第82話:揺らぎ ―愛を知らぬ器―
前庭に満ちていた張り詰めた空気は、ユリウスの穏やかな声によってさらに冷たく澄んでいった。
ユリウスは、セレスティアの怯えたように伏せられた漆黒の耳と、彼女が父の袖を握りしめる細い指先を眺めていた。
自身の内にある膨大な知識と、目の前の現象が合致しない。
不条理を前にした観察者の深い集中だけが、そこにはあった。
「最初に接触した時、境界付近で負傷した旅人という設定が、最も自然でした。……警戒心の薄い対象が同行していたこともあり、情報収集は、非常に容易でしたね」
淡々とした声音が鼓膜に届き、セレスティアの身体が強張った。
禁忌の森の外縁で初めて出会った時の、泥に汚れた白銀の袖口。
痛ましげな浅い傷や、困ったように眉を下げた微笑。
エマが真剣な顔で彼の傷口を洗い、清潔な布で手当てし、心配そうに何度も声を掛けていた光景が、胸の奥へ一気に蘇る。
あの時のすべてが、彼にとっては計算され尽くした、ただの設定に過ぎなかったというのか。
「……怪我をしてたの、嘘だったの?」
「浅い傷は実際に作りました。行動に、支障はない程度に」
ユリウスは澱みなく答える。悪びれる様子は微塵もなかった。
嘘を吐いて他者を欺いたという罪悪感すら、彼の中には存在していないのだろう。
セレスティアの尾が鋭く逆立ち、耳が怒りに震えて立ち上がる。
「エマは、本気で心配してた。あなたを助けようとして、一生懸命だったんだよ」
「ええ、非常に協力的でした。お友達がいろいろ教えてくれたおかげで、あなたとご両親の関係を改めてはっきり理解できて、助かりました」
その言葉を聞いた瞬間、セレスティアの中で、恐怖よりも先に激しい怒りが燃え上がった。
エマの明るい笑顔、薬草を扱うときの真剣な手つき。怪我人を前に迷わず動いた、純粋な優しさ。
それらを、まるで効率の良い便利な道具のように語られた。
どうしようもなく、許せない。
「エマを、馬鹿にしてるの?」
彼女の声は小刻みに震えていたが、そこにははっきりとした拒絶の意志があった。
ユリウスはわずかに、首を傾げる。
彼の金髪が、薄曇りの光を浴びて無機質に揺れた。
「馬鹿にする……。いえ、彼女は善良で警戒心が薄く、情報提供者として極めて有用でした。侮辱の意図はありません」
それは紛れもない、彼の本心だった。
だからこそ、セレスティアの胸はさらに冷たく冷え切っていく。
彼はエマを見下してはいない。傷つけようとすらしていない。
ただ合理的に、便利だったと判断している。それだけなのだ。
誰かの親切も、誰かの信頼も、彼の中では効率の良い経路としてしか記録されない。
「……そういうのが、ひどいんだよ」
セレスティアの拒絶の声は、薔薇の咲き乱れる前庭へ小さく落ちた。
その直後、王都の魔導院残党である白衣の男が、苛立ったように声を張る。
「ユリウス様、融合個体の確保はお任せします。こちらは魔女と幻獣を抑えます!」
男が手袋を嵌めた手を振ると、背後に控えていたキメラたちが一斉に駆動音を立てて動き出した。
異なる獣の骨格を継ぎ接ぎされた巨体が低く沈み、接合された金属外殻の隙間から鈍い緑色の保存液が漏れ出す。
その光景に、真っ先に精霊たちが動いた。
ピピは即座に膝を突き、石畳へ手のひらを触れさせる。
「あのさ、勝手に人んちの庭を荒らさないでくれる? 無作法なんだよ……!」
城の記憶と同期し、地下の鉱脈から引き出した強固な魔力によって、半透明な岩石の防護壁を鋭く形成する。
「痛いのは、誰だって嫌でしょう? 大人しくしていてくださいね」
アマンダは琥珀色の瞳を凝らし、前庭の土壌の下へ張り巡らせた菌糸を一気に伸ばした。
うごめく白い菌糸がキメラの頑強な脚へ容赦なく絡みつき、その自由を奪っていく。
ベルローズの角が妖しい赤紫色に発光し、彼女の意思に応じるように、周囲の黒薔薇の蔓が地面を這う鞭となって伸び始める。
ルシアンは一切の躊躇なく地を蹴って前へ飛び出し、キメラの喉元へ、蒼い氷の魔力を纏った爪を深く叩き込んだ。
苛烈な戦闘が始まった。
しかし、その爆音と硝煙、満ちる魔力の中で、ユリウスだけは微動だにしなかった。
周囲で黒薔薇が金属を締め上げ、氷の刃が魔導兵器の関節を断ち切り、石の防壁が激しい衝撃を受け止める。
その中で彼はただまっすぐに、セレスティアだけを見つめている。
この凄惨な混乱もまた、彼女という個体を正確に観察するための、ただの環境条件だとでも言いたげだ。
「セレスティア、下がれ!」
ルシアンの、低く抑えられた声が飛ぶ。
だが次の瞬間、別のキメラの巨体が二人の間へ強引に割り込み、ルシアンの視界を遮った。彼は短く舌打ちし、しなやかな身体を捻って氷の魔力を放つ。
ユリウスはその一瞬の隙を見逃さず、確実にセレスティアとの距離を詰めていく。
攫おうとするほど乱暴な動きではない。
ただ、彼女だけを戦場から切り離すように、空間の隙間へ滑り込むような足取りだった。
「あなたは、なぜそこまで親を信頼するのですか」
ユリウスの問いは、冷徹な刃よりも鋭く、まっすぐに少女の核心を突いた。
「感情は判断を鈍らせます。恐怖、怒り、悲しみ、そして愛情」
セレスティアは一歩、また一歩と後ずさる。
背中が冷たい石壁に当たるのを感じたが、彼女は目を逸らさなかった。
「いずれも魔力循環を乱し、行動の合理性を著しく低下させる。にもかかわらず、あなたはそれを支柱として精神を安定させている」
目の前の、白銀の少年が怖い。
自分を解体しかねない、異物としての恐怖がある。
それでも、彼の言葉の奥にある圧倒的な空洞が、どうしてもセレスティアの胸に引っかかっていた。
「……そんなふうに、考えたことないよ」
「では、なぜ幻獣の背後に下がるのですか。戦力的には、あなた自身も一定の戦闘能力を有しているはずです。一人で迎撃する方が、視界の制限を受けず合理的だ」
「怖い時に、お父様が前にいてくれると、安心するからだよ」
答えた瞬間、ユリウスの碧い瞳に微かな揺らぎが生じた。
理解不能な未知の感情に対する、機械的な、ほんの小さな思考の停止だった。
「安心。親子間の情緒的依存。知識としては理解しています。」
彼はその言葉の意味を、自らの脳内で反芻するように呟いた。
「外部に自己の安定を委ねる、危険な構造だ。その対象を失った場合、あなたは一瞬で崩壊する可能性が高い」
「それでも、ある方がいいよ。みんながいてくれる方が、いいに決まってるでしょ?」
セレスティアは震える声を振り絞って言った。
彼女の頭の中に、この城で過ごした温かい記憶が、次々と浮かんでくる。
熱を出してうなされた夜。父が眠らずに、その冷たくて心地よい手のひらをずっと額へ当ててくれていたこと。
怖い夢を見て、飛び起きた時。母に泣きついたら、何も言わずに腕の中へ迎え入れてくれたこと。
花冠をうまく編めなくて泣きそうになった時に、ピピが呆れたように小言を言いながらも、茎を柔らかくする方法を丁寧に教えてくれたこと。
アマンダが、失敗した花も、土に戻ればまた別の綺麗な何かになると、穏やかに笑ってくれたこと。
それらはどれも、理屈ではなかった。効率的でも、数値化できるものでもない。
けれど、そのひとつひとつが、セレスティアという存在を内側から強固に支えている。
「私は、お母様やお父様や、ピピやアマンダがいてくれたから、今ここに立っていられるの。ひとりで安定してるわけじゃないよ」
ユリウスは、黙ったままだ。彼の中で、自分の発した言葉がどこにも接続されず、虚空を彷徨っている。
そもそも、その温度へ触れるための回路が、彼の中に最初から存在していないのだと。
セレスティアはそう、肌で感じた。
「あなたは……」
セレスティアは、言葉に詰まった。
今も身体の震えは止まらない。
目の前の少年は、自分を解体すべき対象として見ている。
それなのに胸の奥へ、どうしようもない別の痛みが広がっていく。
「あなたは、誰にもそうしてもらえなかったんだね」
ユリウスは、眉一つ動かさない。
だが、その吸い込まれそうなほど美しい碧い瞳の奥に、処理不能な空白が生まれた。
周囲では、戦闘がさらに激しさを増していた。
ルシアンがキメラの巨体を次々と氷結させ、ベルローズの黒薔薇が魔導兵器の脚部を無残に絡め取る。
ピピの石壁が崩れかけた前庭の均衡を支え、アマンダの菌糸が地中から金属の関節を冷酷に侵食していく。
夏の前庭には、濃厚な薔薇の香りと凍てつく冷気、そして焼け焦げた魔導回路の嫌な匂いが混ざり合っていた。
ユリウスはその混沌の中で、わずかに目を細める。
「あなたは、不思議ですね」
その声には、やはり一切の温度がない。
だが、彼自身にも解析できない不合理な揺らぎが、混ざり込んでいた。
セレスティアは、彼を拒絶したかった。利用されたことに怒りたかった。
エマの純粋な善意を踏みにじったことを、許したくない。
けれど同時に思ってしまう。
この人は、生まれてから一度も、誰にも抱き締められたことがないのだ、と。
怖いのに、悲しい。その矛盾した感情を、胸に抱えたまま。
セレスティアは前庭を満たす戦火の中で、白銀を纏った孤独な少年を見つめ続けていた。




