第81話:空白 ―白い部屋の子供―
薔薇に囲まれたドラクロワ城の前庭では、未だ張り詰めた緊張が途切れなく続いていた。
ルシアンの放つ冷気が、石畳を薄く白化させていく。
彼の背後へ庇われる形となったベルローズとセレスティアの周囲には、獣が縄張りへ築く防壁のような圧迫感が漂っている。
その絶対的な守護の領域は、夏の湿った空気さえも凍てつかせ、周囲に細かな霜の結晶を咲かせていた。
対するユリウスは、その異様な殺気の中心へ立ちながらも、依然として冷静だった。
その金髪は薄曇りの光を弾き、白銀の衣服には塵一つ付着していない。
彼は目の前で牙を剥く幻獣よりも、その背後へ半ば無意識に身を寄せているセレスティアの方を見つめていた。
怯え、呼吸は浅く、細い肩が微かに震えている。
けれど、父と母の気配に包まれている限り、自分は守られているのだという確信を、彼女は寸分も疑っていない。
その絶対的な信頼の在り方が、ユリウスには理解できなかった。
◆
物心ついた時には、白い部屋で過ごしていた。
それが、彼の世界のすべてだった。
窓のない空間。
継ぎ目ひとつ見当たらない、大理石を思わせる冷淡な白い壁。
一定の温度と湿度に保たれた、無臭の空気。
魔導装置の微細な駆動音だけが、昼夜を問わず、鳴り続ける場所。
そこには朝の陽光も、夕暮れの感傷も、夜の静寂さえも存在しなかった。
ただ一定の照度を保つ無機質な光が、世界を平坦に照らし出しているだけ。
そこで彼は目覚め、眠り、食事を与えられ、言葉を覚えた。
はじめのうちは識別番号で呼ばれ、名前などなかったことを、朧げに覚えている。
誕生日や、巡っていく季節。
そうしたものも、知識としては持っているが、生活のなかには存在しない。
与えられる食事は、調整された栄養剤のようなもの。
温かなぬくもりを宿した食卓は、彼の人生とは無縁のものだった。
研究員たちは皆、清潔な白衣と手袋を身につけていた。
彼らは研究員同士でさえも私語を慎み、雑談することはほとんどない。
着用された白手袋は指先一つ汚れることがなく、他者に直接触れないという徹底した潔癖さの象徴だった。
彼らはユリウスを抱き上げることも、幼子へ向ける柔らかな声で笑いかけることもない。
ただ記録を取り、経過を観察し、数値を確認する。
その視線は眼前の少年を、常にひとつの実験成果として測定していた。
「脳波安定、魔力循環正常」
「感情の発露は、依然として極端に低い」
「再現率、想定値を上回っています」
幼いユリウスは、透明な観察窓の向こうから聞こえるその言葉の意味を、早い段階で理解していた。
自分は、『誰か』を元に作られた存在であること。
自分自身のために、生まれたわけではないこと。
そして、自分には果たすべき役割があること。
研究員たちはそれを隠そうともしない。
むしろ、最初から刷り込むべき前提知識として、淡々と事実だけを突きつけていた。
「ヴィクトル様は、国家の未来そのものだった。お前はその継承体だ」
「失われた叡智を、我々は再び蘇らせたのだ」
彼らは狂信に濁った目で、恍惚とした表情で、そう語った。
だがユリウス自身は、その『ヴィクトル』という存在へ、特別な感情を抱いたことがなかった。
尊敬も、憧憬もない。
彼にとってヴィクトルとは、過去に存在した高性能な参考資料に過ぎない。
そのヴィクトルという存在も、こうして自分のように作られたのだろうという、ぼんやりとした意識。
自らの骨格を、魔導回路を形成するための、ただの基礎情報だった。
成長と共に、ユリウスへ与えられる教育はより高度になっていった。
魔導理論や人体構造だけでなく、古代魔術、魔力の繊細な制御、戦闘知識。
加えて、人間社会へ入り込むための心理誘導。
相手へ安心感を与える視線の向け方や、警戒心を抱かせない声の高さ。
同情を引き出す、微笑みの角度。
研究員たちは、極めて合理的に人間らしさを教え込んでいく。
「視線を逸らさない、声量は一段階落とせ」
「困惑を表現する際は眉を少し下げる。親切は、見返りを求めず行ったように演出しろ」
感情教育というよりは、あくまで他者へ取り入るための技術。
効率的な歯車として社会を巡るための、潤滑油に過ぎなかった。
ユリウスはそれを、忠実に習得した。その方が効率的だと、理解していたからだ。
集落で老人の荷車を押してやった時も。
病人へ冷たい水を運んだ時も。
道端の犬へ困ったように笑いかけた時も。
そこに善意は存在していない。ただ、相手に好意を抱かせる最適解を、計算通りに実行していただけだった。
けれど、そんな彼にも理解できないものがあった。
愛情、執着、誰かと共にいることで生まれる安堵。
それらだけは、知識としては知っていても、どうしても実感として脳裏に結ばれなかった。
研究施設では、誰も彼を抱き締めなかった。
成功しても褒められないが、たとえ失敗しても怒鳴られない。
ただ記録され、数値化される。
その冷徹な繰り返しの果てに、彼の心は完全に、平坦な砂漠と化していた。
ある時、研究員たちが彼の魔力を測定しながら言った。
「感情は判断精度を鈍らせるノイズです。ヴィクトル様はそのノイズを最小限まで削ぎ落としたからこそ、あれほど完成された知性へ到達できた」
「だからお前も同じだ。不要な執着を持つ必要はない。お前はヴィクトル様の意志を完遂するための装置なのだから」
装置。
自分を人間として扱われた経験が、最初から存在しないユリウスは、その定義に何の疑問も抱かなかった。
空腹を満たすために無味乾燥な栄養剤を与えられ、効率的な睡眠時間を設定され。
知識を入力され、役割を与えられる。それが生きるということなのだ。
彼は自然に、そう深く理解していた。
だからこそ、今、目の前にいるセレスティアの存在が異様だった。
恐怖しているのに、ルシアンの背後へいれば安堵している様子がある。
ベルローズもまた、無意識にルシアンの気配へ寄っている。
その姿には、研究施設で一度も見たことのない、奇妙な安定感があった。
ユリウスは、なおもセレスティアを観察する。
彼女は耳を伏せながらも、ルシアンの袖を強く握っていた。
(合理性が薄い。戦力差を考えれば、下がったところで戦況は大きく変化しないはずだ)
だが、それでも彼女は彼へ触れている。
そこに何らかの精神安定が存在しているのだと、ユリウスは理解した。
理解した――。だが、実感として飲み込めない。
なぜそんな不完全な、数値化できない関係性によって、これほど強固に精神が安定するのか。
なぜセレスティアは、自分のように空虚へ崩壊しないのか。なぜ彼女は、誰かに甘えられるのか。
その瞬間だった。
ユリウスの胸の奥に、初めて説明不能なノイズが生じる。
(羨ましい)
その感情の名前を、彼は知識として知っていた。
他者の優れた状態を認め、それを自身に引き写したいと願う、非合理的な情動。
だが、自分の内部からそれが自然発生したのは、これが初めてだった。
セレスティアは愛されて、守られている。恐怖した時、寄りかかれる存在がある。
それはユリウスの人生に、ただの一度たりとも存在しなかったものだ。
理解不能な熱が、胸の奥でじわりと広がっていく。
それは、純粋な憧れに近かった。
同時にひどく醜い、飢餓感にも似ていた。
(……欲しい)
その感覚に、ユリウスは自分でも微かに驚いていた。
『セレスティアそのもの』を愛しいと思う感情ではない。
彼女を解体し、その安定構造を細部まで理解し、自分の中へ取り込みたい。そうすれば、この胸の空洞を埋められるかもしれない。
そんな、極めて歪んだ渇望だった。
ルシアンは、そんなユリウスの視線に気づいていた。
彼の濃藍色の耳が、さらに深く伏せられる。
サファイアブルーの瞳は野生の冷徹さを帯び、鋭い殺気が宿っていた。
獣としての本能が理解している。
目の前にいるこれは、生き物の形をしているだけの異物だ。
愛を知らず、愛されず。
それでもなお、欲しがることだけは覚えてしまった、空っぽの器だと。




