悪癖」――は言わないようにしているのだけれど、義弟は聞くたびに苦虫を嚙み潰したような顔をする。
リエットとしては、そろそろ止めたほうが良いかもしれないと思いつつ、けれど、これくらいの吐露は許してほしい、という気持ちもあった。
「ええ、そうよ。だから幼い頃に記憶を取り戻したフェリクさまは、まだ会話もままならない私を婚約者にしてくださったの」
「……」
「――なんてね、婚約がお母様と妃殿下のご希望だって知っているけれど」
「……そうだね」
リエットは小さく笑うと、一連の妄言を冗談として締めくくった。テオフィルは何か気の利いたことでも言おうとしたのか口をはくりと動かして、結局相槌だけを返してくる。
リエットの「悪癖」が真に現実と物語を混同した妄想であったなら、テオフィルも厳しい言葉で正気に引き戻そうとしただろう。けれどリエットは、「そんなことがあるわけないと分かって言っている」。つまりはただの気休め、逃避としての冗談に過ぎないのだ。
そしてどうやら、テオフィルはリエットの憂慮にも一定の理解を覚えてしまうが故に、物言いたげな表情をしつつも、話を聞いてくれているようだった。
「義姉上、」
テオフィルが渋面のまま何かを言いかけた、その時。
リエットの耳が、コツコツという音を拾った。振り返れば開けた公爵家タウンハウスの庭の入り口、腰の高さの門扉を見慣れた使用人が叩いている。彼女の背後には幾分背の高い青年――――噂の人の来訪だった。
「やあ、リエット、テオ、夜会ぶりだね」
小ぶりの花束と砂糖菓子――完璧な手土産と共に現れたフェリクは穏やかに微笑んだ。
テオフィルよりもやや上背の彼は、勤務の途中なのだろう。落ち着いた色合いのジュストコールを身に纏っている。
世の女性が羨む色白の肌とすっと通った鼻梁。光に透けそうな白金の髪を一つに結い、僅かに細められた緑の宝石にも、優しい色が宿っていた。
「ごきげんよう、フェリクさま。どうぞおかけになって」
淑女の仮面を被り直したリエットは、待ち人に歓迎の笑みを浮かべる。
曖昧な顔をしていたテオフィルも言い募ることを諦めたのだろう。振り切るように弾みを付けて壁から体を起こし、義弟として同じく歓迎の意を示した。
「こんにちは、フェリク様。仕事は変わらず忙しそうですね」
「社交シーズンにはどうしても色々と立て込むからね」
王太子の側近として働いているフェリクは決して暇ではない。その多忙の合間を縫って、こうして頻繁に会いに来てくれることは、リエットとしても素直に嬉しい。父も、周囲も、しばしば彼を「誠実な婚約者」と誉めそやすけれど、それは実際その通りだと思う。
幾らかフェリクと雑談を交わしたテオフィルは、やがて話の区切りを示すように小さく伸びをした。
将来の義兄の顔を見るなりあからさまに立ち去るのは印象が悪いが、かといっていつまでも婚約者の逢瀬の邪魔をするのもまたマナー違反と言える。父の手伝いを言い訳に、にこやかに詫びて去るのが定石である。
笑顔で立ち去るテオフィルを、同じく笑顔で見送ったフェリクは、やがて視線をリエットに戻し、柔らかに語り掛けた。そのまなざしは優しく、まさに将来の伴侶を大切に扱う、「誠実」な婚約者そのものに見えた。
――けれど――――。
きっとその口はまた、リエットを悩ませる「不誠実」を重ねるのだ。
フェリシアン=ジョゼフ・ド・コルベールは人格、能力、容姿、家格と、全てを備えた青年であり、リエットに心を砕き、日々誠実に接している。しかしそんな彼にはひとつだけ、いやふたつだけ不安要素が――――、「不誠実」な点があるのだった。




