第76話:森が息を潜める時 ―獣の正しさ―
夏の陽射しは日に日に強さを増し、エマの暮らす集落にも活気が戻っていた。
病が最も酷かった頃の、あの澱んだ泥のような沈黙が嘘のようだった。
民家の簡素な石積みの煙突からは、焼き上がった黒パンの香ばしい匂いが細い煙となって青空へ溶けていく。
病に伏せっていた老人たちは家の前へ椅子を出し、心なしか軽くなった身体を伸ばして日向ぼっこを楽しんでいた。
子供たちは乾いた土埃を上げながら楽しげに駆け回り、青々とした夏草を踏みしめる小さな足音が、村のあちこちへ軽やかに散っている。
その日もセレスティアは、薬草と補助用の蜜を詰めた古い藤籠を抱え、ひとりで集落を訪れていた。
エマはいつものように村の境界まで迎えに来ると、嬉しそうに顔を綻ばせ、セレスティアの手を引くようにして集落の中心へ連れていく。
井戸から水を汲むために立ち上がることすらできず、ただ藁の寝床で荒い息を吐いていた大人たち。
それが、今は互いに笑い合い、声を掛け合いながら薪を運び、畑を耕していた。
その変化は確かに尊く、眩しかった。
だからこそセレスティアも、この小さな集落を好きになっている。
だが、その穏やかな空気の中へ、最近はあるひとつの名前がごく自然に、そして確実に混ざり始めている。
「いやぁ、本当に助かったよ。あの金髪の坊ちゃんが荷車を押してくれなかったら、今日中にすべての麦を運び終わらなかった」
井戸小屋の近くで太い麻縄を巻き直していた老人が、感心したようにそう言って笑った。
陽に焼けた皺だらけの顔には、一片の疑いもない心からの感謝が浮かんでいる。
「あんなに細っこい見た目をしてるってのに、案外力もあるんだよなぁ。言葉遣いも丁寧で、物腰も柔らかい」
周囲で作業をしていた大人たちも「わかる、わかる」と深く頷き合う。
誰もがその名に対して好意的だった。
病人の家を自ら訪れては重い水桶を運び、硬い株を割り、薬鍋の火を絶やさぬよう手伝う。
困っている者を見つければ、求められるより先に自然に手を差し伸べる。
ユリウスという少年は、この集落の人々から見れば、天から遣わされたのではないかと思えるほど完璧な善人だった。
「ユリウスって、本当に優しいよね」
エマもまた、誇らしげにそう言って笑った。
彼女にとってユリウスは、怪我をして森の境界で困っていた哀れな旅人から、今では集落全体を支えてくれる頼れる知人へ変わりつつあるのだろう。
セレスティアは、エマの笑顔に曖昧な微笑みを返すことしかできなかった。
彼を否定する理由は、客観的に見ればどこにもない。
ユリウスは実際、誰に対しても平等に優しく接している。
困っている人を助け、子供の目線に合わせて穏やかに語りかけ、礼儀を欠かさない。
非の打ち所がない少年だった。
それなのに、彼の名が誰かの口から零れるだけで、セレスティアの耳の奥がじわりと熱を持つような、言いようのない不快感が消えないのだ。
「……セレスティア?」
エマが不思議そうに、顔を覗き込んできた。
セレスティアははっとしたように小さく瞬きをし、耳を揺らして首を振る。
「ううん、何でもないの」
そう答えながらも、彼女の尾は無意識のうちに拒絶を示し、自身の身体へきつく巻きつくようにして小さく揺れていた。
その時集落の外れ、森へと続く未舗装の細い道から、一匹の犬が激しく吠え立てる声が響いた。
穏やかだった広場の人々が、一斉にそちらを見る。
そこにいたのは、集落で飼われている痩せた茶色の番犬だった。
普段は人懐っこいその犬が、今は耳を限界まで後ろへ伏せ、牙を剥き出しにしながら、一人の少年へ向かって低く唸り声を上げている。
夏の強い陽光を受けて柔らかく輝く、濁りのない金髪。
涼やかな、どこまでも澄んだ碧い瞳。
ユリウスだった。
彼は切り出してきたばかりの薪束を両腕に抱えたまま、足元で狂ったように吠える犬を、困った顔で見下ろしている。
「……嫌われちゃったみたいだね」
小さく苦笑するその姿は穏やかで、突然の敵意に対しても、怒りも苛立ちも一切見せない。
ただ、本当にどうしていいか分からないといった風に、眉を下げて笑っている。
集落の女たちは「あらあら、この子ったら」と苦笑しながら、犬の首輪を引いて宥めようとした。
「珍しいねぇ。この子、普段は滅多に人にこんな吠え方はしないのに。お腹でも空いてるのかね」
だが、犬は唸るのをやめなかった。
尾を股の間に巻き込み、全身を震わせながら、喉の奥から掠れた声を漏らし続けている。
敵に対する威嚇というよりは、異物に対する拒絶に近いものだ。
セレスティアは、その光景から目を逸らせなかった。
違和感が、胸の内でじりじりと広がっていく。
ユリウスの表情は完璧だ。
困ったように微笑み、犬を刺激しないよう一定の距離を保ち、相手を気遣うような視線を送っている。
けれど、その困り方があまりにも美しすぎる。
人間が突発的な事態に驚いたり、戸惑ったりする時に必ず生まれるはずの、筋肉の強張りや視線の揺らぎが、彼の顔には存在しないのだ。
まるで、あらかじめ用意された『困っている完璧な人間』の型を、そのまま顔の上に滑り込ませて、演じているような気にもさせられる。
近くの古い木へ止まっていた数羽の鳥たちが、一斉に羽音を立てて空へ飛び立った。
羽音自体は決して大きくはなかったが、その逃げ方は異様だった。
急激に、直線的な軌道で集落から距離を取っていく。
ユリウスはそれを見上げ、ほんの少しだけ、長い睫毛の奥にある目を細めた。
「鳥にも嫌われてるみたいだ」
冗談めかした、軽い口調だった。
周囲の大人たちは「あんた、都会育ちだから動物に警戒されやすい匂いでもあるんじゃないの」と声を上げて笑っている。
エマもその言葉につられて笑ったが、セレスティアだけが、どうしても笑えない。
彼女の耳は、髪に沈み込むほど深く伏せられたままだった。
生温かい夏の風が吹き抜ける。
本来ならそこには、青々とした夏草や湿った土の匂いが混ざって流れるはずだが、その風はどこか不自然に薄かった。
森の奥から聞こえる羽虫の細い音も、茂みを駆ける小動物の気配も、今日のこの空間では妙に遠く、切り離されているように思える。
禁忌の森は、本来もっと騒がしく、混沌とした場所だった。
木々は魔力を孕んでざわめき、虫は不穏に鳴き、魔物たちは互いの縄張りを主張するように生々しい気配を大気に滲ませている。
けれど最近の森は、それらが異様なほど静かだ。
まるで森全体が、何かの巨大な気配を察知して、呼吸を止めて息を潜めているように。
セレスティアは無意識のうちに、自分の細い腕をきつく抱き締めていた。
その時、不意に胸の奥へひとつの確信が浮かび上がる。
(……お父様だったら)
城でいつも自分を守ってくれる、あの頼もしい背中。
(お父様だったら、この人を近くに寄せ付けない。きっと、嫌がると思う。理由は……、わからないけど)
ユリウスは優しいし、誰も傷つけていない。
むしろこの集落のために、進んで労働を手伝っている。
けれど、ルシアンならきっと、彼を見たら本能的に獰猛な牙を剥くだろうと、確信に似た予感があった。
彼女の内に流れる、古の幻獣の血が告げている。
この存在を、これ以上私たちの領域へ近づけてはいけないと。
夕方が近づく頃、集落の人々はすっかりユリウスを仲間として受け入れていた。
集まった子供たちは彼の細い腕にぶら下がり、彼もまた穏やかな笑みを一切崩さずにその相手をしている。
西日に照らされた彼の金髪はどこまでも美しく輝き、その碧い瞳は一点の曇りもなく澄んで見えた。
誰が見ても、そこにいるのは親切で美しい旅人の少年だった。
なのに、セレスティアの耳だけが、陽が落ちるその瞬間まで警戒の形を変えることはなかった。
そして彼女はまだ知らない。
自身の内側で鳴り続けている、その静かな警鐘こそが。
父であるルシアンの血から確かに受け継いだ、野生の獣としての正しさだということを。




