第78話:予感 ―境界へ近づく影―
盛夏へ移り変わろうとする禁忌の森は、むせ返るような生命の予感に満ちていた。
その濃厚な大気の中を、セレスティアは小さな編み籠を抱えて歩を進めていた。
細い指先が、棘の多い低木の隙間から濃紫色の木の実を慎重に摘み取っていく。
籠の底には、すでにいくらかの実が積もっていた。
禁忌の森の外縁という限られた領域でしか採れないその実は、夏の厳しい熱を和らげる、優れた薬効を持つとされている。
(私が、あんなこと言ったからだよね……)
セレスティアは歩みを止め、小さく息を吐いた。
ここ数日、ベルローズの横顔には、どこか心ここにあらずといった空白が混ざっている。
原因が、自分が何気なく口にしてしまった金髪の少年の話にあることは明白だった。
母の心を乱してしまったという痛みが、小さな胸をじりじりと焦がす。
だからせめて、少しでもその役に立ちたかった。
この実を持ち帰れば、ベルローズは元気を取り戻し、自分を褒めてくれるかもしれない。
その期待は幼く、ひどく慎ましいものだ。
それでも今のセレスティアにとっては、世界で最も大切な願いだった。
木々の隙間を渡る風はぬるく、周囲は静まり返っていた。
不意に、セレスティアの足が止まり、耳がぴくりと動く。
(何かおかしい。……静かすぎる)
本能的な違和感が、背中の産毛を逆立たせる。
小型の魔物が低木を揺らす気配や、遠くの縄張りで蠢く獣の低い唸り。
本来ならば絶え間なく大気に混ざり込んでいるはずのそれらが、今は途絶えている。
恐怖がじわりと、足元から這い上がる。
彼女の尾は無意識のうちに、自らの足を縛るように、きつく絡みついて揺れた。
その時だった。
緊迫した静寂を切り裂くように、背後から柔らかな声が落ちてきた。
「また会ったね、セレスティア」
身体が反射的に強張った。
振り返るよりも早く、胸の奥で警鐘が鋭く鳴り響く。
指先から力が抜け、抱えていた籠が湿った地面へと滑り落ちた。
編み目の隙間からこぼれ出た濃紫色の実が、青白い苔の上を鈍く跳ね、じわりと果汁の赤黒い染みを広げていく。
ゆっくりと振り返ったセレスティアの視線の先に、その少年は立っていた。
「……ユリウス」
陽光を浴びた金髪は、薄暗い森の背景の中で、相変わらず不自然なほどに眩く輝いていた。
その碧い瞳は曇りなく、澄み切った水面のように穏やかだ。
だが、何よりも異質だったのは、彼の佇まいそのものだった。
淡色の上着には土埃ひとつ、泥の跳ね返りひとつ付いていない。
夏の湿気を含んだこの険しい森を歩いてきたとは到底思えないほど、彼の衣服は完璧に清潔だった。
最初からそこに置かれていた、精巧な人形のように。
「ごめん、驚かせたかな」
ユリウスは眉を少し下げ、困ったように微笑んだ。
その仕草は柔らかく、親しげだ。
けれど、セレスティアの身体は一歩も前へ動かなかった。
近づいてはならないと、全身の血が激しく拒絶を訴えている。
「……どうして、ここにいるの?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど硬く、警戒に満ちていた。
ユリウスはセレスティアの問いには答えず、足元に散らばった木の実へと視線を落とした。
彼は流れるような美しい動作でしゃがみ込む。
そして、汚れることも厭わない様子で、その白い指先で実を一粒ずつ丁寧に拾い始めた。
「この辺り、空気が少し変わっているよね。森なのに、妙に静かで」
拾い上げた実の泥を、彼は指先でそっと拭う。
「気になってなんとなく歩いていたら、君を見つけたんだ」
その言葉に、セレスティアの耳がぴくりと跳ねた。
この森の異常な静けさに、彼も気づいているのだ。
その異変を理解した上で、一般人なら決して立ち入らないこの境界の深くまで、何食わぬ顔で踏み込んできている。
ユリウスは拾い集めた実を籠へと戻し、ふと顔を上げた。
その完璧な造形の顔が、まっすぐにセレスティアへ向けられる。
「ドラクロワ城って、この先なんだよね」
セレスティアの背筋を、氷のような冷たい戦慄が駆け抜けた。
「なんで……、その名前を、知ってるの」
「この辺りの交易地点とか、集落にいる人たちが話してくれたんだよ」
ユリウスは立ち上がり、小首を傾げた。
碧い瞳の奥には、やはり何の感情の揺らぎもない。
「森の奥深くに、誰も近づけない、薔薇の咲く古い城があるって。君、そこから来ているんでしょう?」
その瞳はあまりにも平静で、底がまったく見えない。
こちらの出方を観察しているのに、純粋な好奇心も、未知への恐怖も存在しなかった。
ただ、淡々と対象を測定している。
「近づかない方が、いいよ」
セレスティアは、無意識にそう口にしていた。喉の奥が引き攣れるように熱い。
ユリウスは小さく瞬きをした。
「どうして?」
「……危ないから」
本当は違う。ただ、直感が告げていた。
この少年を、あの静寂に満ちた城へ近づけてはならない。
自分を包み込んでくれる居場所に、この冷たい光を連れて行ってはならないのだと。
ユリウスはしばらくの間、何も言わずにセレスティアを見つめていた。
その静止した時間は長く、息苦しく感じられた。
やがて彼は、ふっと均整の取れた唇を和らげ、困ったように笑った。
「君って、優しいのに警戒心が強いんだね」
その言葉を受けた瞬間、セレスティアは耳をさらに深く伏せ、一歩後ろへと身を引いた。
自分の中に流れる血が、目の前の美しい少年を敵として認識し、牙を剥こうとしている。
彼女は今、初めて明確に理解し始めていた。
◆
同じ頃、ドラクロワ城の広大な中庭では、張り詰めた空気が爆ぜていた。
夏の日差しが照りつける石畳からは、白く陽炎のような熱が滲み出ている。
その空間を切り裂くように、ルシアンのしなやかな体躯が鋭く躍動していた。
彼の正面で構えているのは、ピピの魔術によって作り出された、頑強な石の人形だ。
ルシアンの指先から放たれるのは、鋭利な刃物にも勝る魔力の爪。
彼が腕を振るうたびに、中庭の熱気を打ち消すような冷気が細く白い尾を引き、石畳に霜の軌跡を残していく。
少し離れた日陰で、ピピは腕を組み、不機嫌そうに溜め息をついていた。
「ちょっとルシアン! だから床まで割るなって何度も言ってるだろ」
ピピが声をかけたとき、ルシアンの動きが、急に静止した。
石人形の繰り出した重い拳が、彼の鼻先寸前で止まる。
ルシアンはそれに見向きもせず、サファイアブルーの瞳を限界まで鋭く細めていた。
直後、彼の右腕に無意識かつ、圧倒的な力が奔った。
制御を外れた氷の魔力が、轟音もなく、ただ結晶の爆発となって前方の空間を支配する。
一瞬にして、目の前にあった頑強な石人形が、上半身ごと粉々に吹き飛んだ。
凍りついた石の破片が、硬い音を立てて中庭の四方へと散乱していく。
白い霜の波が、生き物のように石畳を這い、ピピの足元を掠めて止まった。
ピピは灰色の瞳を丸くし、呆然とそれを見つめた。
「……何? 急にどうしたのさ」
はじめは怒鳴ろうとしたピピだったが、ルシアンの尋常ではない様子に、言葉を飲み込んだ。
ルシアンの耳は、普段の退屈そうな形を捨て、禁忌の森の方角へ向けられている。
広い背中が微かに波打ち、喉の奥から、低く、押し殺したような唸りが漏れていた。
「……近ぇ」
ルシアンの濃藍色の尾は膨らみ、毛並みが逆立っている。
彼が漏らしたのは、底知れぬ憎悪と警戒が混ざり合った、本能的な声だった。
ピピの背の結晶質の羽が、空気の緊張を察知して微かに震える。
「ルシアン? 何が来てるって……?」
ピピが声を低くし、真剣な面持ちで尋ねる。
ルシアンは森の境界線を睨みつけたまま、短く、拒絶を込めて吐き捨てた。
「……気に入らねぇ匂いだよ」
◆
夕暮れ時、ドラクロワ城の薬室には、薄紫色の夕光が差し込んでいる。
セレスティアは城へ戻ると、すぐにベルローズの元へと向かい、持ち帰った編み籠をそっと差し出した。
傷ついた実はあらかじめ取り除き、綺麗なものだけが並んだ籠。
籠の中を覗き見て、ベルローズはその深紅の瞳を揺らした。
「あら……、これを採りに行っていたの?」
「うん。滋養にいいって、エマが言っていたから。お母様に、少しでも楽になってほしくて……」
セレスティアの声は、少しだけ震えていた。
森での出来事をどう伝えればいいのか、分からない。
彼女はただ、目の前の母に縋るような視線を向ける。
ベルローズはしばらく娘を見つめていたが、やがて温かさを宿した微笑みを向けた。
「ありがとう。大事にいただくわね」
ベルローズは、細く白い指先で濃紫色の実をひとつつまみ上げると、それを口へと運んだ。
特有の強い酸味と、仄かな苦味が口内に広がる。
野生の力強さを持った、この土地の味だった。
母がそれを受け入れてくれたのを見て、セレスティアはようやく、胸の奥の重苦しい塊が、少しだけ軽くなったように思えた。
けれどその小さな安堵は、夜の訪れとともに容易く塗り潰されることになる。
夜が更けるにつれ、城全体へ、肌を刺すような奇妙な緊張感が満ち満ちていった。
ルシアンは中庭に面した回廊の、影の濃い場所に立ち尽くし、ただひたすらに森の方角を見つめ続けている。
月光を浴びた彼の横顔は鋭く硬直し、サファイアブルーの瞳が、闇の中で妖しく冷たい光を放っていた。
耳の先だけが、絶えず微細な空気の振動を拾うように動いている。
寝台に入ったセレスティアもまた、どうしても目を閉じることができずにいた。
寝具をきつく握り締め、窓の外の深い闇を睨みつける。
あのユリウスという少年は、今日、確実にこの城のすぐ近くまで迫っていた。
そして、森はその存在を拒絶するように静まり返っていた。
遠く、王都との境界線から、何かが確実に、こちらへ向けて歩みを進めている。
まだ姿は見えない。何の音も聞こえはしない。
だが、冷徹で、完成された秩序の気配だけが、夜のドラクロワ城をゆっくりと侵食し始めていた。




