第79話:似姿 ―白の襲来―
翌朝のドラクロワ城は、不気味に静まり返っていた。
普段であれば、夜明けと共に聞こえ始める小型魔物たちの縄張り争いの声も、湿った枝葉を駆ける小動物の気配も、今朝は奇妙なほど遠い。
まるで森全体が広大な息を潜め、決定的な異物の到来を待っているかのようだ。
ピピは夜明け前から、その異変に気づいていた。
石の精霊としての微細な感覚が、普段とは異なる細かな軋みを拾い続けていたからだ。
城の城壁は常に、外界からの圧力を記憶する。
風の刃、雨の重さ、漂う魔力の濃淡。
這い寄る獣の足音、城へ近づく者たちの生々しい体温。
そのすべてを蓄積する城の基盤が、今朝は神経質にざわめいていた。
「……変だな」
回廊の、縦に長い窓を押し開けたピピは、薄灰色の空を見上げながら小さく呟いた。
背中の結晶質の羽には明らかな緊張が宿り、その尖った羽先が、空気の震えを感知して細かく震えている。
階下の中庭でも、ルシアンがすでに起き、巡回を終えていた。
普段なら朝の気怠さを引きずったまま、回廊の柱へ凭れかかっている時間帯だ。
だというのに、その日は異様なほど冷徹な眼差しをしたまま、森の境界線をじっと睨み続けている。
濃藍色の尾は警戒に膨らみ、大きな耳は森の方角へぴたりと固定されていた。
彼の喉奥では、本人の意思と無関係に、押し殺した低い唸りが微かに鳴り続けている。
獣としての本能が、近づいてくる何かを明確な敵として、すでに排除しようとしていた。
その時だった。
ドラクロワ城を囲う巨大な結界が、目に見えぬ頭上の空間で静かに軋んだ。
轟音も、派手な破壊の光もない。
ただ、極めて精密に編み上げられた術式が、長い年月をかけて構築された結界の隙間へ、冷たい刃を滑り込ませるようにして侵入してくる。
「……来やがった」
ルシアンのサファイアブルーの瞳が、鋭く細められる。
その声は低く抑えられていたが、内部には到底隠しきれない殺意が滲んでいた。
同時刻、ベルローズは薄暗い薬室で、朝の調薬を行っていた。
昨夜から続く胸騒ぎは、未だ消えない。
乾燥棚に並ぶ薬草の乾いた匂いすら、どこか遠くに感じられる。
セレスティアはそんな母を少しでも元気づけたくて、朝早くに庭から摘んできた花を花瓶へ挿していたが、ベルローズの表情はどこか上の空だった。
そこへ、突如として城の深部から低い地鳴りのような警戒音が響く。
結界が不法な侵入者を感知した時だけ鳴り響く、ドラクロワ城に古くから伝わる、防衛術式の発動だった。
セレスティアの耳が、怯えたように跳ね上がり、また伏せられる。
ベルローズの手からは、薬匙が硬い床へと、小さな音を立てて転がり落ちた。
次の瞬間には、回廊の向こうからルシアンが現れる。
彼はほとんど獣そのものの速度で薬室へ踏み込んだ。
そのままベルローズとセレスティアの前に立ちはだかると、二人を背後へ庇うようにして空間を遮断する。
「外に出んなよ」
低く、短く切られた一言だった。
だが、その声に含まれた冷気だけで、室内の空気が一瞬にして凍りつく。
「いえ……、私も行くわ」
「私も。お父様に任せて隠れているわけにはいかないよ」
ベルローズとセレスティアが薬室を出ようとすると、ピピとアマンダも遅れて戸口に姿を現した。
ピピの顔色は珍しく青ざめ、アマンダは窓辺に這う菌糸へ細い指先を触れたまま、琥珀色の目を細めた。
「森が怯えていますね。すべての生き物が、硬く強張っています」
アマンダの声はいつも通り穏やかだったが、だからこそ、その異常さが響く。
一行は前庭まで出て、侵入者を待ち受けた。
やがて、薔薇が咲く前庭の向こう、立ち込める霧を割って、侵入者たちが姿を現した。
まず目についたのは、悍ましい異形だった。
複数の動物の骨格を、魔術的に無理矢理繋ぎ合わせたような、歪なキメラの群れ。
金属製の外殻を嵌め込まれ、青白く脈打つ魔導回路を露出させた、王都の禁忌の研究の産物たる兵器群。
その背後には、かつて王都魔導院に所属していたと思われる、白衣を纏った残党たちが整然と列をなしている。
だが、その異様な集団の中心に立つ少年だけが。
まるで別の清潔な世界から切り離されて、そこに置かれたかのように、不自然なほど整っていた。
夏の不透明な朝光を受ける、眩い金髪。
一点の曇りもない、深い碧眼。
指先一つ汚さない、完璧に整えられた白銀の衣服。
そして、その顔立ちに張り付いた、感情の揺らぎを感じさせない無表情。
ベルローズの呼吸が止まった。
世界から、すべての音が消え去る。
目の前にいるのは、確かに一人の少年のはずだった。
だがその輪郭はあまりにも鮮明に、彼女が心の奥底に封印したはずの過去の亡霊を連れてきていた。
灰色の王都の、冷たい石造りの屋敷。
すべてを機能として管理される、白い廊下。
鉄格子越しに見上げた、自由のない狭い空。
そして、王都の規律に押し込められていた自分に、初めて差し伸べられた白手袋の手。
あの頃のヴィクトルが、時間を歪めて再び目の前へ現れたかのような、強烈な錯覚が彼女の精神を侵食する。
ベルローズの細い指先が、目に見えて震え始めた。
体温が急激に上昇し、角が熱を帯びていく。
少年は、前庭の庭園をぐるりと見まわした後、その美しい唇を開いた。
「初めまして、魔女ベルローズ」
その声は穏やかで、繊細な楽器が放つ音色のように美しかった。
だが、そこには人間が本来持つはずの、体温や情緒といった温度が存在しない。
彼はベルローズを見つめ、標本を観察するような沈黙を置いた。
「……随分と、劣化しましたね」
その瞬間、ベルローズの視界が大きく歪んだ。
違う、彼はヴィクトルではない。
目の前にいるのは別の人格だ。
理性がそう叫んでいるのに、脳が、記憶が、それを拒絶する。
出会ったばかりのあの男に、あまりにも似すぎていた。
整った顔立ちだけではない。
他者を見る時の、冷酷な視線の置き方。
相手を測定し、価値を査定するような特有の沈黙。
そして、状況に合わせて完璧に模倣された、偽りの微笑。
それらすべてが、かつて自分を美しい檻へ閉じ込め、魔力炉の部品として扱ったあの男、そのものだった。
「ヴィクトル……?」
無意識に名を呼んだ唇が、恐怖のあまり凍りつく。
その名を再び口にした事実、そのものへの嫌悪だった。
少年は、小首を傾げて答える。
「違いますよ。ユリウス。それが僕に与えられた名です」
やはり、感情の揺らぎはない。
動揺も不快感も、あるいは懐かしささえも、そこには存在しなかった。
ただ、自分へ登録された情報を淡々と訂正する、無機質な声だった。
ベルローズはその瞬間、奇妙な眩暈に襲われる。
目の前にいるユリウスという少年を見ているはずなのに、同時に、過去の呪縛に囚われていた頃の自分自身までが、視界に重なっていく。
王都へ人質として送られ、孤独だった少女の自分。
誰かに救われたいと、心のどこかで願ってしまっていた、無知な自分。
そして、あの白い手袋の手へ、縋るように触れてしまったあの日。
(……あの頃の私が、まだ私を見ている)
その圧倒的な窒息感に、ベルローズの身体は硬直した。
そして、その深刻な異変に、誰よりも早く気づいたのはルシアンだった。
彼はベルローズとユリウスの視線を遮るように、大きな背中で一歩前へ出た。
その動作そのものは、極めて静かなものだ。
それでも彼の喉奥からは、もはや隠しきれない、獣そのものの低い唸りが漏れ出ていた。
耳は頭部に伏せられ、唇の隙間から鋭い牙が覗く。
彼の全身から溢れ出した氷の魔力が、周囲の石床を瞬時に白く凍りつかせ、気温を急激に引き下げていった。
ユリウスはそこで初めて、真っ直ぐにルシアンへと視線を移した。
その碧眼に、ようやく生態を観察する、興味の色が浮かぶ。
「ああ。魔女の番だという、蒼い幻獣ですね」
ユリウスは、ゆっくりと目を細めた。
「データとしては知っています」
その一言が、ルシアンの瞳から理性の温度を消し去った。
目の前にいる存在は、ベルローズを、そして自分を。
人間としても生き物としても、見ていない。
かつてのヴィクトルと同じように、ただ、観察対象として。
国家の効率のために利用すべき、機能として。
解析し、解体すべき生物として見ている。
ルシアンの放つ魔力が、熱い夏の空気を支配し、激しい冷気の渦へと変えていく。
ドラクロワの領域へと侵入した白銀の亡霊へ向けられた、剥き出しの殺意がそこにはあった。




