第77話:白銀の亡霊 ―魔女の記憶―
夜のドラクロワ城は、昼間よりもずっと静かだ。
ベルローズは一人、薬室の硬い樫の木の作業台の前に立ち、乾燥させた薬草を刻んでいた。
熱病の薬に使う補助草の配合を整えるための作業だったが、彼女の手元は、いつになく遅かった。
小刀の刃は正確に葉脈を断ち、乾いた葉は細やかな緑の破片となって、皿の上へ静かに積もっていく。
規則的な指先の動きとは裏腹に、彼女の意識の奥底には、セレスティアが朝食の席で口にした言葉が残り続けていた。
『金髪と青い目が、とっても綺麗な子だったの』
ただ、それだけの情報だったというのに。
金髪に碧眼の少年など、王都の社交界にも、地方の没落貴族にもいくらでも転がっている。
整った顔立ちも、他者を惹きつける丁寧な物腰も。
辺境では珍しいというだけで、この広い世界においてあり得ないものではない。
まして、あの男、ヴィクトル本人であるはずがなかった。
彼はこの城を攻めた末、魔導兵器の暴走に巻き込まれ、彼女の目の前で確かに死んだはず。
万が一生きていたとしても、彼がセレスティアと同年代の少年の姿で森に現れるなど、通常の理屈では考えられない。
ベルローズはそう何度も、自身の理性へ言い聞かせた。
だが、頭の中で否定を繰り返すたびに。
身体の底に沈んでいた古い記憶が、冷え切った指先で彼女の喉元をじわりと撫で上げるように蘇ってくる。
ふと、小刀の薄い刃が、窓からの月光を白く反射した。
その鋭い光の残像が、かつて自分を縛り付けていたあの白手袋の無機質な質感と重なる。
ベルローズの指が、完全に動きを止めた。
乾燥した薬草の匂いで満ちていた薬室の暗がりが、一瞬にして遠のいていく。
代わりに、煤煙に汚れた王都の、あの灰色の空が意識の境界を侵食するように広がった。
石炭の煙が混ざった、喉を刺すような冷たい空気。
そして、磨き上げられた硝子に映る、自分自身の姿。
日に日に禍々しい存在感を増し、強大すぎる魔力を蓄えた、漆黒の角。
周囲の人間から忌避される理由を、勝手に増やしていった。
その歪な自尊心の傷口へ、滑り込むように差し込まれたもの。
感情の起伏を完全に削ぎ落とした、あの澄んだ声だった。
ベルローズは、そっと目を閉じた。
忘れたはずだった。
忘れられるはずがないと、骨の髄まで知りながら。
それでも終わったこととして、胸の奥に封じ込めていたはずだった。
少年だった頃のヴィクトルの金髪は、王都の陰鬱な灰色の中で、不自然なほどに明るく輝いていた。
その碧い瞳は吸い込まれそうなほど美しく、そしてどこまでも冷たかった。
あの頃の彼は確かに、自分だけを真っ直ぐに見つめていた。
その視線を、孤独に震える一人の少女へ向けぬままで。
内に秘められた魔力の奔流、頭部に生えた角の構造。
心の亀裂、道具として使えるか。
磨けばより高い出力を出せるか。
徹底的に制御すれば、国家の資産という完璧な価値に変わるかどうか。
彼はベルローズを愛してはいたが、彼女の肉体の中に潜む機能としての可能性を、冷徹な観察者の目で正確に値踏みしていた。
それなのに、あの頃の閉ざされた世界にいた自分は、その歪な視線こそを唯一の救いだと思い込んでしまった。
(……違う。幼かったからではない、愚かだったからでもない)
ベルローズは心の内で、自分自身に冷酷な言葉を突きつける。
(私はただ、救われたかった)
誰でも良かったわけではない。
けれど、暗闇の中で差し伸べられる手なら。
それがどれほど冷たいものであろうと、縋るには十分すぎた。
角を隠せと罵らず、強すぎる魔力を恐れず。
異形として目を逸らさずに、自分という存在の利用価値を認めてくれる。
そんな誰かが欲しかった。
だからこそ、ヴィクトルが囁く言葉は、飢えた心にとってあまりにも甘美だった。
『君の価値を、その痛みを、そして君という存在の真理を正しく理解できるのは、世界で僕だけだ』
その言葉に、熱い慈しみなど一滴も含まれていなかったのは、今なら分かる。
そうだとしても。
当時の彼女には、それまで誰一人として差し出してくれなかった、絶対的な救済そのものに聞こえた。
ベルローズの指先は、知らず知らずのうちに小刀の柄を強く握り締めていた。
指の皮膚が白く強張り、刃の冷たさが手のひらの肉へじりじりと食い込んでいく。
彼女は胸の奥の動揺を押し殺すように、ゆっくりと深く息を吐き出す。
そして、小刀を作業台の上へ静かに置いた。
遮断されていた感覚が戻り、乾燥した薬草の苦い香りが再び鼻腔を満たす。
(……大丈夫。ここは、王都ではないのよ)
灰色の雲も、鉄格子も、指先一つ汚さないための白い手袋もない。
今自分がいるのは、禁忌の森の奥深くに佇むドラクロワ城の薬室。
感じ取れるのは、夜風に運ばれてくる薔薇の匂い。
そして、中庭の方向から微かに流れてくる、深く穏やかな、蒼い魔力の気配だった。
それでも、刻まれた記憶は消えない。
ヴィクトルは彼女を、都合の良いように定義しただけだ。
彼は言葉のすべてを磨き上げ、優雅な仕草で差し出した。
その実、ベルローズという人間の輪郭を、少しずつ削り落とした。
あの白いドレスの締め付けを思い出すと、今でも息が浅くなる。
自分が調整され、国家のための完成品へ近づけられていただけだったのだと気づいた時には、もう遅かった。
彼女の内側には、すでに彼の植え付けた呪縛の声が、深く、引き抜けないほど根を張ってしまっていた。
金髪と、青い目の少年。
それが、ただの偶然であればいい。
セレスティアが本能的に怯えたのも、彼女自身の過敏な警戒心が原因であればいい。
森の気配が異様にざわついているのも、夏の魔力が一時的に乱れているだけのものであれば。
そう願う冷徹な理性の裏側で、ベルローズはすでに理解していた。
過去とは、時間が経過したからといって消え去るものではない。
一度、完全に封じ込めたと思った傷口。
それは、かつてそれをもたらした存在と同じ色に触れただけで、いとも容易く、生々しく裂けてしまうのだということを。
薬室の重い木製の扉が、一切の予兆なく、静かに軋んだ。
「……また、余計なこと考えてたろ」
低い、抑えられた声が、背後の暗がりから落ちてくる。
振り返ってその姿を確認するまでもない。
彼は普段、野生の幻獣特有の威圧感を周囲に漂わせている。
そのくせ、こういう時だけは、信じられないほど完全に気配を消して彼女の背後へと立つ。
ベルローズは睫毛を伏せたまま、その問いを否定しなかった。
感情を削ぎ落とした、淡々とした声で返す。
「ええ。もう終わったはずの亡霊の影を、少しね」
ルシアンはしばらくの間、何も言わずに沈黙していた。
回りくどい言葉をかけることもなければ、安易な慰めを口にすることもしない。
ただ、彼女のすぐ傍まで歩み寄ると、作業台の上に置かれた小刀と、半分しか刻まれていない薬草の山へ、視線を落とした。
それから、いつものように躊躇うことなく、ベルローズの細い肩へ大きな手を触れさせる。
「終わったかどうかなんざ、傷に聞くもんじゃねぇだろ?」
ぶっきらぼうに短く切られたその言葉に、ベルローズは静かに顔を上げた。
間近にあるルシアンの瞳は、王都の空の色を映したあの冷徹な青とは、決定的に違っている。
氷のように澄み切っているのに、その奥には、確かに今を生きている猛々しい熱が宿っている。
ルシアンは、魔女としての高い利用価値があるから傍にいるのでも、彼女の孤独の真理を知っているから手を伸ばすのでもない。
ただ、そこにベルローズという存在が生きているから、触れる。
角があっても、内に秘めた激しい激情があっても。
矯正すべき欠陥だと定義したことは、一度もなかった。
「……あの男は、私のすべてを理解しているつもりだったでしょうね」
ベルローズは、ぽつりと乾いた声を漏らした。
ルシアンが肩に触れているこの余白の中だからこそ、吐き出せる言葉だった。
「私の価値も、痛みも、存在も……。自分だけが正しく知っているのだと、本気で信じて疑わなかった」
ルシアンの濃藍色の髪から覗く耳が、微かに後ろへと伏せられる。
言葉には出さない深い嫌悪が、彼の整った顔立ちを、硬く強張らせていた。
「なら、見る目がねぇな」
あまりにも短く、容赦のない、乱暴なまでの否定だった。
ベルローズは思わず、その深紅の瞳を微かに揺らして瞬きをした。
ルシアンは、彼女の視線を真っ直ぐに受け止めたまま言葉を続ける。
「あんたは、あいつが決めた形の人間じゃねぇだろ。価値だの真理だの、知ったようなことを並べて、勝手に都合のいい箱へ詰めただけだ」
ベルローズの喉の奥が、わずかに震えた。
彼女が王都で過ごしてから、長い時間が流れた。
愛する者との間に娘が産まれ、大きく成長するほどに。
ヴィクトルの支配が歪んだものであったことなど、理屈の上ではとうに理解していたはずだ。
けれど、ルシアンに飾らない、芯の通った声で突きつけられると。
その事実が初めて、彼女の身体の奥へと染み渡っていくのを感じる。
ルシアンは彼女の肩から、結晶化した角の根元へと、長く整った指先をそっと移動させた。
過去の記憶を呼び覚ました負荷が、彼女を蝕んでいた。
その過敏な部位には、不快な熱がじわりと立ち上り始めている。
ルシアンの氷の魔力が滲み出ると、過剰に昂ぶっていた角の発熱が、心地よい冷気によって鎮められていった。
「待って」
冷却を終え、角から離れようとした指先を、ベルローズがそっと押しとどめる。
彼女は揺らぐ瞳を隠すように睫毛を伏せ、わずかに躊躇しながらも口を開いた。
「……もう少し」
「なんだよ、命令か?」
ルシアンは首を傾げ、彼女の深紅の瞳を覗き込んだ。
ベルローズは彼を見つめ返すと、微かな笑みを浮かべる。
その笑みが、ルシアンの心にそっと安堵の火を灯していく。
「いいえ。あなただから『お願い』しているのよ。ルシアン」
「……甘ったれやがって。しょうがねぇな」
呆れを装いながらも、再度添えられたその指先は、どこまでも優しい。
薬室の窓の外では、夜風に揺られた薔薇の葉が、さらさらと微かな音を立てていた。
夏の闇は深い。
禁忌の森を経由して流れ込んでくる不穏な空気は、未だに不気味な気配を孕み続けている。
けれど、過去の亡霊が、どれほど美しく完璧な金色の姿を模して現れようとも。
自由を奪うための白いドレスでは、今のベルローズを繋ぎ止められないだろう。
自身の角へ触れ、その熱を分かち合おうとする。
野生の熱を宿した彼の、大きくて誠実な手。
今の彼女を支えるのは、ただそれだけだった。




